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サくら&りんゴ #91 あなたの1年は何日?

その日夫は混乱していた。

カナダで在宅緩和ケアを受けていた時である。体調はそれほど悪くなかったが突然私に、そんなに人を連れて来るなと言った。実際のところ私以外うちの中には誰もいなかったのだけれど。
そして看護師シャノンの来るのが遅いと腕時計をみた。ちょうどデイライトセービング(夏時間)が終わった直後のことである。シャノンが来るのはまだ1時間先だった。

時間が変わったよ、時計の針を1時間遅らせないと

私が言うと、

この腕時計は狂うはずがないんだ

そう返して夫は痩せてスカスカになった腕時計をくるりと回した。

夫の信頼する電波時計。しかしスマホには負けてデイライトセービングの調整は自動でなかったのである。でも夫は断固として時計の針を遅らせようとはしなかった。

その腕時計を夫は愛して、眠るとき以外はずすことがなかった。
どんな建築作業やハンティングの時も壊れることなく頑丈で正確な時を刻んでいると言った。
病気になってシャワーのたびにするりと抜けるようになった結婚指輪は私が預かり元居た箱に戻っている。しかしその腕時計だけは亡くなる最後の瞬間も夫の左腕で時を告げていた。


その腕時計は私と一緒に今、日本に来ている。
しかしずっと袋に入ったまま忘れられそうになっていた。

どこに仕舞ったっけ?
そう思いながらドレッサーの引き出しを開けた
袋は記憶通りそこにある
まだ動いているかなあ
中を探る
ごつごつした指触り
取り出してみる

文字盤はあたりまえのように息を止めている
秒針はピタリとして動かない

そりゃそうだ、夫が亡くなって以来腕時計を袋から出したことがなかったのだから。

自分の腕に付けてみる
ベルトをぐいぐい引っ張って合わせる
どうやっても私の腕には大きすぎる

そう思いながら再び文字盤を眺めてみた
すると



あら?
あららららら?



なんと時計の針が急に動きだすではないか。

くるくるくるくる

くるくるくるくる



何回転も何回転も
そしてスピードを落としたかと思うと
ピタリと止まった。

ど、どゆこと?

顔を近づけて文字盤を見る

時計の針は
3時46分を指している
あわてて自分のスマホを見る

4:46

私にはすぐ分かった、もちろん。
腕時計の針が示す時はカナダ時間である。それも夏時間。
私はこの電波時計がどうやって動いて正確な時刻を刻めるのか、実際のところ仕組みがわかっていない。ソーラー電池はずっと息絶えていたのにこの室内の光を集めてまたその命を復活させたのだろうか。

私は何か不思議な感覚に襲われた
夫の体の時が止まって
私の体の時も止まればいいと思っていたのに
なんだ
ここで
ちゃんと
あなたは
私と同じ時を
刻んでいたのね

そして可笑しくなった
ほらやっぱり、夏時間のままだ
東京の冬にいても

東京は14時間カナダ東時間の先を行って、1月1日の昼過ぎに新年のメッセージがカナダの友人から届いた。
そういえば夫と新年を迎える瞬間はいつもHappy New yearとともにI love you と言い合ってキスを交わした。
そうすると
いい新年が迎えられる

迎えられるということになっていたから

ゴメン、昨日東京時間の新年にI love youって言うの忘れた

カナダと行き来するようになってから
私の時間的観念は大きく変わった
それはつまり
時差の経験ではなく
時差があってもなお
私たちがこの地球にいる限り
同じ時間をかけて一日を終え、
同じ時間をかけて太陽の周りを一周するんだということ
時差があっても同じ地球の上にいると言う共通感。

新年の来るのが
昨日であろうと今日であろうと
あるいは韓国や中国の人たちのように2月であっても
同じ時間をかけて一年が過ぎる

花火を上げて新年を祝う人もそうでない人も
カウントダウンをする人もそうでない人も
恋人にI love you と言いう人もそうでない人も
おせち料理を準備する人もそうでない人も
除夜の鐘をつく人もそうでない人も
新年を祝う人もそうでない人も

それを一年と数える人もそうでない人も
この地球にいる限り私たちは同じ時間をかけて太陽の回りを回っている

その時間はなんて平等なんだろう


いや、待てよ。
その時私は気づいた。
夫が聞いていたらこう言ったかもしれない。

まったくきみは、目先の事しか考えていないんだから

つまり

夫がその多才な天才ぶりに感嘆していたイーロン・マスク。夫は大いに影響を受けていた。彼の火星に移り住むという構想をYoutubeで熱心に観ていた。もしそれが実現すれば、今の私たちが当たり前だと思っている365日かかる公転が、火星では686日かかってしまうわけで。
待ちきれない夫は今頃とっとと火星に行って地球より長い一年を過ごしているかもしれない。

いつも私よりずっと先、ずっと遠くを見ていた夫
私が当たり前だと思ってきたことは
夫と出会ったことでその多くが打ち砕かれた
私にはそれが
おもしろかった
すごくすごく
おもしろかった

日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。