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東京2020パラリンピックとは何だったのか。極私的3つのレガシー。

「オリパラの開催前、特にコロナ禍に突入する前って、あれだけレガシーレガシー言ってたのに、オリパラが終わったら、誰も何も言わないですよね。実際のところ、東京2020のレガシーって何だったんだろう?

そんな疑問が、私が所属する「東京文化資源会議 スポーツ文化プロジェクト」のミーティングで話題になりました。レガシーって何だったのか、そんなイベントをしよう!という声のもと、こそっとイベントに登壇してきました。

東京2020パラリンピックに「シッティングバレーボール日本代表」として出場したものの、あれから3ヶ月ほど経って、自分にとってパラリンピックとは何だったのか、振り返る機会がなかったのも事実。

ということで、いろいろ振り返ってみると、極私的な3つのレガシーが思い浮かびました。

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レガシー① 親孝行と感謝の気持ち

パラリンピックの開会式。

これでもか、これでもか、というくらいにテレビに映り込んだのですが、多少の自己顕示欲があったことは否定しないものの、少しでも映りこむことで感謝と親孝行の想いが伝えられたら…という気持ちがありました(テレビ画面の画像が貼れないのが悔しい)。

大きなスポーツイベントでアスリートがインタビューに応じるたびに

「ここまで支えてくれた両親や家族に感謝したいです」

という言葉を残していて、自分の性格の悪さも伴って、かなりナナメな態度で「本当に思ってるの?」と疑っていたのですが、あれは本当でした。カメラに向かって手を振っていたのは「これまでお世話になった方々に届け!」という気持ちからでした。

思えば、生まれつき両足と右手が不自由で、36年間身体障害者として生きてきました。

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▲左足とその装具。右足は割愛。

今でこそ、障害に対する偏見や無理解は薄らいできていますが、僕が子どもだった30年前などを想像してみると、かなりの向かい風が吹いていたはずで、障害のある子どもを育てることは並大抵ではなかったのではないか、いろいろな視線や言葉を浴びてきたのではないか、と思います。

当の本人は、周囲の友人にも恵まれ、障害があることを特段意識せずに過ごしていましたが、両親がどのような想いだったのかは分かりません。いい意味で、互いに干渉せず、また理解してほしいという気持ちもなく、ここまで過ごせたことが良かったとも言えます。

ただ、自分になぜ障害があるのか、考えたことがないと言えば嘘になります。それを深刻に考えず、「まあ、仕方ないか」と単純に割り切れているだけ、そんな性格なだけです。

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障害がなければ、パラリンピックに出場することは叶いません。

今回のパラリンピック出場は、障害者としての自分、これまでのすべてを全肯定でき、また、恩返しまでできた最高の機会でした。人生で初めて「親孝行」という言葉が具体的に湧き上がってきた瞬間でもありました。

この感覚はもしかすると、生まれつきの障害者だったからこそ、かもしれません。

このコロナ禍において、否定にだいぶ傾いた賛否両論が渦巻く中で、東京2020オリンピック・パラリンピックが開催されたこと自体、とてもありがたいものでした。

ただ、それ以上に、仕事と競技に没頭できるように支えてくれた(愚痴や不満はいっぱいあると思いますが・笑)家族に、僕らの勝利のため、技術向上のため、心身のサポートのために伴走してくれたスタッフやシッティングバレーボール仲間に、多様な働き方を認めてくれている会社と仕事仲間に、どれだけ感謝しても足りないと感じています。

自分の心に【遺った】ものとして「親孝行と感謝の気持ち」があることは間違いありません。

レガシー② 「障害者」に対するイメージのアップデート

10年ほど前に独立・起業したとき、「独立」や「起業」という響きに、友人だけでなく初めて会うような方々からも「すごい」「素敵」「カッコいい」というような言葉をもらいました。これはモテるな…と調子に乗ったことを思い出します。

その反面、「障害者」という自分の特徴を含めて自己紹介したときには、「大変だったんですね」「素晴らしいですね」というような、個人的にはネガティブに感じてしまう言葉をいくつももらいました。中には「これまで頑張ってきたんですね」と涙ぐむような方も。

同じ「佐々木一成」という人間なのに、「起業家」というタグと「障害者」というタグで、どうしてこんなにも受け取られ方やイメージが違うんだろう。これは今でも考え続けている議題です。

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▲東京文化資源会議イベント「パラリンピックのレガシーを考える」のグラレコ①

今回、東京でパラリンピックが開催されて良かったことは「オンタイムでいろいろなパラアスリートの存在とその素顔が伝わったこと」だと思います。

他の地域で行われる場合、その多くは昼夜逆転なため、本当のスポーツ好きしか見ませんし、メダルを獲ったパラアスリートのニュースしか話題に挙がりません。いわば「パラアスリート=超人」というイメージしか醸成されないのです。これは日本で暮らしていることで生まれる仕方のない事実です。

また「障害を乗り越えて」「障害に負けない」というようなマッチョな世界観と演出がたびたび登場し、その度に障害者同士の間にも、あの人たちと私は違うという、目に見えない壁が生まれます。

その反面、リアルタイムでさまざまなパラアスリートを見る機会を通じて、笑顔で試合を楽しむ姿・互いに称え合う姿・負けて涙する姿など、いろいろな表情や感情を今回は届けられました。

そこで知ったパラアスリートのSNSを通じて、舞台裏の素顔を垣間見て、距離が近付く。

これは一例ですが、なんとなく社会の中にあった「健常者と障害者の分断」そして「一般的な障害者とパラアスリートの分断」が少し薄れるきっかけが生まれたのではないかと感じます。

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▲東京文化資源会議イベント「パラリンピックのレガシーを考える」のグラレコ②

とはいえ、あくまでも「きっかけ」に過ぎません。レガシーは遺産という意味がありますが、それは「モノ」だけではないでしょう。「コト」だってあるはずです。

今を生きる全員に考えてほしいこととして「障害者に対するイメージのアップデート」が【遺された】のではないでしょうか。

レガシー③ パラスポーツ=障害者スポーツではない

シッティングバレーボールの東京2020パラリンピックの結果は、8位入賞。

入賞と言えば聞こえはいいかもしれませんが、4戦全敗の力負けで、世界ランク通りの結果だったと言わざるを得ません。パラリンピックの舞台で感じた世界トップクラスとの差を埋めるべく、2024パリ大会に向けた代表活動はすでに始まっています。

パラリンピック日本代表は全員が障害者ですが、私が所属するチーム「台東スマイル」では、試合に出る障害者は私しかいません。と言うのも、国内の大会では、コートにいる6人の内、1人だけ障害者であればいいのです。障害者がいなくても出場できる大会だってあります。

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そう、シッティングバレーボールは障害者スポーツではないのです。

パラリンピック種目というと「障害者のスポーツ」のイメージがありますが、実際のところ、そうではありません。シッティングバレーボールは座って行うバレーボール。座ってしまえば、障害者であるかないかなんて関係ありません。誰しもが楽しめるスポーツです。

悔しい結果に終わったパラリンピックでは「笑顔でプレイすること」を心がけました。たとえ劣勢でも笑顔で。心に余裕をもって試合に臨めるようにという目的とともに「このスポーツは楽しいもの」だと伝えられればと考えました。

現在、私たちが普段練習している環境では、シッティングバレーボールを楽しむメンバーが増えました。パラリンピックを通じて興味を持ってくれた方も多く、あの舞台を契機として、じわりじわりと楽しさ・面白さが伝えられているのかなと感じています。

シッティングバレーボールを楽しむ人が増えたことは、一番大きな【レガシー】かもしれません。

極私的3つのレガシーをまとめてみて

個人的に東京2020パラリンピックを振り返ってきましたが、コロナ禍での開催だったこともあり、ちょっとだけタブーっぽい印象を自分自身でも抱いています。

悔しい結果だったからこそ、素直に「楽しかった」と言いづらいですが、忘れられない思い出であり、生涯に渡って自分に結び付くタグでもあります。心はもう2024に向いていますが、この機会に総括できて良かったなと感じています。

共生社会や多様性といった観点でパラリンピックが切り取られていましたが、多くの人にとって暮らしやすい社会となるためには、パラリンピック後の今、どれだけのことを考え続けられるかが重要なのかもしれません。

私のように、ちょっとタブーに感じてしまっている心の内は、よりよい社会への足を引っ張っているなと、この記事を書きながら反省しました。

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