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マスクは日本人のブルカになるか?should OR want?

日本に戻って以来、イロイロと違和感がある。変化した言葉遣いだったり、文化的なことだったり、細かいことは数えきれないけど、最も驚いたのがマスクだ。政府がマスクを外しても良いと言っても、誰もマスクを取らない。

スーパーマーケットや乗り物、公共の大勢人が集まる場所では、マスクをつけることは良いことだと思う。でも、外を歩いているとき、ほとんど他者と接触がないとき、外気が常に循環している環境で、コロナ対策としてマスクしているのは科学的ではない。

先日、日本人の友人が「〜すべき」「〜しなきゃ」を多く口にしていたことに気づき、私はそれを上手く伝えるための例を探していた。

英語でshould/日本語で「〜したほうがいい、〜すべき」とコーチィが言っているのを発見したら、通常コーチはその部分に気を留める。なぜなら、shouldや「〜すべき」は、自分の意思ではなく、義務や責任からやるべき・やらされている感がコーチィの無意識にあるのがわかるからだ。

ピンときたのが、前述のマスクの例だ。「国はマスクを取っても良いですよ、と言っているのに社会のプレッシャーで「マスクをすべき」と思っていない?」と私は聞いた。

すると友人は間髪入れず「それは違う!私のマスクはwould like toよ。私はマスクをしたい!マスクを外すのは心地悪い!」と言った。

私は驚きを隠せなかった。「どうして!思いっきり空気を吸えるのに!」友人自身、自分の反応に驚いたらしく、二人で笑った。

「おかしいよね。でも、自分自身にマスクはshouldだからしているの?って聞くと、違うよ、I'd like toだよ、って答えるのよ」と友人は言った。

少しの間を置いた後「マスクを外すと・・・なんだか裸になった気分。あと、マスクを外している人を見ると、変だけど・・・恥ずかしい気さえするのよ」と、考えを深めて言った。

「裸になった気分」「恥ずかしい」という言葉の選択がとても強烈だった。2年以上の間マスクをすることに慣れた日常生活において、マスクは強制ではなく、しないとおかしいものになっていった。これは、長期の習慣が文化になっていき、我々の常識や心理に深く根付くことを目の当たりにした瞬間だった。

ふと、私は「マスクは日本人にとってのブルカになるのか?」と考えた。イスラム教圏の女性たちが体全体を覆うブルカやスカーフで髪と首を隠すヒジャブをつけていることを他の文化圏、特に西洋文化では、女性への抑圧や狂気にとらえる。私は西洋的にそれらを着けているいる人をおかしいとは思わないが、どうしてつけているのかは単純に分かり得ない異文化問題なのだろう、と片付けていた。

今回、shouldではなくてwant, would like toの気持ちでマスクを着けたい日本人がいることを知ったとき、このイスラム教圏の女性たちの気持ちが少しわかった気がした。日常習慣が文化、常識、感情に与える影響を知った。たった2年のマスク着用で「恥ずかしい」等の強い気持ちを喚起するなら、何千年も続いてきた文化を変えること、女性たちが体に巻き付けてきたものを剥ぎ取ることは、相当な羞恥心を彼女たちに喚起するに違いない。実際、友人の知人ムスリム系マレーシア人女性は髪の毛を人に見られるのは「恥ずかしい」と友人に言ったそうだ。

shouldやwantを聞き分けることは、余計な義務・責任背負いをしていることに気づく上で、、面白い発見があるが、今回は応用文化分析の上でも行動と文化を兼ね合わせた面白い発見だった。また異文化に類似性を見出し、別の文化を理解することに繋がることを実感した。

The words in the image by Ralph Waldo Emerson

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