見出し画像

さんぽすること

大きな合同企業説明会イベントを終えた夕方、学生からTwitterでDMをもらった。夏に一度面談をしたきり、しばらくやりとりのなかった学生だった。許可をもらったので、DMの全てを引用させてもらう。

田口さんご無沙汰しております。XX大学修士1年のXXです。
今日のUXROCKET、ありがとうございました。勉強になりました!

実は夏にインターンの選考をいくつか受けて以降は就活をしていません。あんまりいい結果が出なかったこともあるのですが、何となく避けているうちに冬になってしまいました。UXROCKETは、田口さんの告知を見てすごい数の参加者がいることを知り、焦って予約をしました。
ちょっと寝坊してしまって全部を見ることはできなかったのですが、今日話を聞いた企業の説明はどれも魅力的に思えました。ありがとうございました。

でもまたモヤモヤしはじめてしまったので、相談のDMを送りました。お忙しいとは思うのですが、宜しければお手すきの際にお読みいただければ幸いです。

田口さんのポートフォリオトークを聞いて、久しぶりに自分も今までの制作物をまとめたり、新しく制作をしなければならないと思ってデータを立ち上げたのですが、どうしても自分がやってきたことが意味のあることなのかどうかに自信が持てません。そしてデザイナーとして働くということも、本当に自分がやりたいことなのかどうかがまたわからなくなってしまいました。
自分は意志が弱いなと思います。UXROCKETで登壇していた学生の話を聞いていても、説明会でお話されていたXX社のXXさんも、本当にデザインが好きなんだなと思ったのですが、自分が感じたのは、デザインが好きで羨ましいなということです。説明会を聞いている時はわくわくしていても、自分がやらなければならないことに直面した時、それをやりたいのかやりたくないのかがよくわからなくなって逃げてしまいます。別にデザインが嫌いなわけではないと思うのですが、好きかと聞かれたら自信がないです。

こんな弱い自分がデザイナーとして現場に立ち続けられるとは思えないなと思うと、ちょっといま涙が止まりません。
イベントが終わったばかりなのにすみません。お返事は本当にお手隙の時で構いません!

「キャリアデザイナー」という肩書きで仕事をしていると、自分でも無意識のうちに「とにかく学生のお尻を叩いて、社会に押し出していく」ということを目的にしている感じがする。世の中にとって意味のあること、社会的意義のあること、誰かの役に立つかもしれないこと。
そういうことが連続していった先にキャリアというものは開かれており、内定をもらうことが出来る。あなたは自分のやるべきことを見出し、それに向けて真っ直ぐに歩いていくべきである。これを書いていても、別に間違ってはいないはずと思いつつ、何かどこかで後ろめたい気持ちがしている。

最寄りの駅にバッティングセンターがあり、こっそりそこに行くことがある。出社しなければいけない日、電車に乗る前にそこに立ち寄ることが多い。
野球が好きなわけではない。野球をやっていたわけでもない。球を打ちたいという欲求も、あるのかどうか正直よくわからない。よくわからないけど、ひとつだけ知っていることがある。球が飛んでくると、何故かバットを振ってしまう自分がいる。振らないぞと思っていても振ってしまうから不思議である。
20球のうちバットに球が当たるのは数球で、自分が思った以上に飛ばない。次はもうちょい球を見ようとか腰の捻りを意識してみようとか思うのだけど、それを考えているうちに次の球が飛んでくる。またバットを振っている。
大抵はワンゲームやって電車に乗る。残り数球になった時点で、「そろそろ会社に向かわなきゃ」と思っている自分がいる。ベンチに降ろしておいたリュックが目に入る。

電車に乗りながら、別にこんなに後ろめたく思う必要はないのにな、と自分で思う。バッティングセンターにちょこちょこ通っていることは、何故か家族も含めてほとんど誰にも喋ったことがない。プレイ時間はおそらく5分くらいなので、別にすごく仕事をサボっているというわけでもない。
結局自分で自分を指差して、「そんなことして何になるの」と問うてしまっているのだと結論する。自己研鑽でも経済的活動でもない、その経験がどこかに溜まっていくわけでもない。それに何の意味があるのか?副都心線の車内モニターでは、ちょっとした豆知識が身に付くようなクイズが流れている。それもまた、何か意味のあることの方へ追い立てられているような気持ちがしないでもない。

このモヤモヤを考えるにあたって、おそらく学生よりは少しだけ多く知識や経験を蓄えていることで、僕は次のようなことを考える。別に良いのだ、と。
ディオゲネスが物質的所有を拒否したように、ハイデッガーが意志を批判的に扱ったように、ヘンリー・ソローが山で暮らしたように、バートルビーがただ事務所に居座ったように、千葉雅也が意味のない無意味の中で論じたように、バットを振る行為が無意味だろうと、だらだらスマホを見て過ごすのでもなく、パソコンに向かってバリバリ仕事をするのでもない、普段の時間や環境から逃れて過ごすその時間は、掛け値なしに必要な余白である、と。ちょっとくよくよした後で、別にいいよな、と思える自分が、30歳を超えてからやっと出来上がってきた。
大抵オフィスがある渋谷ではなく明治神宮前で降りて、少し歩いてから出社する。

DMをくれた学生とは、Zoomで電話を繋ぎながら15分ほど会話した。
たまたまコンビニに晩酌セットを買いに出ていて、そのまま少し散歩をする予定だったので、ちょっと話してみますか?と聞いたら応じてくれたのだった。その学生もちょっとした用事で外に出ていて、お互い外を歩きながら話をした。夏からの近況報告を聞いて、とりあえずZoom切ったらスマホ見ないようにしながら散歩してみたら?とだけ伝えた。

意味のあることをしないようにするということも、立派な意志だと思っている。それが取り急ぎの間だとしても。たまに休むこと自体を「次働く時に効率が良くなるから」というふうに言う人がいて、それもわからないでもないけど、何かしないということは何かしないということ以上の何ものでもないと思う。
明治神宮からオフィスまでをやや遠回りしながら歩くと、結構パンクなことをしているような感じがしてくる。自分が自分にとって意味のある存在であると思える。何かしら価値を生み出すことにいつも躍起になっている自分とはまた別の自分がいるという発見もある。その発見自体に高揚している自分がいることもわかる。遠回りをしてもしっかりミーティングに間に合う時間にオフィスに着いている自分がいて、その同時性を自分は割と肯定している気がする。

先ほど酔っ払っていると、少し作業が進んだとDM学生から連絡があった。細かいデザインに関する相談も、複数書かれていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?