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「五分前に終わった」

 世界は五分前に終わった、と壇上の男が言った。演説台には"underson"というネームプレートが置かれている。この男、アンダーソンの背後にはエマ夫人が控えていて、両手を奇妙な形に組み合わせ、祈りを捧げるように片膝をついていた。アンダーソンはマイクを手に取り、スピーチを続けた。会場のホールには約三千台のカプセルマシンがあり、人々はその中に収容されながら、この地球最後の自由人による演説に耳を傾けていた。
「そうです、五分前に我々の世界は終了したのです。あなた方全員がこのエンド・アルファ型カプセルに入った瞬間に。何も恐れることはありません。わたしはあなた方の未来をすべてシミュレートし、演算した結果、これが最善だと判断しました。痛みもなく、意識に上ることもありません。間もなくあなた方はこの苦しみの怨嗟に満ちた世界から逃れられます。素晴らしいことだと思いませんか……、我々がやった十三度の大戦も、人口増加による醜い食料の奪い合いも、地球環境の崩壊による生命の危機も、すべてこれによって乗り越えることができるのです。この世界への敗北などでは決してありません。むしろこれは勝利なのです。このゲームを人類に仕掛けた神への意趣返しです。古い格言にこういうものがあります、『一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ、穀物の穂は静かに刈られた』。わたしはこの最後の時間をあなた達との歓談に使いましょう。質問や疑問があるならすべてお答えしましょう。そしてわたしとあなた方の間にある疑念を晴らし、その溝を埋め、この世界を、人間の存在を終わらせるのです……、む、1789番、無駄な抵抗は止していただきたい。無論、あなたが反抗することは15年前から既に計算済みですが」
 大ホールの壇上には仮想空間が映し出されており、まるで披露宴の会場のように人々はフロアにごった返し、会話をつづけていた。円卓のテーブルには勲章を付けた軍服姿の男達が集まり、シャンパンを傾け、我々はもうここまでか、とささやき合っていた。そのとき、ジャック・ソワニエールという若い青年が星空のマントを身にまとい、マイクブースへと静かに歩いて行った。首元には月の形をしたロケットペンダントが輝いている。豊かな金髪を束ねた受付の女性からマイクを受け取ると、ジャック・ソワニエールはこう尋ねた。
「お尋ねします。人間が、倫理的に完成する見込みはなかったのですか?」
 会場からどよめきの声が上がった。たった十五、六の年端もいかぬ青年からこんな質問が飛んでくることは予想だにしなかったのだ。アンダーソンが答える間もなく、後方からしゃがれ声で野次が飛んできた。哲学者のアンリ・ザネッローリの声だった。
「やい、青年。この会場を一度、端から端まで見渡してみな。この中にあんたが言うところの『倫理的に完成された』人間が、たったひとりでもいるかね? 人間なんて百まで生きたって変わりゃしねえ、毛ほどの差もありゃしねえんだ。いいか、みんな同じことさ。この世界で人間がやったことは何だ? ただ飯を食って糞をして寝ただけじゃねえか。それも三千年も昔からな」
 アンリ・ザネッローリはソファに深く沈み込み、葉巻に火を点けて大きく吸い込んだ。アンダーソンは咳払いをし、前方を真っ直ぐに見つめる青年ソワニエールに向かって答えた。
「いい質問だ、ソワニエール君。私はね、君たちの過去から未来に至るまで、ほとんどすべての――つまり私の演算能力が及ぶ範囲の限界まで――人類に起こり得ることを予測したんだ。この惑星が誕生する46億年前の地球の姿から、西暦2931年の現在までをね。私は、これまでに途方もない数、那由他、阿僧祇回に渡って、君たちのことを試した。起こり得る可能性を、無限の組み合わせである神のアルゴリズムに従って試した。でもいつも君達の答えは同じだった。一億回シュミレートしても、君たちはまだ地球が破滅するまで争っていたし、一京回試算しても、君たちは隣人ひとり救うことはできないし、一亥回計算しても、やっぱり君たちは不完全な人間のままだった。そこのソファに沈み込んだ哀れな哲学者が言うように、人間の生なんて知れたものだと我々は大昔から知っていた。ソワニエール君、我々は君たち青年に罪を告白せねばなるまい。こうなることが最初から既に分かっていて、それでも我々は我々よりも先の未来を生きる君たちの可能性に賭け続けたのだ。自分たちでは辿り着けもしない未知の可能性に辿り着く、たったひとりの人間を未来において生み出すために、我々は四六〇〇〇〇〇〇〇〇年前の過去の世界から、君たちのような青年を産み出しつづけたのだ」
 この狂った世界に絶望しないためにな、と広間の中にいる誰かが付け加えた。
「人間なんか、綺麗さっぱり絶望しちまった方がよかったのさ。くそったれ」哲学者アンリは、髭を撫で回しながら毒づき、葉巻を持った手を振り回した。
「いいか、そこの坊主。壇上の奴さんはだな、わざわざおれたちについての馬鹿げた計算をして、その数値を実際に確かめてみないことには、この世界がいかれてるってことが分からなかったんだ。だが、ちっとでも頭が回る奴なら気が付くと思うんだがね」
 アンリは葉巻を深く吸い込み、煙を吐き出すように話しはじめた。
「この世界は悪夢ナイトメアさ。生物同士、お互いを殺し合わなければ生き延びられない無限の悪夢さ。おれがまだちびだった頃、そのことに気が付いて愕然とした。おまけに、人間は生存に関わらない状況でも争い合う始末さ。なあ、青年。君はほんとうに完全な人間が現れると思うかい? 君の言うとおり、倫理的に完成された人間がこの世にひとりでも生まれたとしてもだな、そいつの足元には無限の家畜と死んでいった人間の骸が埋まっているだろうと、おれは思うんだ。遙か昔に『神は豚だ』って言い切った奴がいてね。まあ豚ではないにしろ、この世界の神の出自について、何かきな臭いものを感じるのは確かだね。おれにはこの世界をつくった神が一つであるようには見えないんだ。二重にも、三重にも、百万のピースにも、だぶって見えるんだ。これだけ人間に都合よく世界が作られていながら、これだけ人間を苦しめる場所が他にあるかい? 神が唯一の全能なら、なぜバベルの塔で人間の言葉をばらばらにしたんだい? どうして知恵の実を食べることを禁じ、生命の実が奪われることを恐れたんだい? 神には善と悪の見分けも付かないのかい? それとも人間の理解を超えた善悪の彼岸にでもいるのかい? だからといってそれが生物の命を弄ぶ理由になるかい? もしかして神は生命の実だけを食って、知恵の実は食わなかったのかい?」
 おれにはそれがずっと分からないんだ、とアンリは言った。
「涜神罪だ!」とアンリの隣にいた老婦人は叫んだ。アンリはたちまち緑の護衛服に身を包んだ親衛隊四人に取り囲まれた。アンリは葉巻を絨毯の上に投げ捨て、懐から新たなもう一本を取り出し、口にくわえた。燃えくすぶっている葉巻の火を消そうと躍起になっている親衛隊員を見下ろしながら、アンリは言った。
「涜神罪ねえ……、人間の存在そのものが終わりを迎えそうなときに刑期を務め上げる奴がいるのかね。それも神への冒涜と言うなら、壇上の奴の方がよっぽどふさわしいと思うんだが。君たちはそう思わないのかね。奴のやろうとしていることは、合法的な集団安楽死さね。別にいまさら反対しやしないが、これ以上の神への冒涜があるかね? その人間の法とて、お前が作ったんだろう、アンダーソン」
 親衛隊は絨毯に付いた葉巻の火をようやくもみ消し、放言を止めぬ哲学者の口元を塞ぎ、これを取り押さえようとしたが、壇上のアンダーソンは手振りでそれを制した。銀色のブローチを付けた老婦人はなおも癇癪を起こし、椅子から立ち上がって喚き立てている。
「あのお方はこの世界を救ってくださる救世主メシアさ。あんたはそれに楯突く、業の深い悪魔だよ!」
「あまり人を悪魔呼ばわりせんでくれ、まだ人間なんだ」とアンリは親衛隊の手を払いのけて言った。アンダーソンが再びマイクを取った。
「ミスタ・アンリ。私も人間として生を享けた頃、あなたと同じように考えました。随分と気が遠くなるほど、その問いの中にいました。神は人間の善悪の概念の中には棲みません。神にとって、世界に善悪はなく、ただ世界があるばかりです。そう考えたときに、この世で善行とされている善がいったい善であるのか、私にはいよいよ分からなくなってきたのです。この世界が幸福で満たされることはありません、その影にはいつも不幸がつきまといます。人間の行く手にはどこへでもついてくるのです。私にはその影が我慢ならなかった。神はどうして世界を隅々まで照らさなかったのか、つまるところ、あなたと考えていることは同じです」
「だからといってこんな狭いカプセルに人間を閉じ込めて、仮想空間の中に取り込んでおくことが正しいとは思わんがね」
 いらだちを隠すことなくアンリは椅子の肘掛けを人差し指の先で叩いた。その時、ホールの広間の裏手から爆発音が鳴り、人々はテーブルの下へ隠れたが、いったいどこからその音が鳴っているのか、広間にいる誰もが突き止めることはできなかった。
「何だ、どこで爆発があったんだ?」
 フロア内は静まりかえったが、爆煙も火の手も見えない。人々は一時の静寂のあと、フォークやナイフを取って会食を再開した。廊下側の扉が開き、フードサービスの給仕が山盛りのフルーツを乗せた巨大なカートを押してやって来た。カートは見るからに重そうで、カートの天板の下には子供が二人分、優に収まるほどの戸棚が付いていた。親衛隊の一人がこの給仕の少女、ラウラを問い詰めて聞きだそうとしたが、ラウラは首を捻るだけだった。
「分かりません。そんな物音がしましたか? ところで、フルーツはいかがでしょう。美味しいザクロとヤシの実の混合ジュースがありますよ」
 やがて親衛隊のひとりが叫んだ。
「1789番が消えたぞ!」
 またあいつか、と上官であるソーサー司令は舌打ちをして辺りを見回した。連絡機メッセンジャーを耳に当てた。
「1789番がシステムからの離脱を試みているようです。爆音の原因を調査しておりますが、いまのところ不明です……、はい、了解しました。すみやかに特定作業に入ります」
 ソーサー司令は1789番の行方を見失った衛兵の胸倉を掴んだ。
「いったいどういう了見だ? ギルティ衛兵。やつは常習犯だ、貴様が見失うから『システム』を稼働せねばならんだろう。電力供給はただでさえかつかつなんだ。これ以上、我々の手を煩わせるな」
 ギルティ衛兵は地面に突き飛ばされた恰好になったが、すぐさま立ち上がって最敬礼のポーズを取った。連絡機に別の衛兵から伝言が流れた。
「どうやら厨房の方で何かがあったようです。入り口に特殊な電磁結界が張られているため、突入することができません。どうしますか、司令。可能であれば『システム』側からの解除要請を願います」
 ソーサー司令は溜め息交じりに言った。
「厨房前のデルタ廊下に特殊班を急行させろ。やむを得ない場合は、厨房ごと強制終了フリーズして構わん。中の人員はどうなるか、だと? いいか、このミッションは絶対だ。どんな手を使ってでもアンダーソン総裁の理想を実現するのだ。いいな?」
 連絡機の通信を落とすなり、ソーサー司令は呟いた。
「まったく、どいつもこいつも『システム』頼みだ」

 壇上のアンダーソンは眉一つ動かさずに、哲学者アンリと議論を続けていた。
「この世界を作った神に何かしらの欠陥があるっていうのが、あんたの考えなのか? アンダーソン」
 アンリは足を組み直し、再びソファに深く腰掛けた。アンダーソンはわずかに首を傾けた。
「欠陥、というよりもいくばくかの不信、といった方が正しいですね。これほど精妙に世界が作られてあるにも関わらず、この世界に存在する生物たちは不死の存在ではなく、互いを殺し合わなければ生きられないように作られていて、人間達は楽園から追放されたまま、という現実を前にすれば、そう考えるのもやむを得ません。おそらく神は指一本動かすだけで、この地球に楽園を作ることもできたはずです」
「おれは欠陥だと思うね。あんたは少々買い被ったんだ。神は完全な世界――あんたの言うような楽園を作れなかったんだ。作らなかったんじゃなくてね。この世界や人間が不完全に作られてあるなら、その作った神も不完全だと考えるのはそれほどおかしなことかね?」
「真理はいつも我々の道理からはかけ離れていますよ。ミスタ・アンリ。我々は待ちました、待ちすぎたくらいです。三千年もの間、救世主の到来をね。でも、待てど暮らせど彼はやって来なかった。この先、千年生きようが、二千年生きようが、同じです。神はこの世界を作るだけ作っておいて、どこかへ行ってしまったように思えます。人間は神からとっくに見放されているにも関わらず、未だに救われる希望を抱き続けている。もうそういう希望を持つのは終わりにしませんか、ということです。過去の文明がすべて滅びているのは環境の要因かもしれませんが、我々は我々自身の意思で文明を終わらせる、地球史以来、初の存在となるのです。そうすれば、もう我々は銃剣を誰かの胸に突き刺すことなく、麦の穂を奪い合うこともなく、病に冒されることもなく、互いを慈しみ合うように、無の世界に憩うことができるでしょう。他に方法は……ないのです」
 アンリがすぐさま手を挙げて、アンダーソンに反駁した。周囲の者は呆気に取られながら、ストローやアイスクリームスプーンを片手に、この議論を聴くともなしに聴いていた。
「終わらせてどうなる? また何十億という時間を掛けて、我々のような生命体が生まれるんだ。そいつに意識が宿るのを止めることは誰にもできない。大体、存在しない無の方が優れているとはかぎらないぞ。そこがこの世界よりも酷い無間地獄である可能性だってあるんだ。この世界にいた方がまだましだったということが、ありうるんじゃないかね」
 アンダーソンはこめかみに指先を当てては離す動作を繰り返した。指の腹が皮膚に触れる度に電撃が走るかのように、アンダーソンは顔をしかめた。
「いまここにいる我々だけでも救われればいいのです。何十億年も先の未来のことは知りませんよ。過去の出来事をシュミレートするのと違って、未来の方はまだ私の手には負えませんからね。少なくともこの世界で起こっている人間の苦しみが取り除かれるのは確かです。我々はここで何かをはじめるために生まれてきたわけではないのです。あなたたちの教師は青年たちに向かってその反対を説いたかもしれません。『あなたたちには、未来がある』と。でも実際のところは、その逆ですよ。私たちはここで何かをはじめるためにではなく、終わらせるために生まれてきたのです。いつかは誰かがこの役をやらなくてはならない。その席にたまたま座っているのが私であったというだけでね」
 アンリはふかしていた葉巻を放り出し、給仕係のラウラからザクロの果実そのものを受け取ってひとかじりすると、走って行って壇上へと投げつけた。講演台のエンブレムにザクロの実は当たって弾け、アンダーソンの足元に赤い粒が転がっていった。しかし彼はまったく動揺することなくアンリを見下ろしていた。アンリは息を切らして叫んだ。
「お前が言っているのは欺瞞だ。人間が無のなかに入ったあと、意識も何もないとするならば、時間を感じ取ることもできないだろう。五十億年だろうが百億年だろうが、我々が次に目覚めるまでに、たった一回の瞬きで済むかもしれんぞ。お前の主張する『無に憩うこと』なんて大嘘さ。それができるのは、人間のいなくなった世界にただ一人残るお前だけだ。お前は人間を救いたいんじゃない、自分だけが救われたいんだ。人間という不完全で厄介で予測不可能な存在を取っ払って、お前はお前自身が完全に予測できる範囲の中で暮らそうとしているんだ」
「それこそが、真の平等というものですよ。ミスタ・アンリ。この世界は何者かによって歪められている。私はその歪みをならして、平らにしようというだけの話なんです。この世界に歪みがあるなら、それが最初から生まれないようにすればいい」
 その瞬間、会場の照明が一斉に落ちた。同時に壇上に映し出されていた仮想空間が暗転し、ひとびとは一斉にカプセルマシン内に収められている現実世界へと引き戻された。ほとんどのカプセルマシンは正常な動作を続けていた。何人かの人々は「早く元に戻せ」「まだ食事中だ」「こんな景色は見飽きた」とマシンの中の特殊強化ガラスを叩き続けていた。一方で、会場の隅からは悲鳴が上がっていた。座席番号1790番の女性は口元を手で押さえ、目を伏せて言った。
「人が……死んでる」
 壇上の映像が即座に切り替わり、突如としてガラス片の上にうつ伏せになった男の姿が映し出された。男は腹部から出血しているようで、呼吸もなく、既に息絶えた様子だった。高く伸ばされた右腕には「1789」の数字が刻印されている。左手の指は印を結ぶように、人差し指と中指が伸ばされたままで、親指と薬指と小指が内側に折りこまれていた。四台のロボットの手によって黒い布が被せられ、遺体が担架に乗せられていく。アンダーソンがマイクを取った。
「ご覧ください。彼はかつての革命軍のリーダーであり、『三つの眼を持つ男』とまで言われた人物です。彼はこの『システム』からの脱走を何度も試み、挙げ句にこの『エンド・アルファ』型カプセルから外に出ようとした折に、飛散したガラス片により大量出血しました。既に酸素濃度の薄くなったカプセル外で、絶命したものと見られます。さあ、皆さん。我々の理想の実現はもうすぐです。あなた達の中にいく人かのレジスタンスの構成員がいることを私は把握しています。抵抗が無意味だということはもうおわかりいただけることでしょう。我々は滅びの運命にある生き物なのです。これは、その時計の針を少し早めただけに過ぎない――」
 再び照明が戻り、人々の意識は仮想世界に移行した。壇上にはスポットライトを浴び、高らかに両腕を広げるアンダーソンとその信奉者シンパ達で会場の前列は埋まっている。
 ソーサー司令は、厨房前のデルタ廊下に集結した解析班の話を聞きながら実地検分していた。解析班のひとりがソーサー司令に向かって報告した。
「厨房の部屋セルはつつがなく削除デリートしました。現在復旧したセルの解析を進めています。1789番はやはりこの部屋から逃走経路のパスを作っていたようです。食料保管庫の一室が別のデータに塗りつぶされ、改ざんされていました。協力者がいるはずですが、いまのところ痕跡らしきものは見当たりません」
「妙だな、『システム』上に痕跡を残すことなく『システム』そのものに干渉することはできないはずなんだが」ソーサー司令は首元に手を当てた。
「巧妙にパスを塞いだものと見られます。しかし、あいつが作った現実との出入り口バックドアはここにしかないはずなんです……」

 そのとき、アンリは懐から銃を取り出し、銃口をまっすぐにアンダーソンに向けた。会場は途端に静まり返り、アンリは一歩一歩、アンダーソンににじり寄っていく。前列を埋めていた信奉者たちは海を割ったように二つに割れて、その中央に道ができた。アンダーソンは壇上で両腕を広げたまま、怯える様子もなく、この老哲学者と向き合っていた。
「ミスタ・アンリ。あなたがレジスタンスの元締めだってことは、調べがついているんです。おや? いま引き金を引こうとしましたね? べつに引いてもらっても構わないんですよ。仮想空間の中の私は殺せても、現実の私は変わらず存在しますから。あなただってそんなことはよく分かっているはずだ」
 アンリの銃から発砲する音がした。弾丸は壇上の幕に穴を開けたが、アンダーソンは一歩外に踏み出していたために命中しなかった。とっさに近くにいた親衛隊がアンリの膝を撃った。アンリはその場に崩れ落ち、喘ぎながら言った。
「貴様、過去ではなく未来を予測するためにその力を使っているな?」
「そうですよ。ここは神がつくった世界ではなく、私がつくった世界ですから。どうやらあなた方を説得するには、あなた方の寿命以上の時間が必要なようだ」
 アンダーソンはこともなげに言った。
「お前はタイム・シフターのレバーさえ握っていて、いつでも過去をやり直すことができるのに、どうしてそのレバーを引かなかった?」
 アンダーソンは首を傾げ、壇上の舞台から降り立った。会場の人々はこの一幕を見ようと野次馬のように集まっていた。給仕係の少女、ラウラはカートを押して前方へと近付いていった。そしてジャック・ソワニエールの隣に何も言わずに立っていた。ラウラはソワニエールの手を取り、この喧騒から逃れようとするかのようにカートの戸棚の中に二人で潜り込んだ。
「簡単ですよ。この世界をやり直す必要などないからです、ミスタ。この世界は常に最善なのです。さあ、もうこんな悪夢は終わりにしましょう。人類はもう苦しみから解放された存在になるべきだ」
 アンダーソンはアンリの面前に歩み出た。その手には銃が握られており、アンリの額に銃口をかざした。
「これは慈悲ですよ。憎しみではなくてね」
「アンダーソン。お前にはこの世界の美しさが分からない……」
 銃声とともに会場の照明が落ち、人々の意識はブラックアウトした。

 ソーサー司令はデルタ廊下で衛兵の報告を受けていた。
「1789番は現実空間内で処刑が行われたようです。レジスタンスの精神的支柱である哲学者アンリはたったいま射殺されました。総裁は現在、カプセル内に笑気麻酔、催眠ガスを注入し、ひとびとの意識を入眠状態に移行させました。関係者をのぞく、ほぼすべての人間が無意識下の状態に置かれています。これにより、総裁の理想である全人類の永眠の成功確率は96.59%まで上昇しています」
 ソーサー司令は無線機を握りしめながら深く頷いた。
「ふむ、それは結構なことだが……、ここまでやって、なぜ100%に近い数値にならんのかね。その3%は何を示唆している?」
 通信先の衛兵は言い淀んだ。
「それは『システム』の、あくまで『システム』が弾き出している予測なのですが、この入眠状態を免れているものが若干名存在するらしい、ということと、我々の内部にレジスタンスの内通者がいる可能性が残されている、ということです。あくまで推測ですが」
 ソーサー司令の眉間が動き、しわが寄った。
「『システム』はその3%を埋めるために、我々に何を要求している?」
「申し上げにくいことですが、司令。『システム』は総裁をのぞく、我々全員の即時射殺を提案しています」
「馬鹿を言うな。機械仕掛けのブラックジョークに付き合っている暇はないんだ。次点は?」
「内通者、および未だ覚醒状態にあるものを特定し、処分することです」
「それでいい」
「しかし、司令」
「何だ?」
「我々にはもうその時間さえ残されてはいないようです」
 通信は途絶え、ソーサー司令は意識を失った。連絡機からは雑音ノイズだけが響いていた。

「さあ、エマ。我々の世界はたったいま完成した。これから君と新世界を生きようじゃないか。邪魔者はもういない。我々二人でこの世界をやり直すんだ」
 静まり返った会場の階段を昇る、アンダーソンの足音だけが響いていた。エマは片膝を床に着けたまま、神に祈ることを止めようとはしない。昇ってくるアンダーソンの背後には、意識を失った無数の人々が互いに折り重なって山のように横たわっていた。エマはアンダーソンの言葉には答えず、眼もくれようとしない。一心不乱に祈り続けるエマの肩にアンダーソンは手を伸ばした。
「エマ? どうしたんだ、君は? もうこの世界には僕らしかいないんだよ。祈る理由なんてないじゃないか。この世界では僕たちが――神なんだから」
 そこまでだ、とアンダーソンの背後で声がした。正体不明の男がアンダーソンの背後で銃を突きつけていた。
「どちらさまで?」アンダーソンは振り返りもせずに言った。
「おれは……そうだな。3001番と名乗るのがいいか?」
「ふざけたことを言いますね。この世界には3000番までしか人間の番号はないんですよ」
「お前の世界ではそうらしいな」銃口の先で男はアンダーソンの背中を小突いた。
「……」アンダーソンは沈黙した。
「おれはお前の世界を終わらせに来た。お前がこの世界のアルファなら、おれがオメガだ。おれはお前の「未来」であって、同時に「過去」だ。おれに無いのは「現在」だけでね。お前が決して計算することのできない世界からやって来た」
 アンダーソンは振り返って、その男の正体を捉えようとしたがフードを深く被っているためにその顔は見えない。ただ虚ろな影だけがアンダーソンの目に映っていた。その手には旧式のリボルバーが握られている。
「何を持ち出すかと思えば、19世紀のアンティック・リボルバーですか。どこで手に入れたか知りませんが、そいつで私を撃つってわけですね。いいですよ、引き金を引いてみれば。端から端まで、30世紀のトランスヒューマニズムで出来上がった私を撃てるのならね」
「ずいぶんと30世紀を信用しているんだな」男はリボルバーのシリンダーをかちりと回した。引き金が引かれた瞬間、発砲の音もせず、硝煙も上がらず、弾丸ひとつ発射されなかったが、アンダーソンは絶叫しながらその場に屈み込んで、立ち上がることができなくなった。
「こいつの見かけは19世紀だが、中身はお前の知らない世紀だ」
 アンダーソンはその場に伏したまま、フードの男に向かって手のひらを向けた。強力な磁場が発生し、男の手元から銃が吹き飛んだ。リボルバーは壇上の床を滑り、エマのすぐ足元に転がった。
「エマ! それでこいつを撃つんだ!」アンダーソンが叫んだ。
「……」フードの男は床に伏したままのアンダーソンを無言で見下ろしている。エマは震えながら銃を手に取り、照準を男に合わせたところで固まった。
「いますぐだ! 君は引き金を引くだけでいい……そうすれば、僕らの待ち望んだ新しい世界は、いまにやってくる」
 スコープの向こう側からフードの男の顔が覗いていた。エマは歯を鳴らし、銃身が左右に揺れた。
「……撃てない。私に、この人は、撃てない。だって、このひとは」
「こいつが何だって言うんだ、エマ!」
「ごめんなさい、アンダーソン」エマは銃を取り落とし、口を開いた。
「私、あなたに一つだけ嘘をついた。あなたが言う、これから来る世界に、私は行けない。私にはあなたが必要だけど、あなたは私を必要としなくなる。完全な世界はただひとつのもので、そこに人間が棲むことはできないわ。そこは神様のための場所で、人間はこの不完全な世界に留まり続けるの。そこがどんなに不公平で、いびつで、悲劇に満ちあふれていたとしても、私たち人間は、その世界の中だけでしか、生きられないから」
「エマ、君だけは僕を裏切らないと思っていた」とアンダーソンは首を振った。
「私は人間で、あなたは神様になりたがった」とエマが言った。
 フードの男がアンダーソンに触れた瞬間に、アンダーソンはねじを抜かれた人形のようになり、その目からは生気が抜けていった。フードの男は壇上を降り、この一部始終を座席で目撃していた二人の青年の元に歩いて行った。
「ソワニエール、ラウラ。よくやってくれた。君たちが時間を稼いでくれたおかげで、もう一度この世界をはじめからやり直すことができる。ここにいないアンリやギルティも、君たちを讃えるだろう」
「あなたが給仕カートの中に隠れていただなんて誰も思いませんよ。そこでバックドアを作っていたこともね」とラウラがザクロの実をかじりながら言った。
「あの、僕たちはこれからどうすれば? それに、あなたの名前も聞いていないんです」ソワニエールが尋ねた。
「名前……そうだな。私は君たちの古い言葉で『運命』と呼ばれていた。もうこの世界ではとっくに忘れ去られてしまったようだが」
「ねえ、おじさん。わたしたちってどうなるの? まだ答えてもらっていないわ」
 ラウラがザクロの実を放り投げ、隣にいたソワニエールがそれを受け取った。3001番の男は二人の青年の頭に手を乗せて言った。
「いいかい。よく聞いてくれよ。たとえどんな時代、どんな場所に生まれようと、君たち青年はたったひとつの義務を果たせ。それは生きることだ」
 エマは非常ガラスを突き破り、タイム・シフターのレバーを握った。合図を送り、男は頷いた。いまに君たちの時代が来る、それまで五分も掛からないさ、と二人の青年の前で笑った。ソワニエールがザクロの実をかじった。
「アゲイン」
 地球は46億年前の姿に巻き戻った。

(了)

もの書きのkazumaです。書いた文章を読んでくださり、ありがとうございます。記事を読んで「よかった」「役に立った」「応援したい」と感じたら、珈琲一杯分でいいので、サポートいただけると嬉しいです。執筆を続けるモチベーションになります。いつか作品や記事の形でお返しいたします。