どこかのだれかの日々の記 禹条リキ 編 その1

文学の一ジャンル。自由な形式で書かれ、見聞、経験、感想などを気のむくままに書き記した文章。随筆

日本国語大辞典 第二版


2041年5月10日 風呂

果たして風呂というものはそんなに重要なものなのだろうか。確かに人類は古来より川や湖などで水浴びをして身を清めてきたし、「風呂」という概念が誕生する事で「衛生」という概念も広まった。またそれを内包する文化が発展する事で今や誰しもが自由に風呂を享受し、清潔さを保持できるようになった。

ただ、風呂と共に清潔さを保持する為の文化というのは発展してきているのだから日常生活に於いて汚れようとしなければそこまで汚れる事もないはずだ。

ではなぜそこまでして風呂に入りたがるのか。

あくまで私の考察だが、そこには「マナー」という曖昧な概念が関わっているのではないだろうか。

世間一般的に「3日風呂に入っていない人」より「昨日風呂に入った人」の方が綺麗だという事だが、例えばその「3日風呂に入っていない人」が「3日間何もせずに無菌室にいた人」で「昨日風呂に入った人」が「ついさっきまでハードな運動をしていた人」ならどうだろうか。恐らく「3日風呂に入っていない無菌室で過ごした人」の方がマシなのではないだろうか。

個人的に「衛生に関するマナー」というのは見た目だけでなく、自身が様々な菌やウイルスを持っていると仮定し、それを相手に移さないという事のような気がしている。

ただそれは不特定多数の人と関わる生活をしているから起こるのではないか。

私は毎日決まった時間に起き、決まった時間に誰もいない道を通り大学へと行き、決まった時間に自分以外誰も座らない席に座り、決まった時間に授業を終え、決まった時間に図書館の誰もいない一角で過ごし、決まった時間に誰もいない道を通り帰る。買い物はネットで済ます。この生活で関わる人は知っている人しかいない。体を少し拭けばそれで済む生活のはずだ。

この生活の一体どこに毎日風呂に入る必要性があるのだろうか。

電気と水の無駄だ。1週間とか半月に1回ほどでいいのではないか。

体臭も無いし服も変えているし部屋もそれなりに清潔にしている。自らの考えが世間に受け入れられ難いものだと分かっているからある程度気をつけている。

なのになぜあそこまで見ず知らずの、ただ構内ですれ違っただけの人に言われなければいけないのだろうか。

本当に意味が分からない。



2041年7月15日 縁

教育実習に向かう学校が決まった。大学から少し遠いが通えない事はないほどの距離にある高校だ。本当は母校に行きたかったが、もう既に別大学からの実習生が決まっているらしい。少し残念だったが、私が向かう高校が嫌という訳では全くない。親戚や父の母校であるので、間接的ではあるが関係がある。そういう高校に行けるのも何かの縁という事だろう。

「縁」という言葉をあまり使いたくはないが、今回ばかりはたまたまその高校になったのだから「縁」というしかないだろう。ただ何度も言うが出来る限り「縁」という言葉を使いたくはない。

基本的に「縁」という言葉を使う時には「良縁」という意味で使う事が殆どだろう。だが「良縁」という言葉がある事が暗に示しているように「悪縁」というものも存在しているはずだ。だが、大抵の人はそこに目を向けず、自分に都合の良い事象にだけ「縁」という言葉を使う。そんな自分勝手な事をしていいのだろうかと常々思っている。

そもそも世間一般に意味する「縁」なんてものは存在しないだろう。カオスから出力された事象が結果として自らに都合の良いものになった場合に理由づけとして「縁」という言葉を使っているに過ぎず、なぜそこに理由を求めるのかが理解出来ない。そんなにその理由が大事なのだろうか。

中には「縁に寄りかからないと不安だ」という人もいると聞くが、そんなよく分からないものに縋らないと保てないほど人間の精神とは弱いものなのだろうか。受験期などに「ご縁がありますように」と神頼みする学生もいるが、そんな時間があったら少しでも勉強すべきだろう。人事を尽くした上でも天ではなく、それだけやった自分をまず信じた方が幾分もマシに思える。

今回は「縁」という言葉を使ってしまったが、やはりこれからも使いたくない概念だ。


※ この文章はフィクションです。実在の人物・団体・名称なぞとは一切関係ありません。

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