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さようなら君の街

仕事で神戸に行くことがあった。学生時代に暮らした街である。
学生生活はお世辞にも上手くいったとは言えない。尖っていたと言えば聞こえは良いが、常に虚勢を張り、他の人とは違う振りをし、正直学校にもあまり真面目には行くことが出来なかったので、昔暮らした街にそれほどの思い入れはないつもりだった。
が、到着するだけで溢れるわ溢れるわ。思い出が。というより記憶が?ほとんどはしょうもない記憶で、このコンビニであいつがLチキ食べてたなとか、昔もこの看板はドライビングスクールのやつだったなとかなのだが、その些細な記憶が次の記憶を芋づる式に連れてくる。はっきりした記憶もぼんやりした記憶も雪だるまのように膨れ上がっていくと、そういえば確かにこの街で暮らしていたのだよなあ、と、感慨とも非現実感ともつかない感情に包まれる。

そういうわけで、神戸への到着は遅い時間で疲れていたが、ホテルに荷物を置いたのち、柄にもなく散歩に出かけた。

昔歩いた道を辿ると、自分の身体の中に確かに時間と街が折り畳まれて保存されているのだという感覚が強まった。テナントの入替や多少のスクラップアンドビルドがあるとは言え、街路の感覚は変わらない。そこを曲がるとあれが見えて、とか、ここで道を渡らないとあそこは渡りにくくて、とか、そうした身体的な記憶がまず先にあり、そのレイヤーの上に顕在的な記憶が蘇っていく。前述の通り友達がLチキを食べていたなとか、友達の彼女のプレゼント選びに付き合った店だな、とか。折りたたまれていた時間が再び開き、現在の自分と重なって、過去と現在の境目がわからなくなるような気がした。確かにここにいるのはもう大分おっさんになった自分であり、一応仕事をし、一応家族を築き、流石に当時ほどは尖っていない自分である。集中するまでもなく、当時は影も形もなかったはずの子どもの顔も思い浮かべることができるのだが、同時にこの道を歩いて学校に向かう時の鬱々とした気持ちも、重ねて思い出すことができる。
記憶というのは、それがいわゆる顕在記憶であったとしても、ひとつひとつ引き出しに仕舞われているようなものではなく、具材が混ざり合ったスープのようなものなのだろう。

ふと、珍しくイヤホンをしていない自分に気が付く。
次から次へと蘇る記憶、それを身体的な記憶と顕在的な記憶に仕分けること、あいつどうしてるんだろうな、なんであのときあんな感じでしか生きられなかったんだろうな、日記にこういうことを書けそうだな。そういうことを考えながら、気づけば7kmほども歩き、海岸に辿り着いていた。
集中した思索とも、思い出を噛み締めて悦にひたっているともつかない時間である。
と、記憶と思索が癒着していることに気がつき、怖くなった。
もしも記憶を辿ることと、考え深めることに見境がつかなくなってしまったら、自分は記憶の中で生きるしかないのかもしれない。何度も同じ思い出をしがみ、同じような思いに行き付き、同じ袋小路で壁に手をついて満足をしていることを、自覚できなくなってしまったとしたら。
何もいつまでも若くいたいとは思っていない。が、もしも完全に自分が自分の記憶の中でしか思考できなくなるとすれば、それはかなり怖い。

東浩紀の新刊「訂正する力」は、変化を変化として許容しながら、それでも一貫性を保つことの重要性について、わかりやすく納得いく議論の進め方でまとめられていた。「自然を作為する」というある意味矛盾した態度を持つために、自身を訂正する必要がある。
自分が比較的デザインの仕事が好きなのは、過去につくったものの完全なるコピーをつくることがないからかもしれない。新しく何かをつくるということは基本的に過去の自分の制作の訂正を多少は伴うものである。そして、学生の作品、ひいては作品群としてのポートフォリオを見るのが好きなのは、その訂正がダイナミックであることが多いかもしれない。リメイクやリテイクをしていなくても、過去の制作を改めて取りまとめる過程で、学生自身がその作品の見方を全く変えてしまうようなまとめ方をするケースがままあるからだ。自然を作為する。自分自身を無理に変えようとしたり、逆に学生が自分らしさを強く求めて悩もうとも、制作当時のことを事実ベースでまとめていくだけで、それなりに「自然を作為」するようなフォームになるのではないか。
そんなようなことも考えながら「訂正する力」は読んだ。

帰りは敢えて記憶の中にない道を歩いてホテルまで戻った。くどくどとよくわからない思索に耽り、ま、それなりにやってて偉いよな、当時の俺は今の俺をあんまり好きじゃないだろうけど、などと思いながら海岸からの坂道を登る。新しい記憶が折りたたまれていく。

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