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ポメラ日記66日目 話を歪めずに語ること

 書いた作品が落ち続ける理由ってなんだろうな、とぼんやり考えていた。これまで三年くらいは小説の武者修行のつもりで、中短編の制作を続けてきた。

 note以外で公開した作品も含めると9作品で、いまは10作目を作っている。自分の小説がものにならないわけは何なのか、昔に書いた作品を少し読み直してみることにした。

 書いた直後は、その作品に対して作者が冷静な判断を下すことは難しい。

 やっぱり書いているときは、「この書き方で間違ってないし(内心、『間違ってへんやろ!(関西弁)』くらいはある)」と思うものだし、そう思っているくらいでないと、たぶん書き上げるところまでは行かない。

 これまでに書いて公開した作品は、もう数ヶ月~3年は経過しているわけだから、「いいところ」と「わるいところ」が、前よりもはっきり見えるんじゃないかと思ったりした。

 一作、一作を前よりも良いものにしようと思ったら、「新しい表現に挑戦する」ということはもちろんあるけれど、それとはべつに、自分の書いた作品を正確に読む必要がある。

 小説を書くひとが「読むこと」をおろそかにしてはいけない理由は、色々言われているけれど、結局のところ、色んな作品を読んでみないと、「自分の表現の善し悪し」が分からないからではないか、と思う。

 どんな文章を読んで「これは良い」と理屈抜きに感じるのか、あるいは「嫌な文章」には何が欠けているのか、肌で感じていなければ、自分の言葉の「善い/悪い」が分からない。

 文章を書くときは、だれかの「もの差し」なんか、何の役にも立たない。自分の差しで「いい・わるい」を決めなければ、文章を書く意味なんてないような気がする。

 昔、ヴァイオリンの弦の押さえ方を祖父に教わったことがある。そのとき、祖父は「こわごわと正しい音を探して弦を押さえるな、最初から『絶対にこの音が正しい』という位置に指を置き、怖れずに弾け」と言った。

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 「自分の書いた言葉なら、自分が一番読めるだろう」と作者は思い込む。でも、ほんとうにそうだろうか?

 作者の書く能力と読む能力が完全に等しく釣り合っているなら、「作者が自作を一番読める」はあり得るが、現実には、そんな書き手など一人もいない。

 作家や小説家が「書くことのプロ」なら、書評家や評論家は「読むことのプロ」だ。専門領域が分かれていることには、それなりの理由があると思う。

 書き手が第三者に指摘されて、はじめて自作の欠点に気付く(あるいはその逆で、「自分では思いも寄らなかった作品の読み方」に気付く)こともある。

 そもそも、自作の内容を完全に理解して説明できるようなら、その表現は作者の理解の範疇に収まっている程度の作品なので、面白い表現をやったとは言えない。

 ほんとうに面白い作品には、書いた本人にも「何で書けたのかちっとも分からない」箇所がかならずあると僕は思う。それは頭で書いた文章じゃない。同じ文章を再現することは二度とできない。

 書き手は自作の文章と距離が近すぎるので、書いた直後は、冷静には読めなくなる。自作となると、どうしても評価は甘くなるのが人情だ。苦労して書いた、というバイアスも掛かっている。

 それを取っ払うために、作品を「寝かせ」たり、わざわざ紙に印刷して「これは他人の原稿」だという体で、赤入れをする。

 自分の書いた言葉なら、自分がいちばんよく分かる、とは思わない方がいいかもしれない。書くときの目と、読むときの目は同じではない。

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 僕は話を歪めて書く癖がある。直そうと思っても、そう簡単には直らない。

 話を歪める、って言うのはどういうことかというと、話の展開を続けるためにその登場人物であれば取らないような行動を取らせていたり、不自然な台詞を言わせたり、作者の自己弁護をやっていたり。

 作者である僕にとって都合のいい書き方をやったな、という自覚のある箇所。

 そういうことを一箇所でもやると、仮に他のところでどんな表現ができていても、作品としては成立しないのかもしれない。

 昔、学校に通っていた頃、登下校の道のりが長かった。中学生ぐらいのときの話だ。クラスメイトと駅前でばったり顔を合わせると、そのまま二十分くらいは校門まで歩く。
 
 僕は話をするのが苦手な口下手な子どもだった。でも、クラスメイトに「面白くないやつ」だと思われると、仲間はずれにされるので(当時の関西の学校はどこもそんな感じだと思う)、無理に話をしようとして、けっこう嘘を吐いた記憶がある。

 僕の素の部分はめちゃくちゃ暗いやつだったが、嘘を吐いているときだけは、友達が笑ってくれた。登下校の二十分間で友達が笑ってくれるなら、べつにそれでいいやと思っていた。

 そういうことを続けていると、いつの間にか素の自分を出すことが怖くなって、つねに正反対の性格を演じた。家族も友達も先生も、僕が嘘を吐いている間だけは、みな優しかった。

 もちろん妙に勘の鋭いひとを相手にしたとき、僕の嘘は通用しなかった。初対面なら、猫だましもできたけれど、付き合いが長くなると隠し通せなかった。僕がクラスメイトの前でおどけた振りをしていると、顧問の先生に「〇〇は、ほんとうは話が上手いわけじゃない」と見抜かれたことがある。そのときの目をいまでもはっきりと覚えている。

 僕が話を歪めるのは、その頃からの癖かもしれない。嘘を吐いたり、話を歪めた方が得をするんだって知っていたからかもしれない。

 高校生の終わり頃になると、僕は段々笑えなくなっていった。単純にクラスメイトの前で嘘を吐くことに疲れていた。大学生になるとほんとうに笑わなくなった。アパートで買ってきた古本を読み漁っては、夜間清掃のアルバイトをした。そうすれば知り合いに会わなくて済んだ。僕はべつに誰かの前で笑いたくなかったし、自ら進んで笑いものにされたいわけでもなかった。

 病院に入って大学の構内に戻ってきた頃、「お前は暗くなった」とかつての友人に面と向かって言われた。なぜ、ひとの気持ちが分からないやつにかぎって、こんなしょうもない台詞をわざわざ僕に言いにくるのだろう? もう誰とも口なんか利きたくなかった。聞きたいことがあるなら、小説に書いておしまい、でいい。

 いま思うと、僕は話を歪めたりしちゃいけなかった。笑いたくないなら、笑わなければよかった。あの二十分間、僕は口を噤んでいるか、素直に心に浮かんだことだけを話せばよかった。それで友達がいなくなったって、べつに平気でいたらよかった。ひとりで登下校の道を歩いて、ひとりで帰ってくればよかった。嘘なんか吐かずに、ほんとうのことだけを言えばよかった。

 2024/03/19 23:35

 kazuma

余談:
僕が運営する文学ブログ『もの書き暮らし』の最新記事は、執筆のモチベーションを維持する方法について考えてみました。「もの書きは走った方がいい説」について検証しています。執筆に行き詰まったときの気分転換としてお読みください。

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