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学校の外に出るということ

学生のころ、軽音楽部に所属していた。
大学時代の思い出はほぼそれのみと言っても過言ではない。部室には音楽好きしかおらず、世間にはほとんど知られていないインディーズバンドの名前が飛び交っていた。世を儚んだ退廃的なロックスターたちを崇拝する先輩と同級生がたくさんいる、夢のような場所だった。高校の頃、そういう話をする友達が周りにいなかった自分は、入学当初からそこに入り浸っていた。

それでも時間は経つ。
誰かに憧れ派手な髪型にしてギターを弾きながら叫んでいた先輩も、順番に髪の毛を揃えてスーツに腕を通していく。そういう姿を見られたくないのか、部室にもあまり顔を見せなくなっていく。
あっという間に、それが自分の代に回ってきたとき、僕はそういうのを「意識高い系」と揶揄する側になっていた。

就活することがダサいと思っていたというよりも、「自分が憧れているミュージシャンの生き方を、きっぱり諦めることになるのが怖かった」という方が正しい。自分の人生はひとつしかなく、どれかを選べばそれ以外の選択肢を選ぶことはできない、という強迫観念があった。音楽が好きな自分と、就職活動をする自分の両方を同時に保つことが出来なかった。
そして何より、今この場所でそこそこ楽しくやれている自分を、外に連れ出す勇気がなかった。もっとよくある言い方をすれば、上手く生きていく自信があまりなかった。ロックスターたちの、世を儚むようなポージングだけがすっかり染み付いて離れなかった。それだけなら良かったけれど、順番にスーツを着て大学の外に出ていく人たちのことをどこかでバカにしていたからたちがわるい。

そういう自分を外に連れ出してくれたのは、研究だった。震災後の避難所や仮設住居、遠隔地避難者の住空間や制度を調査をする中で、他の大学の学生と交流する機会が増えた。
大きな災害の直後だったこと、わけがわからないまま現地に入って被災地の現状を目の当たりにしたことで、手を抜くことは許されなかった。半ば強制的に、仕事として先生の研究を手伝ううちに、僕は緩やかに外部との垣根を取り払っていった。

単純にそれだけのことである。
震災が関係していたとは言え、自分自身に何かドラマチックなことがあったわけではない。災害を目の当たりにして人生観が変わったというわけでもなかったように思う。他大学の学生と現地での仕事の進め方を話したり、先輩である修士や博士の研究についてや、被災地にいる企業人や公務員の話に耳を傾けていたくらい。それらは、劇的でもなんでもないどこにでもある出会いだった。
ただ、同じ場所に留まり続けることを自然とやめるきっかけがそこにあったということは確かだった。部室の外には色々な生き方があり、色々な人生があり、色々な仕事があるということ。そういう当たり前のことを、なぜ自分はそれまで知らなかったのだろう。

場所が変われば視点が変わるというのは、シンプルだけど真理なのだと思う。
そして就活というのは、学校という場所から徐々に軸足を社会に移していく通過儀礼なのだろう。
学生時代の自分の肩を持つわけではないけど、それは怖いことだと思う。見えるものも価値観も変わってしまう可能性に自分を開いていくことは、怖くて当然のことでもある。

そういう中で大人になった自分たちができるのは、企業として素直にいいことも悪いことも学生に伝えることなのだろう。透明で、非対称ではない就職活動のフィールドを作る。楽しいも辛いもないまぜにしながら、ただそこで働く自分のありのままを見せることが、学生が自然と社会に軸足を移すために必要なことなのだろうと考えている。

宣伝のようで恐縮なのだけど、そういうサービスを運営し、たくさんのイベントをやっている。
説明会は、「一番最初の学校の外」なのだと思っている。ひとつの場所で学んだ価値観やスキルを、試しに照らし合わせてみる場所。
何か思ってもないようなことに出会えるチャンスを、少しでも作ることがしたい。過去の自分みたいな学生が、劇的じゃなくてもいいから、ほんの少しのヒントを持ち帰れる場所を作りたいと考えている。




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