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雪のコットンキャンディ

あの日
夫ジェイは
この湖畔の家に

もう二度と
戻れないかもしれなかった


今日の坂本さん

それは3度目の911
コールを切って5分あまり
救急隊のパラメディックたちが到着した


ごつい編み上げの靴で
4人が階段を駆け上がる

二階のベッドに
色のない顔と冷や汗でびっしょりのジェイが横たわっている
ベッドの上で片膝をつき
覆いかぶさるようにして
問いかけをするパラメディック
その分厚い靴の底を私は見ている

別の手でジェイの胸に心電図の電極が付けられ
あわただしくモニターが動きだす

DNRはとパラメディックが聞いてくる
ジェイは微かに首を動かしている

DNR
パラデミックを呼ぶたびに確認されることだ
初めは何のことかわからなかった
でも今は即答できる

心肺蘇生はいりません(Do Not Resuscitate)

ユニフォームの肩に付けられた無線連絡で
慌ただしく搬出用の椅子が運び込まれる
途切れながらの無線の声が聞こえてくる

ベッドに置かれたメタルのチェアにジェイは
二人がかりで乗せられ
ストラップがかけられる
唸り声と同時に椅子は持ち上がり
ジェイは階下に降ろされてゆく
無線の声が続いている

ひとりの女性パラメデミックが残って
いつも飲んでいる薬を準備してくれという
私はジェイのヘルスカードとともにかき集めたピルケースを渡す

ドライブウェイでジェイは
ストレッチャーに移し替えられようとしている


そのときだ

あ、雪

粉雪が降り始めていた
その年初めての雪だった

ジェイは薄い一枚のシーツにくるまれ
椅子の上に座ったままだ

柔らかく舞い降りていた粉雪は
あっという間に
その勢いを増していく

あんなに力が強くて
ベトナム戦争の救護班にいたのに
今はされるがままで

その体の上に
ただ
雪が降りしきっている

のちに
あの時
シーツの上に落ちる雪を見ていたと
着地したとたん雪の粒は溶けて
そのさまが美しかったと

救急病棟から中庭に出る渡り廊下で
ガラスに張り付いた雪の結晶を前に
そうジェイが話してくれた

自分は生還した
雪の粒のように溶けることなく

そんな風に思い出したのかもしれないし
そうでなかったかもしれない

薄いシーツじゃ寒すぎるだろう
愛用のフーディ(フードのついた厚手のスェット)を取りに行こうとした時
パラデミックたちがストレッチャーを椅子に寄せ
移し替えた体に
再びストラップをかける

そして
ジェイは
するりと
私の視界から消えた

ひとりのパラデミックが戻ってくる

RVHに運びますが自分の運転で来れますか?
救急車にあなたのシートの余裕がないので

私はうなずいた

二回目911を呼んだ時は、私があまりに慌てていて
自分の運転で来るなと言われたのだ

パラメディックは肩に付いたマイクに話しかけ
無線の応答が私の耳を素通りしていく


救急車の後部がガシャリと閉まる

テイルランプが消える
サイレンがひとたびだけうなりをあげ
ドライブウェイを出ていく


そして
嵐が去った後のように
しんと静まり返った


降りしきる雪だけが残っていた

ジェイが死ぬかもしれないとか
私はひとり残されるとか

そんな言葉は頭をよぎらなかった
この時は

はやく!
救急車を追いかけなければ!
準備のために私は
踵を返した

🌸


あの時のことを思い出すと
いまでも耳のそばで
心臓が
大きな音を立てる

結局三か月の入院を経て
ジェイはこの湖畔の家に戻ることができた

でもそれは在宅緩和ケアの始まりで
ジェイはそれからの一年をかけて
私に野菜の育て方を教えてくれた
その一年のおかげで
私は野菜を育てることができるようになった

多分他人ひとが見たら
大変な一年だったと
そんな風に思うかもしれない

でも
私にはあの一年が
必要だった
そして
かけがえのないものとなった


今年もまた私は
種から育てた
野菜の苗を植える

育ちゆく野菜の苗を見ると
ふっとやわらかな幸福感に包まれる
しあわせだと言っているのではない

しあわせな気持ちが
何かの拍子に
ふわりと
わきあがってくるのだ
冷たいはずのあの時の雪が
まるで綿菓子だったかのように
ふんわりした
しあわせ感が
私の体の中に

あまくとけてゆく

手前は結婚記念樹のサンドチェリー
その向こうが私たちのささやかな野菜ガーデン

もちろんきゅうり

同時に種から育てているのに大きさがこんなに違う

ジェイと私を繋ぐきゅうりの花が
今年も待ち遠しい

このRainという曲は映画ラストエンペラーの挿入曲である

坂本氏がピアノで弾く激しい雨音と
真ん中と最後に訪れる
柔らかいメロディが
私の心の動きとあまりにぴったり合うものだから

何回も聴かずにはおれなかった


映画はこちらのシーンで使われている


日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。