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「私たちはさよならと言った」

 一九九九年の夏、雪村澪は学舎を繋ぐ渡り廊下の上で宙に浮いていた。首元に赤いリボンの付いた、半袖の白いサマーブラウスと学校指定のチェック柄のフレアスカートの裾を揺らしながら。大縄の端のスティックを持った女子生徒が声を張り上げている。
「いいよ、澪。その調子!」
 雪村はわずかに汗をかきながら、縄の間をするりと抜けていく。赤い上靴のソールが渡り廊下のリノリウムの上を跳ねた。頬を上気させ、十四歳の快活な少女だけが見せる、特有の笑みを浮かべている。渡り廊下三階のアーチ状に開けた天蓋。クラシックな造りの木製手すりが付いた柵には、過去の卒業生達が付けた擦り傷がいたる箇所に残っている。天蓋と柵の間から見える眺めは、いまにも空を覆い尽くそうとふくらみ続ける入道雲と、永遠にそれから逃れ続けるような、果てのない七月の青だけで、すっかり埋め尽くされていた。
 大縄飛びに興じる女子生徒たちとは反対側の入り口の段差に藍川は腰掛けている。構内の自販機で買ったメロンソーダの入った紙コップを傾けていた。エメラルド色の透き通った炭酸の泡と、その表面上で揺れる、細かく砕かれた砕氷がひび割れた唇に触れる。
「おい、藍川。こんなところにいたのか」
 同級生の水野がスラックスのポケットに両手を突っ込んで、渡り廊下の入り口から顔を出した。細い銀縁の眼鏡からは呆れたような眼が覗いている。藍川は答えずにカップに口を付けたまま、首だけを捻って振り向いた。
「先月の校内模試の結果、もう廊下に貼り出されてるぞ。おまえ、国語だけは凄いのな。相変わらず」
「……そりゃどうも」
「あとは例年通り、雪村が全部持っていっちまったよ。何だろうな。天は二物を与えず? だっけ。ありゃ大嘘だな。この世界には与えられているやつと与えられていないやつがいるよ」
「『主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられよ』」
「何だそれ?」
「校訓の冊子に載ってたよ」
「おれはいいよ。そういうのは。ここが県内一の進学校だから選んだだけさ」
「水野、今日は部活じゃなかったっけ」
「校内にもう倒すやつがいないんでな。先輩も顧問も負かしちまったんだ。近所の碁会所に顔出してくるよ。強え爺さんがいるんだ」水野は銀縁の眼鏡を掛け直して言った。
「藍川はどうするんだ? 文芸部の部室にでも行くのか? お前って、確か文芸部だったよな。合ってる?」
 藍川は首を左右に振った。
「いいや、僕は幽霊部員だから。どこでもいいから、どこかには入れ、って担任に言われたから、名前だけ書いて、籍だけ置いてるんだ。誰も僕が文芸部員だなんて思わないよ」
「じゃあ、また図書館?」
 水野が尋ねると、藍川は頷いた。
「藍川って、ほんとに本が好きだよな。何がそんなに面白いんだか、おれにはてんで分からないんだ。だって本に書かれてあることなんて、そいつから見た現実の一部分でしかないだろ。まともに読める本なんてたぶん一握りもねえよ。お前もその頁の上から一刻も早く顔を上げた方がいいんじゃないか? だっていまは世紀末で、一九九九年の七月だぜ。いまにも世界が終わるかもしれないって日に、お前はただの十四歳のまま、辛気くさい顔をして、昔のどこの誰だか知らない人間が書いた文章の活字を追って一生を終えるのか? おれはやだね。何だかそれはとても──気が滅入るよ」
 いいんだ、別に、と藍川は笑いもせずに言った。背の高い水野が怪訝そうに首を傾げて、眼鏡の奥から覗き込んでいるので、藍川は続けて言った。水野の言うとおりだよ、どうせ大したことは書いてないんだ。それから、カップの残りの液体を飲み干し、ゴミ箱へ放り込んで水野と別れた。からからと氷が揺れる音がして、白いビニール袋の中に収まった紙コップの底で、ダイスのような氷が静かに溶けていった。液体になった水が、紙コップの側面を伝い、隣り合ったわら半紙を湿らせていく。坊主頭の水野は、振り返りもせずに照明の消えた屋内へ戻り、二号棟校舎の階段をすみやかに下って姿を消した。藍川は辺りを見回すと、ゴミ箱の中にそっと手を伸ばした。大縄がリノリウムの床を打つ音が消え、藍川が青いダストボックスの底から、丸だけで埋め尽くされた答案を拾い上げたとき、渡り廊下の向こうで兎のように見開かれた二つの眼があった。

「親も、友達も、先生も、ここにはいないからだよ」
「それがあなたが図書館を好きな理由?」
 雪村は図書室のパイン材のテーブルから身を乗り出して尋ねた。
「そうさ。それ以外に、ここに何かある?」
 藍川は手元の文庫本を閉じ、スピンを引いて、諦めたように顔を上げた。雪村はまだ身を乗り出したまま、椅子の脚を傾け、座面から浮き上がっている。
「ここには何でもあるわ。あなたの嫌いな家族の話、友達の話、先生の話。親を殺した子もいれば、友人を裏切って亡くしてしまった老人がいる、大人たちに刃向かい続けて、そのまま学校からいなくなって、気が付いたら病棟の中にいた、アウトサイダーの少年もいる。ねえ、ほんとに何でもありよ。本の中では神様だって殺されてしまう。私たちのことなんか、みんな、とっくに書き尽くされてる。でも、ここにないものがひとつだけ。生身のひとの言葉」
「雪村ってあんまり優等生っぽくないこと言うね」
 藍川は溜め息を吐き、文庫本の端を無意識に繰っている指先を止めて、向かいに座っている雪村に向き直った。
 そうかしら、と雪村は呟き、皮肉ではなく、まるでそれをほめ言葉のように受け取って、鴨のくちばしのような笑みを浮かべている。それから席をついと立って、書架のなかへと姿を消した。棚の間を行ったり来たりする雪村を藍川は黙って眺めていた。雪村は哲学の棚の前を歩いてみたり、見るからに重そうな年鑑を開いてみたり、窓際の磨りガラスの紋様を見つめていたりした。しばらくして、棚の間から子どものような声がした。
「ねえ、かくれんぼしない?」
「いやだ」間髪入れずに藍川は答える。
「どうして?」
「いくらこの図書館が広いったって、僕は毎日ここに通い詰めてる。二階のフロアは隅々まで知ってる。君が見つからないわけはない」
「あら、自信があるのね。なら、おいで。楽しいよ。三十秒数えたら、おいで」
 雪村が角を曲がるのを見届けたあと、手元にあった本を返却コーナーのワゴンに戻し、そのまま雪村が消えた方角へ歩いて行った。臙脂色のカーペットの床の上を歩き、突き当たりの柱まで来たが、既に雪村の姿はない。ただ廊下の向こうでカーテンレースの裾がはためいているのが見えるばかりだ。
「え? 雪村?」
 返事はない。棚の間をひとつひとつ見て回る。『900 文学』、『910 日本文学』、『920 中国文学』、『930 英米文学』の棚の間を抜けていく。人影ひとつ見えない。940、950、960……、結局、棚の端までやって来たが、ただサテンブルーのドレープカーテンが風でたなびいているのが見えるだけだった。図書館の窓から差し込む光が、本の天に溜まった埃を照らし、空調で宙に舞った微細なちりを細雪のように映し出している。
『980 ロシア文学』の棚の終わりまで確認したあと、左手にある勝手口に藍川の目が動いた。普段は使われていないドアで、図書館の職員ですら滅多なことでは使用しない。立ち入り禁止の札が立っている。チェーンの向こう側に手を伸ばし、ドアノブを回してみるが、やはり鍵は掛かっている。そのとき、不意に窓の外から、おどけた声がした。
「ねえ、もういいかーい」
 カーテンを一気に開き、二階の手すりから顔を出すと、頬にえくぼを作った雪村が手を振っていた。
「どうやってそこに降りたんだ。まさかここから飛び降りたなんて言わないでくれよ」
 二階から地上のアスファルトへは優に五メートルはある。雪村は首を振り、ポケットからループのついた鍵を取り出してみせた。
「これ、なあんだ?」
「……」
「ねえ、そんなに怖い顔しないでよ。ちょっと鍵のある場所を知っていただけじゃない。あとで司書の先生に返しておくわ。どんなに本の上の活字は追えても、わたしを追うのは上手じゃないのね」
 雪村は鍵を手のひらの上で放り投げて遊んでいる。
「あとね、棚の間にちょっとした仕掛けをしておいたわ。あなたなら見つけられるかも。じゃあね」
 雪村は後ろ手に手を組んで、そのまま三号棟校舎へと戻っていった。一時間ごとに時刻を告げる、十六時のチャイムが校内に鳴り響いた。藍川は次のチャイムが鳴るまで、二階のフロアから離れずに、図書館の棚の間を歩き回った。いくつかの本が、棚の間からわずかに、しかし確実に目立つように本の背表紙が引き出されていた。
『913 日本文学、小説 夏目漱石 心』、『933 英米文学、小説 J・D・サリンジャー ライ麦畑でつかまえて』、『949 ドイツ文学 その他のゲルマン文学 F・ニーチェ ツァラトゥストラ』、『991 ギリシア文学 オイディプス王』。
 雪村の仕掛けたゲームの解を呑み込むと、藍川は再び慣れ親しんだ英米文学の棚の前を歩いた。一冊の文庫本のタイトルを見つけて、それを後ろに引いておいた。
「933 英米文学、小説 T・カポーティ 誕生日のこどもたち」
──君みたいな女の子はまだ誰も見たことがなかった。

 最寄り駅のプラットホームを下る。革靴を履いた会社員に混じって、藍川は改札を抜ける。駅前の時計台は十九時半を差していた。ファストフード店のハンバーガーショップの自動ドアをくぐる。店内は常に混み合っているが、窓際のひとり用カウンター席がひとつ空いている。
 百円のバーガーとアイスコーヒー、ナゲットにケチャップソースを付けて注文し、席に着くと、しばらくそれらには手を付けず、ぼんやりと駅前通りを眺めていた。周囲には藍川と同い年に見える学生達が、トランプで賭け事をしており、派手な歓声がフロア中に響いていた。隣のテーブルには気難しそうなOLが頬杖を付いている。リングノートと書類の入ったクリアファイルを広げ、プラスチックの机の端を延々とペンの先で叩き続けていた。藍川はアイスコーヒーにミルクポーションを注いでストローを傾け、店内の白い壁掛け時計の針を見上げながら、ただ時間が過ぎていくのを待った。ハンバーガーの包みを億劫に開け、ひと口食べてはコーヒーを啜ることを繰り返す。5ピースのナゲットを食べ終わる頃には、長針はガラスケースの中で一周していた。自動ドアの扉から出て行くと、入退店のメロディが鳴った。店内で騒ぎ続ける学生達の声が通りまで響いていた。
 市営バスが目の前を通り過ぎていく。U字路でターンをしたあと、乗客は次々に駅前のバス停に降りていった。ステップを降りる足音がつづく。バス停は「車庫行き」と表示を変え、エンジン音をふかして市街地へ走り去った。乗客のいなくなったベンチの端に、藍川はそっと腰を下ろす。間を置いて次のバスがやってきたが、藍川は乗らなかった。後ろに並んでいた老婆が怪訝そうに藍川を凝視している。先に進むよう手振りで示すと、老婆は持っていた杖の先でタイルの上を甲高い音を立てて叩き、そのまま藍川の前を鼻を鳴らして追い越していった。他の乗客も老婆のあとにつづいた。車掌はミラー越しに藍川の様子を覗っていたが、しびれを切らしてバスマイクを取った。
「乗らないんですか? 閉めますよ」
 藍川が軽く頷く素振りを見せると、クリーム色の扉が閉まり、バスは発車した。ベンチに座って、通り過ぎていくバスの排気ガスを吸った。駅前にそびえ立つガラスビルの群れの間に、限りなく細くなっていく三日月が宙に浮かんでいる。高層ビルのミラーガラスには、もうひとつの月が同時刻に生まれた双子のように姿を現している。夜空から視線を降ろすと、向かいのバス停に栗色の毛をした女子学生の後ろ姿があった。見覚えのあるショートカットの髪型をした彼女は、同じ学校の夏用制服を着たまま、一回りも上の大学生風の男と愉しげに会話をしている。テーラードジャケットを着た男が女子学生の手を取って、ベンチから立ち上がらせた。揺れる髪の間からはにかむような横顔が覗いた。それが雪村であると確信するまでにかなりの時間がかかった。男は別れ際に封筒を手渡し、手を振って駅の改札口へと続く階段を昇り、姿を消した。雪村は手渡された封筒を眺めている。その手が封筒口に伸び、中身を勘定する仕草を見せると、その年齢にはふさわしくない黒のブランドバッグに封筒をさっと仕舞い込み、バス停を離れていった。藍川は無言のまま、一連の出来事を傍観し、立ち上がって実家のある路地へと歩き出した。

「ただいま」
 玄関ドアを開ける。返事はない。リビングの扉に嵌め込まれたガラスから蛍光灯のシーリングライトの明かりが漏れている。閉められた戸の向こう側で母親が固定電話で通話している声が聞こえる。
「ほんとうですか? ありがとうございます……、今週末も坂本先生のご講演があるんですよ。よかったらランチのあとにご一緒してはどうかなと思いまして」
 母親の通話の声をなるべく遠ざけるように階段を昇る。二階のダイニングには冷め切った冷食のハンバーグと、レンジで温めるタイプの白ご飯、翌日の昼食代の三百円がまとめて机の上に置かれている。白ご飯をレンジに放り込み、三百円をポケットに入れて藍川は自室へ戻った。鞄の中を整理していると、くしゃくしゃに丸められた雪村の回答が出てきて、カーペットの床の上に転がった。広げてみると、それは「国語」の中間試験で、雪村が唯一、三点を落とし、藍川が満点を取ったテストだった。バツが付けられているのは序盤の四択問題で、傍線で引かれた文の意味するところを選べ、というものだった。傍線で引かれた文の主旨は家族への愛をうたっていた。正解はAの「家族への信頼」であるところを、雪村はCの「家族を重荷に思う気持ち」に丸を囲んでいた。その囲まれた丸はシャープペンシルで書いたにしては異様に太く、強い筆圧で書かれているせいで、用紙にはその箇所だけ薄く穴が空きかかっていた。裏返すと何もない空白に雪村が文字を書き込んだ形跡があった。それは一度消しゴムで消されていたが、囲んだ丸と同様に強い筆圧で書かれていたために、裏から透かすと文字が映っていた。
──わたしは、誰も、必要とはしない。
 階下で母親が藍川の名前を呼ぶ声がした。答えずに自室のドアを蹴飛ばし、イヤホンを耳に嵌めて、ウォークマンの再生ボタンを押した。何曲か聴いたあと、イヤホンを外すと母親の声はもうなくなっていた。藍川は答案を丸めて、ゴミ箱へ放った。

 正午を告げるチャイムが鳴る。数学教師の中村が手元に付着した粉チョークを落とし、クラスの出席簿の角を机の端で揃えて出ていく。生徒達は各々、伸びをしたり、机を合わせて島を作ったり、購買に走りに出かけたりしている。藍川は解けなかった公式の解にクエスチョンマークを付けてノートを閉じた。肩を叩かれて振り返ると、長身の水野が屈み込むようにして立っている。手振りで食堂へ行こうと促していた。藍川は頷くと並んで教室を出た。数メートル先に雪村の姿が見える。
「好きなの?」と水野は言った。
「何の話?」
「雪村」
「いいや」
「ずっと見てたじゃん」
「ちょっとヘンだなって思っているだけ」
「お前にしちゃ、高望みだな。いい女だとは思うよ」
「聞けよ、ひとの話」
「やだね、お前こそ本から顔を上げろよ」
 食堂の席に座ると水野は定食のそばを啜りながら尋ねた。
「そういえば、あいつの噂、知ってるか?」
「だれの?」
「雪村だよ。あいつ、優等生だけど、なぜか部活はしてないのな。塾に通ってるってわけでもなくて、夕方になると校内で見かけなくなるんだ。女子の話だと、誰からも連絡が付かなくなるそうだ。このまえ吹部の比呂美がプリントを届けに行ったらしいんだが、それが部活のあとだったんで、夜の9時を回ってたんだ。でも家に雪村はいなくて、比呂美は追い返されてさ。で、帰っている道の途中でたまたまばったり雪村を見かけたらしいんだが、ちょっと化粧をしていて、まるで別人みたいに見えたんだって。あいつ、何か裏があるよ。おれはそんな気がするね」
 藍川は手元のペットボトルの烏龍茶を傾けながら、水野の話を聞いていた。テーブルから一本、通路を挟んだ向かい側では雪村が友人達に囲まれて屈託のない顔ではしゃいでいるが、化粧っ気はまったくない。
「何か、事情があるんだろ」
「事情って何だよ」水野が箸の先を上げて藍川を指す。
「家に帰れない事情、街で遊んでいなくちゃならない事情、ひとにはあまり話せない事情」
「そんなもんあるのかねえ。いずれにしろ忠告はしとくよ。お前の手には余りそうな奴だ」
 ごっそさん、と言って水野は手を合わせ、食器のトレーを持って立ち上がり、右手を高く上げて食堂から出ていった。残された藍川はしばらく向かいのテーブルをぼんやりと見つめていたが、やがて席を立ちガラス扉を開けて食堂を出ていった。腕時計を見ると授業開始までまだ三十分ある。校舎の外に抜け、ポケットを両手に突っ込んだまま、コンクリートで舗装された道を歩いた。周囲の学生達はグループをつくって大声で騒いだり、話し込んだりしていたが、藍川に声を掛けるものは誰もいなかった。ほとんどの学生が食堂と教室の間を行ったり来たりする中、藍川だけが道を逸れ、柱の角を曲がり、教室へとつづくT字路で反対側の方向へ靴の先を向けた。途中でいつもとは違う妙な感覚がして、藍川が振り返ると、コンクリートブロックの縁の上をひとりで歩いている雪村がいて、藍川はなるべく振り向かないように道を進んだ。雪村は何喰わぬ顔をして、正面を向いたまま、T字路で藍川と同じ方向へ歩み始める。校舎の裏手は小高い丘のようになっていて、傾斜のある坂道の先は運動部のグラウンドへ続いていた。藍川はグラウンドの隅に設置されたベンチに腰掛けた。背後には植え込みがあって、もう一対のプラスチックベンチが後ろに並んでいる。片手に忍ばせていた文庫本を取り出し、時間が過ぎるのを待った。遠くのトラックで陸上部がやり投げの練習をしている。藍川の前を影がひとつ通り過ぎて、その影は茂みの後ろへ隠れた。足下には空気の抜けたサッカーボールが転がっていて、投げ棄てられた菓子パンの包み紙が植え込みの枝の先に刺さっていた。
「どうしてそんなところに座るんだ?」
「あなたと一緒にいるところ、誰かに見られたくないんだ」
「だったら何でわざわざ」
「あなたが誤解してることがあるんじゃないかなー、と思って。後ろは向かないで。前を向いたまま喋って」雪村はたしなめるように言った。背中合わせのまま会話をつづける。
「図書館じゃ、べらべら喋ってたくせに」
「あんなところにひとはいないわ」
 藍川は溜め息をついて言った。
「雪村について僕が誤解していることなんて何にもないと思うけど」
「あるわ。あなた、あの夜、駅前のロータリーのところで座ってたでしょう」
「何の話? 街中で雪村を見かけたことなんか一度もないよ」
「嘘ばっかり。とぼけないで。バス停に座り込む前は、駅前のハンバーガーショップにいたでしょ。何ならその日、あなたが食べていたメニューを言ってあげようか。頼んだのは百円のチーズバーガー、ナゲットのソースはケチャップソース、アイスコーヒーにミルクは入れるけどガムシロップは入れてない。滞在時間は夜七時半から八時半くらい。その頃、あなたは窓際のカウンター席でぽけーっと外を見ていて、隣のOLがペン先で机を叩き続けることにいらついてた……」
「君もあの時間にハンバーガーショップにいたってわけ?」藍川は眉根を寄せて八の字をつくった。
「そうよ。あなたは店内に背を向けたまま座っていて、周囲の学生が派手にトランプゲームをやっていることに気を取られてた。だから気が付かなかった。たったひとつのハンバーガーの包みをやけにゆっくりとひとくちずつ食べてね。まるでその時間はハンバーガーショップにい続けないといけない決まりでもあるみたいに」
 藍川は言葉に詰まっていたが、やがてもう一度口を開いた。
「あー、君はたぶん大学生みたいなテーラードジャケットを来たきざなやつと店内にいたんだな。あいつが誰だろうが僕はどうでもいいし、詮索するつもりはないよ。ただ『見てた』ってだけ」
「クラスの皆には言わないでいてくれる?」
「君がロータリーでそいつから金を受け取っていたってことを?」
「ねえ、お願いだからあんまり大きな声で話さないで」
「口止めなんかしなくったって、僕の話なんか誰も聞きやしないさ。君にたてついたって、いいことなんてひとつもないからね」
「わたし、あなたが思っているような人間じゃないのよ。ほんとうは」
「ほんとうのことなんて喋らなくていいよ。そんなもの分かりはしないし、誰かに伝わったりもしないんだ。いくらでも誤解させておけばいいんだ、べつに──」
「どうしてあなたってそんな話し方をするの。隅から隅までひとのことを疑っているみたい」
「疑わずにはいられなかったってだけ。君がどうかは知らないけどね。もう時間だし、僕はここに座っているから、雪村は先に教室に帰れよ。一緒にいるのはいやって言ってなかったっけ。もう話すこともないだろ」
「わたしはまだあなたと話したいことはあるわ。だって似ているもの」
「僕は『誰も必要としない』人間じゃない」
「……あなた、あの答案、拾ったわね」
「拾ってない」
「拾った」
 雪村は構わずに咳払いをしてベンチから立ち上がり、茂みから姿を現した。その目はわずかに赤く腫れ上がり、兎の目と同じ色をしていた。
「わたしね、自分を売ってるの、あなたの言うとおりよ」
 雪村の眼に溜まっていく小さな泪の膜を藍川は呆然と眺めていた。わたしは誰にも似ていないものね、と掠れた声で言った。眼に入った砂埃を払うように細い人差し指で目尻を拭うと、雪村は坂道を下っていった。藍川は小さくなっていく白いブラウスの肩を見ながら、足元に落ちていたまだ青いままの葉を踏みつぶした。
──君に似ているやつなんか、ひとりもいやしない。

 グラウンドから戻ると三限はホームルームだった。十一月の文化祭の出し物を決める日になっている。藍川は右斜め前の桂馬の位置にある空席を見ている。チャイムが鳴り、慌ただしい様子で担任の黒木が教室へ入ってくる。
「藍川、それ何書いてんの?」
 後ろの席に座る水野が脇腹を小突く。
「え? 何にも書いてないけど」
「違う、その教科書の下。それそれ、そのノート」
「ただの国語のノート」
「いや、お前、それ……」
 そのときクラスの最後列に座っていた眼鏡の女子生徒がおずおずと手を挙げた。黒木は教壇に上がってホームルームをはじめようとしている。
「よーし、皆席に着け。文化祭の出し物決めるからな」
「先生──」後ろから女子生徒のか細い声がする。
「ん、どうした、片平」
 クラス中の生徒たちが一斉に振り返る。片平は目を伏したまま口を開く。
「雪村さんが、いません」
「雪村? 何か遅れているんじゃないのか。誰か見かけたやつはいるかー?」
 一旦は静まりかえった教室が途端に蜂の巣を割ったように騒ぎはじめる。誰も名乗り出る者はいない。
「困ったもんだな。まあいい、あとで先生が探しに行こう。級長がいないから、藤原が仕切ってくれ」
「えー、何でおれが」
「副長だからな」
 拍手やら喝采やらが冷めやらぬ中、藍川は無言で席を立った。クラスの後方のドアから出ようとすると、担任の黒木に呼び止められた。
「藍川、どこへ行くんだ?」
「すいません、ちょっとお腹が痛くて……トイレ行ってきます」
「おー、分かった。なるべく早く戻ってこいよ」
「はい、失礼します」
 藍川はすばやく戸を閉める。校舎の足跡の残る廊下を駆ける。二階の男子トイレを通り過ぎて、階段を下っていると大きな段ボールを抱えた男子生徒とすれ違った。文芸部員の吉田だった。
「吉田」
「え? 何だ、藍川か。おれ、次の教室まで教材を運ぶように言われてるから忙しいんだけど」
「あのさ、うちのクラスの雪村、見なかった?」
「雪村? 見てないよ」
「……」
「あー、ちょっと待って。職員室ですれ違ったかも。教材を取りに行ったときに、出ていくところを見かけた気がする。ぱっと出ていく感じだったから気に留めなかった」
「ありがとう」
 下ってきた階段を引き返し、一段飛ばしに職員室のある二階へ戻っていく。
「おい、たまには部室に顔出せよ。次の原稿の締め切り、十二月だかんな」吉田は吹き抜けに向かって叫んだ。返ってくるのは上履きのゴム底が階段のタイルを叩く音だけだった。
「何だ、あいつ……」

 職員室の戸を引く。目の前のホワイトボードには行事の日程が日付ごとに書き込まれており、入り口脇のロッカーには各移動教室の鍵が並んでいた。数学教師の中村がコーヒーカップを片手に休憩を取っているところだった。戸を開くと何人かの職員が振り返った。
「藍川くん、どうしたの?」
 中村はカップをソーサーの上に置き、回転式事務チェアをくるりと回して藍川を見上げた。
「中村先生、雪村、見ませんでした?」
「ああ、あの子ね。さっき昼休みに来てたよ。五十分頃かな。何か用事があって来たようには見えなかったけどね。国語の村田先生としばらく話し込んだあとに、帰っちゃった。君のクラスにいないの?」
「……ああ、いえ。何でもありません。お邪魔しました」

「人騒がせなやつだ」
 屋上のドアを開け放ち、藍川は大股で柵に向かって歩いて行く。柵の手すりは皮膚が剥がれ落ちた跡のように醜い錆びが刻まれていて、雪村はその手すりの上で頬づえをついたままでいる。柵の向こう側には雪村たちが住む街の屋根が見えた。二匹の燕が頭上を宙返りし、屋上のタイルに影をつくって、電柱の上に停まった。空は尽きることのない藍色に染められていて、陽は沈むことを知らないまま二人の頭上にあった。
「どうしてここにいるのが分かったの?」
「僕が君だったらどうするか考えた。誰もいないところを選ぶだろうと思った。職員室のロッカーの壁から屋上の鍵だけが消えてた」
「ふーん、そっか。じゃあこれでおあいこかしら」
「まだかくれんぼが続くのだとしたらね」
「わたし、また逃げる役をやってもいいかな。あなたはわたしを追いかけ続けるの。楽しそうでしょ?」
「……」
「どこまでも逃げていくの。この街の屋根がひとつも見えなくなるところまでね。わたしのことなんか知らないひとだらけのところで、これからわたしは生きるようになるの。燕がどんなに翼を広げて雲を突き抜けるように飛んだって、わたしのいるところまでは辿り着けやしないわ。それであなたは追いかける役になったことをきっと後悔するの、だってわたしは最後までつかまったりはしないから。ねえ、いまからはじめたっていいわ」
 藍川は俯く。雪村の上履きが柵の下で揃えたまま置かれている。その置き方はあまりにも几帳面で、まじめで、冗談がひとつも通じない女の子みたいに、セメントで固められた床の壁に踵を付けて置かれていた。
「……どうして鍵をかけなかったんだ。君のことだ、そうすれば僕に見つかることもなかったのに」
「閉じ込められるのが怖いのよ。わたし、物置に入れられていたから」
「誰かが来てくれるって思ってたんじゃないか」
「そうね、でも、あなたが来るとは思わなかった。わたしは先生だと思った」
 その時、はじめて雪村が手すりから振り返った。白いロングソックスからはだけている膝には、まだ付けられたばかりの青い打撲のあざがいくつもあった。向き直った雪村の長い髪が、吹き抜ける風を一身に受けてなびいている。その眼は、八月の太陽を乱反射して、その瞳の円の中に陽のひかりを丸ごと宿したまま輝いていた。
「ねえ、あなたは、この世界が続いていくって思う? このままの形で、ずっと続いていくって思う?」
 日差しの中にいる雪村が、校舎の影のなかにいる藍川に向かって首を捻って問いかける。
「君は世界が終わるって思ってた?」
「いまは一九九九年の八月だからね」
「一九九九年の八月だからって世界は終わったりしないよ。たとえ二九九九年の八月でも同じさ。ずっと続いていくんだ。僕らがこの学校を卒業しても、君が怯えた兎みたいにつかまっているその錆びた手すりは校舎に残るだろう。君がこの街を出ていったあとも、君が忌み嫌った街の屋根は残るだろう。僕らがこんな馬鹿げた世界に生きていて、どうでもいいことに悩まされ続けて、それでもへらへら笑って僕らを見下ろしているこのくだんない世界は止まれなくなったコーヒーカップみたいに回転を止めないだろう。僕らがこの遊園地の裏口から出て、それを後にするときにとんでもない張りぼてだったって気付いても、その幕の上ではまた何にも知らされていないとんまな誰かがやってきて、僕らがずいぶん昔にやった同じ役をやって、閉園時間が来たらそれでさよならを言うだけなんだ。ねえ、たったそれだけさ」
 雪村は何かを考え込むように首筋の裏をひび割れた人差し指の爪で掻いていた。
「あなた、天国と地獄って信じる?」
「信じない。天国も地獄もここにあって、その先には何もない」
「仮にあるとしたら?」
「君は天国へ行って、僕は地獄へ落ちると思うな」
「わたしはその逆だと思う」
「じゃあどっちみち僕らは会えないね」
「会えなくなる前に、わたし話しておきたいの」
「何を?」
「わたしの秘密」
「話さない方がいいと思うよ」
「そう言うと思った」
 雪村は笑った。手すりから離れて足を引きずり、鼻を突き合わせるように藍川の前へやってきた。
「これは契約よ。もし私が地獄へ行ったらあなたが証人になってね。その代わり、あなたが地獄へ行ったら、わたしはきっと神様の前でもあなたを弁護してあげる」
「それは悪魔がやることだよ。神様以外は誰も約束なんてできないんだ。いや、それだってどうだか」
 雪村はそれでも首を振って話し始めた。
「わたしね、言葉がつかまえられなくなった。勘違いしないでね。あなたの言っている言葉の意味が分からないってわけじゃないのよ。ただ文字を読んでいても頭の中に入ってこないの。ちょうど眼の前に水があるみたいに。つかもうとしてもつかめないの。指の間をすり抜けていくの。わたし、それに気が付いてからずっと森の中にいるみたい。ずっと頭の中で葉がざわめく音が聞こえるの。その音を聞いていると、何だかみんなの顔が遠ざかっていく気がするの。ひとりで深い森の声を聞いて、眠っている気がするの。いつかわたしはその森の奥にほんとうに連れて行かれちゃうんじゃないかって思うの。そうなったらわたしきっと、ここへは戻ってこれないわ。ねえ、そうなる前に、わたし、あなたに伝えておきたかったの。だからあなたの気を引いて、本の上から顔を上げて欲しかったの。だって、わたしは、あなたの知っているわたしは、きっともうすぐ、いなくなっちゃうからさ」
 わたしもこの世界ははりぼてだと思うよ、と雪村は言った。でもわたしとあなたははりぼてなんかじゃないんだ。ぜったいにちがうんだ。そう言い終えた途端、雪村は糸の切れた操り人形のように、その場にへたり込んだ。
「雪村!」藍川は走り寄って、ブラウスの肩を抱え込むようにして屈み込む。赤チェックのスカートのポケットから、薬剤の瓶が転がり落ちて割れる音がした。中から無数の錠剤が出てきて床に散らばった。白色の錠剤にはどれもアルファベットの暗号のような文字が刻まれている。藍川は雪村のそばにある不透明の色付き小瓶を拾い上げた。
「君、これ……」
「あの男に貰ったの。これを飲みさえすればもう嫌なことは思い出さずに済むからって。全部飲みきったら、この世界とおさらばできるって。そう考えると楽だった。お守りみたいに持ってた。でも駄目だった。飲めなかった。わたし、まだ、生きたいって思っていたみたい」
「君ならそんなものすぐに気が付くだろう……、どうして、君は、馬鹿なんだ」
 雪村は眠りに就くように頷いた。そうね。わたし、ほんとうに、馬鹿だったらよかったわ。

 翌日、雪村は学校から姿を消した。藍川は空席になった雪村の座席を見つめている。週の終わりまで、学年中の生徒達が雪村のことを話題にした。雪村が街中でろくでもない連中と付き合っていたんじゃないか、優等生に見えて遊び人だった、中には彼女が賢かったのはスマートドラッグをやっていたからだと主張する生徒もいた。みな、根も葉もないでたらめの嘘だった。あの日、雪村は救急搬送され市内の病院に運び込まれた。あとからやってきた担任の黒木に藍川は事情を説明し、到着した警察から簡単な取り調べを受けた。雪村が所持していた小瓶から出てきた錠剤は、麻薬ではない、と警察は踏んでいるらしかった。あれは近頃流行っている麻薬に見せかけた睡眠導入剤で売買で利益を得るために造られたものだという話だった。病院を訪ねてみると、面会謝絶、となっており、雪村の家の前には数人の地元紙の新聞記者が張り込みをかけていた。一ヶ月後、地元の新聞の社会面に小見出しで雪村の名前が載った。
「市松中女子生徒、麻薬偽装薬で昏睡」
 記事は彼女が偽装薬を手に入れた経緯、偽装薬の睡眠導入剤を多量服用したために発見時の意識が混濁した状況にあったこと、家庭に問題があり両親が日常的に暴行を加えていた疑いがあること、雪村本人が両親から負った頭部の損傷により、言語野に障がいが残ったことを簡潔に伝えていた。結びには「この女子生徒は退院後、児童相談所に保護される予定」と記されていた。
 ある日、誰かが雪村の席に冗談半分で窓際に飾られていた花瓶を置いた。隣のクラスの男子生徒が見物にやってきて手を叩いてはやしたてている。すぐにやめるように女子生徒達は文句を言っているが、体格のいい運動部の男子が机の周りを囲んでいたために、実際に動くものは誰もいなかった。藍川は無言で席を立ち、囲んでいる間から腕を伸ばして花瓶を奪い去り、その手で即座に床に叩きつけて割った。薄紫のしおれたスミレの花弁が散り、青磁の花瓶は粉々に砕け、教室中が悲鳴で満たされた。机を囲んでいた柔道部副将の桑原が藍川を投げとばして水浸しの床に叩きつけ、続けざまに怒号が飛び交った。藍川は机を蹴とばし、立ち上がりしなに陶器の破片で切った指の先を桑原の首元に突きつけた。指先からは赤い血が流れ続けた。
「お前らみたいなただ運がよかっただけのやつに、雪村の気持ちは分からない」
 言い終わらないうちに四方から拳が飛び、そこへ担任の黒木が教室へ入ってきた。
「お前たち! 何を馬鹿なことをやっているんだ!」
 黒木の一喝で辺りは静まりかえり、血だらけになった藍川が雪村の机から落ちたノートを拾うと、クラスメート達は気味悪がって円で囲いこむように藍川から離れた。黒木の制止を待たず、藍川はノートを掴んだまま、教室から出ていった。去り際にすれ違った桑原が吐き捨てるように言った。
「お前だって、運のよかった側の人間じゃないか。楽だよな、藍川は。クラスメートを無視して図書館で本を読んでりゃいいんだから。現実のことなんて、何にも知らないだろ」

 クラスの席替えがあり、雪村の席は座席表から消えた。藍川は数日間の謹慎処分となり、家を抜け出して雪村のいる病院へ通った。病院での面会が許されたのは十二月の末のことだった。通りには薄く雪が積もっていて、窓は結露がかって白いもやができ、雪村は窓の外を向いて庭を眺めていた。藍川が病室の戸を開けると、雪村はそっと振り向いて笑ってみせた。それはもう、恵まれた十四歳の少女の笑い方ではなかった。
「あなたならきっと来てくれると思ったわ」
 待ちくたびれたのよ、と言って雪村は藍川の前でわざとらしく伸びをする。具合はどう、と藍川は来客用のパイプ椅子に腰掛けた。
「最悪、なんにも考えらんないわ」
 雪村はベッド脇にあった安物のティーバッグを二つのマグカップに入れ、給湯器から湯を注いで差し出した。立ち昇る湯気を見つめ、雪村は話を続ける。
「でもあなたが来てくれたから、それでもう、半分は治ったようなものよ」
「皆、君のことを心配してたよ」藍川は手元のマグに口をつけて言った。紅い湯の表面に藍川の顔の影が揺らいでいた。
「嘘なんか言わないで。あなたって嘘を付くときにすぐに目を逸らすもの。どうせ三ヶ月も経てば、わたしのことなんて忘れるわ。『ひとの噂も七十五日』って言うでしょ?」
 あなたが忘れなければそれでいいの、と雪村は壁際に座る藍川にほほえみかけた。藍川はマグに映っている自らの影を気にするように沈めた顔を上げなかった。
「新聞の記事で読んだよ。君はこれから施設に送られるんだってね」
 雪村はマグカップに注がれた湯の温もりを感じ取ろうとするように、両手をマグの側面に沿わせてしっかりと握った。
「そうね。わたしもうこの街にはいられなくなった。さっき施設長のひとが挨拶に来たわ。親切そうなひとよ。そこがどんなところであっても生まれた家よりはましよ」
 壁掛け時計の運針の音が聞こえる。窓の外にはうっすらと牡丹雪が降りはじめていて、窓際の桟のそばには痛々しいほどに白い百合の花が飾られている。手元のマグカップには油性インキで「ゆきむら みお」と書かれた名前シールが側面に貼られていた。二人が手にしているマグカップは幼稚園児が使うようなもので、マスコットキャラクターのイラストは年月を重ねてほとんど掠れかかっているように見えた。マスコットの両親に挟まれて小さな女の子が仲良く手を繋いでいた。雪村はそれを少し落としただけで割れるガラスのように丁重に扱って、プラスチックの食器棚にそっと収納した。次に雪村が話し始めるまで奇妙な間があった。雪村はマグカップを仕舞ったあと、数秒の間そこから動かなかった。そのまま患者用の使い捨てスリッパを履いて窓の側まで歩いて行った。
「ねえ、藍川君。ちょっと付き合ってよ。お散歩したいの」
「どこへ?」
「庭」

「あなたと歩くのもこれが最後かもね。ねえ、一緒にいられる合間なんて、あっという間」
 雪村は病院の玄関の軒先で落ちてくる雪の小さな欠片を傘も差さずに見つめている。
「どうしてそんなことを言うのさ」
 藍川は雪の交じった砂利の上を踏みしめて歩く。牡丹雪が頬や指に触れては消えていく。かじかんだ指を握りしめたまま、雪村は俯いて話しはじめた。そのか細い病院着にぽつりぽつりと雪の跡が染み込んでいくのを藍川はただじっと眺めていた。
「わたしね、あの時さ、もう死んじゃったと思ったの。誰にも見つからないまま、屋上の柵の縁にひとりで足を掛けてね。当たり前のように上靴を脱いで揃えて置いたわ。そのとき、わたしは、胸がすうっとして、いままで生きてきた十四歳のわたしのことなんて、棄ててしまえる気がしたの。実際、たぶん、わたしはあの時に死んだの。比喩なんかじゃなくて、ほんとうに死んだの。あの屋上から地上を見下ろした時にさ、十四歳のわたしはほんとうに地面を蹴って、一瞬だけ燕みたいに腕を広げて宙に浮いてさ、そのまま地面に落下して、コンクリートに叩きつけられて、ばらばらに砕けて、この世からいなくなっちゃったんだ。屋上に残ったわたしは、震える膝で柵から身を乗り出して、残った骨と血の塊を見つめているの。そのときに気が付いたんだ。十四歳のわたしはもう死んだんだって。その時に飛び降りたわたしはもう二度と帰っては来ないんだって。わたしたちはいつも行ってしまうばかりで、同じところへは戻ってこれないんだって。わたしたちはどこまで行っても、さよならしか言えない生き物なんだって」
 藍川と雪村は無言のまま、病院の庭を歩いた。庭の中央に植えられた大きな蘇鉄の葉からひと筋の水滴が垂れ落ちていった。吐息は白く、ふたりとも手はポケットに入れたまま、同じ柵の中のコースをぐるぐると八の字に回った。立ち止まってしまったら、そこが終着点になってしまうことを最初から知っていたみたいに。
「さよならを言っても、世界はつづくよ」
「べつに明日終わったっていいわ」
「君は予言が当たって欲しかったわけだ」
「わたしはさよならが言いたくないだけ」
「でもいつかは言わなくちゃいけない」
「いつかじゃなくて、もうすぐよ」
「ねえ、君に同じことを聞くよ。君はこの世界がつづいていくって思う? この世界がずっと同じままで、続いていくって思う?」
 雪村は首を傾げ、しばらく考え込むように遠くを見つめたあと、その場に立ち止まって、答えの代わりに藍川の頬にくちづけをした。
「ほんとうに、そうだったらよかったわ」
 さよなら、と雪村は言った。さよなら、と藍川は言った。

 校舎の屋根から鳩の群れが飛び立ち、講堂の入り口には真っ白な看板に墨入れした「卒業式」の文字が木漏れ日の下で輝いている。列をなして歩く生徒達の顔はみなほころび、噴水の前を歩く彼らの顔にかげりは一点も見えなかった。お互いに背中を叩き合い、歓声を上げ、じゃれ合いながら入っていく卒業生の影を藍川は三階の渡り廊下の段差に座って眺めていた。ふいに名前を呼ぶ声がして振り向くと、廊下の向こうで水野が大きく手を振っている。
「おーい、藍川!」
 藍川が頷くと、水野は息を弾ませながら渡り廊下へやってきた。
「お前ならきっとここにいるだろうと思った。ほら、式がはじまるぞ。行こうぜ」
 水野はひと差し指を講堂のある背中側へ向ける。
「いや、いい」
「いいって……お前。これが最後だぞ」
「僕は行かない。いいから、行けよ」
 水野は溜め息を吐き、首を振ったあとに向き直って言った。
「お前、小説を書いていたんだってな」
 水野は藍川が小脇に抱えているノートを指差した。「現国 二年四組 雪村澪」と書かれてある。
「もう意味なんてないんだ。読ませたいやつがいなくなったからさ。これはただの紙束だよ」
「……」
「水野は卒業したら、どうするんだ?」
「おれはさ、碁打ちになるよ。来月から東京へ行くんだ。プロ試験を受ける」
「じゃあ、さよならだな」
「おう、お前も元気でやれよ」
 水野はそう言い終えたあとも、廊下の上で阿呆のように突っ立っていた。間の抜けた沈黙のあと、「藍川、またな」と言って手を振り、あとは振り返らずに、廊下の向こう側へと走って行った。誰もいなくなった渡り廊下に藍川は佇んでいる。もうリノリウムを打つ大縄の音は響かなくなった。天井まで反響していた赤い上靴のソールが跳ねる音も、頬を上気させながら宙に浮かんでいた十四歳の少女も、コップの中で渦巻いていた自販機の安っぽいメロンソーダのにおいも、ゴミ箱の中に眠っていた彼女の荒っぽい筆跡の叫びも、みんな八月の群青の中に溶けて消えた。校舎からは別れを告げる卒業生の歌声が聴こえている。藍川は階段を二段飛ばしに駆け上がり、あの日以来、開けることのなかった屋上の扉を開け放った。雪村が頬杖を突いていた手すりは錆を残したまま、いまでもそこに残っていた。藍川は柵の向こうに両腕を投げ出して、グラウンドのポールの天辺にある燕の巣を見上げた。燕の巣に主はもういなかった。屋上の床に置いてきた国語のノートが風に吹かれてめくれていった。
「ねえ、雪村。君といた八月だけがほんとうの八月だったと思うよ。僕、いまでもそう思うな」

<了>


もの書きのkazumaです。書いた文章を読んでくださり、ありがとうございます。記事を読んで「よかった」「役に立った」「応援したい」と感じたら、珈琲一杯分でいいので、サポートいただけると嬉しいです。執筆を続けるモチベーションになります。いつか作品や記事の形でお返しいたします。