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母とおこわ

奈良の実家に戻って来た。
そこにはまだ母がいるようだった。
玄関扉を開けたら、母の声がするはずだった。

おかえり。

しかし、私が小学生に上がると同時に建てられた家だけが 
しんとしたまま迎え入れてくれた。

まだ暑さが残る夏の終わりである。

しばらくぶりに戻った私は、応接室の前の廊下を、肩をすぼめて歩いた。

こんなに狭かったかなあ。

ダイニングのテーブルの上には、最後のスカイプで使ったタブレットが、
山型になったケースに入れて、立てられたままである。

あんた、遅かったな

そう聞こえてきそうだった。

その日の朝、つまり、亡くなった日の朝、いつものように洗濯をしようと思っていたのだろう。高い位置にある物干しの竿をおろそうとして、竿を持ったままこけたらしい。しかしその様子を笑いながらスカイプで話してくれていたのだ。自分でも思い出したら、可笑しくて仕方がないという風に。
危ないからその竿を使わないようにと言っていたのに、
そんなこと聞き入れる人ではない。
一度目のスカイプの後、ヘルパーさんに国際電話をかけて、テラスに置ける丈の低い物を買ってきてもらうよう頼んだ。


カナダから福祉施設のマネジャーさんに、可動式のベッドを頼んだのは、そのつい数週間前のことである。二階にある寝床は布団で、そこで寝起きするのが大変そうだったのである。二階で寝ると聞かなかった母だったが、ベッドがきて起き上がるのが楽になったと嬉しそうに話した。ベッドはトイレにもダイニングにも近い応接室に置かれた。マネジャーさんだけでなく数人が来て、応接室のソファーを動かし、ベッドの上に母がいつも使っている布団をセッティングしてくれた。

あいさつ代わりのありがとうはしょっちゅう言っていた母だが、その時はふと気づいたかのようにこう言った。

なんやかんや、みんな私の事、思うてくれてるんやわ。


しかし少し前には

もう、はよ死にたいわ

そんな風に、まだ生きていることに、うんざりしているかのように こぼしていたのだ。

長いこと生きすぎた。もうええわ。

しかし元気で、二日前は体操教室に行っていた。

私と一度目のスカイプをした後、母は友達と電話で話をしている。
テラスに置く洗濯物干しを、ヘルパーさんが持ってきてくれることになったと、カナダ時間の夜半過ぎ、もう一度スカイプを入れる。母は、わかったわかったと、すんなりうなずいていた。

私は安心してベッドに入った。
しかし次の日、母からだと思ったスカイプは、東京の娘からで おばあちゃんが亡くなったという連絡であった。

あと5日で91歳だった。

四十九日は母の生まれ故郷の京都で執り行われた。京都と言っても、大阪に近い八幡と言う場所で、かつて石清水八幡宮の門前町として栄えたという古い町である。
お寺から小道を抜けた先に田んぼが広がっていて、その真ん中にぽつんと墓地はあった。

父のお墓参りに来たとき、母と腕を組んであぜ道を歩いた。
初夏は青々とした苗に、
秋は黄金色の稲穂に囲まれて歩いた。
てくてくと仏花を持って母と歩いた。
立ち止まって、田んぼの向こうに見える土手まで見渡して、
自転車であの土手を走って学校に通ったのだと、話してくれたことがある。

その日は義理の兄が、そのあぜ道を、母と一緒に歩いてくれた。姉が選んだ母の入ったひんやりした陶器には、淡い桜が描かれていた。

カナダから帰国してようやく、私の体は日本の色を取り戻しつつあった。偶然にも、コロナウィルスのための隔離14日間が、気持ちの猶予を与えてくれていた。

脳は不思議である。帰国して羽田に着いたときはいつも、すとんと元居た場所に落ちる音がするのに、今回はそんなに容易ではなかった。カナダであまりに色々な事がありすぎて、そして思いもよらない母の死が加わって、日本に戻っても、私の脳が元居た場所を、探し出せないでいたのだ。まるで初めて降り立った土地のような、落ち着かない感覚。目に入るものが初めて見る物のような違和感。

しかしその日、土手まで続く田んぼの色を見た時 私の目はそれを覚えていた。稲穂の色が私の元居た場所を教えてくれたのである。薄黄緑色に交じってその黄金色は、その地の匂いもつれて来て、私の体の中にすんなりと入っっていった。

夫がここにいたら、きっと気に入ったであろう土地である。ここの自然を愛するだろうという確信が、私にはあった。

Nature is his home.

そう娘のJenniferが言っていたのだ

納骨が終わってお寺に戻るあぜ道で、住職が指をさした。そこには黒い稲が金色の田んぼの隣を占領していた。 もち米だと教えてくれる。

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そう言えば、母はおこわが好きであった。母の言うおこわとはお赤飯の事である。

きょうはおこわにしよか

そう言って、特に何のお祝いでもない時に母は、度々お赤飯を炊いていた。よくよく思い出すと多分、お祝い事の時には一度もお赤飯はなかった。だから母はそんなこととは関係なく、自分が食べたくなったときにだけ作っていたのだ。おこわと聞くと、子どもの私はいつもがっかりしていた。ほとんど好き嫌いがなく育ったが、お赤飯に入っている小豆が苦手だったのである。

10月になったら長期で帰国するから、そうしたら奈良で一緒に過ごせるから、その時まで待っていてね、そう言っていたのに、母はとっとと自分のペースで亡くなってしまった。

ずっと希望していた通りの、ピンピンコロリであった。

日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。