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路上からのメッセージ~田村あずみ著『不安の時代の抵抗論』(花伝社)を読んで



「情動」ということ

「311後の私(たち)の行動を、よくぞ、ここまで掘り下げ、言語化してくれた」
読み終えて、強くそう思った。

本書は、311後に東京で立ち上げられた原発反対の市民運動から、田村さんが受け取ったことが綴られている。

中で、たびたび「情動」という言葉が使われる。
311後の反原発運動を、「ショックにしろ、怒りにしろ、後悔にしろ、個々人の情動を推力にした運動」としているのだが、自身の経験を振り返ると、まさにこの言葉が当たっている。

たとえば、本書でも触れられている、2011年4月10日の素人の乱による「原発やめろ!!!!!デモ」。
私も、このデモに行った。参加した理由は、まさに「情動」だった。
地震、原発事故、放射能汚染を前に、どうしようもない不安や恐怖、怒り、悲しみ、焦燥感、罪悪感、無力感、閉塞感などが、自分の中に渦巻いて、苦しかった。
デモで歩いたら、町の人たちからどんな目で見られるのかといった不安や抵抗感もあった。さんざん迷い、逡巡した。
でも、気がついたら、デモの集合場所である高円寺に足が向かっていた。

あの日のデモのコールは、覚えていない。「原発やめろ」だったか、「原発いらない」だったか。ともかく、そこに参加した大勢の人たちと車道に列をなして歩き、一緒に声を上げたことで、鬱積していたものが解き放たれたことは覚えている。

「原発についてちゃんと勉強して、知ってからでないと、声を上げるべきではない」
当時も、今も、こうした物言いはなされる。
しかし、「情動」から出発していいのだし、そこからしか始まらないと思う。そのことも本書は言葉を尽くして、説得的に述べてくれている。

社会運動とオルタナティブ

為政者が示す政策や、既存の制度に対して、自分たちの権利と生活を守るべく、意思表示をすること。そうした「社会運動」に対して、自分たちの身近なところから自らの望む(もうひとつの)世界を作っていくのが、「オルタナティブ」といわれる。

本書では、311後の運動においても、その両者の実践があったと述べている。それらは決して対立的なものではなく、相互補完的なものだというのが、田村さんの考え方だ。私もそう思う。

私自身の経験を振り返ると、「社会運動」の中から「オルタナティブ」が生まれてもきた。田村さんがインスピレーションを大いに受けたとして、たびたび触れている「脱原発杉並」。私も、この脱原発杉並のデモに参加したことがきっかけで、地元の仲間たちと「脱原発中野も」という場を作り、何度かデモを行った。そして、その活動の中で別のアクションも生まれた。

特に印象に残っているのは、福島の子どもたちを支援するチャリティーとして企画された「なんかのBAR」(高円寺の「なんとかBAR」をもじったネーミングです。笑。「脱原発中野も」といい、杉並の人たちのアクションに影響を受けている)。

地元のDJバーを貸し切り、私たちがDJとなって、洋邦ジャンルを問わず、それぞれが好きな曲を店内で流す。地元の人を中心に、デモなどで知り合った人たちが集い、酒を飲みながら談笑する。そして、店の片隅に福島の子どもたちへのカンパ箱を置き、思い思いに志を贈る。

それまで私は音楽に関して、ライブを聴きに行ったり、アルバムを買って聴いたりという「客体」の側だった。自分たちで音楽を味わう場を作る「主体」の側になったことは、とても新鮮で、面白かった。

考えてみれば、デモを企画し、主催することも、社会運動であるとともに、「もうひとつの場」を自分たちで作るという点において、オルタナティブな実践ではないか。
「自分(たち)で作る」ことの面白さに出会ったのも、311後の路上だった気がする。

希望は私の中にある

田村さんは、研究者である。しかし、この本は、研究者が社会運動を分析したものではない。彼女自身、311後、路上に立った一人として、そこから何を感じ、考え、学んだのかが綴られている。

中学時代から抱いてきた世界に対する絶望と閉塞感を、彼女はずっと手放さずにきた。そうした積み重ねてきた「問い」が、本書の核になっているのだ。

そのうえで、デモや抗議に関わってきた人たちにインタビューを重ねている。自身の問いを直接、間接に投げかけている。アカデミズムによる運動論も、ボリュームを割いて取り上げられるが、自身の問いに対して、それらがどう応答しているか(どう応答していないか)という点に絞って紹介される。

だから、「アカデミズムによる押しつけ」とは、全く感じない。
いつか、どこかの路上で、時間を共にしたであろう仲間が、学んだことを話しかけてくれている。そんなふうに受け取った。

そして、この本を読むと、「自分語り」をしたくなるのだ。

311後になぜ、デモや抗議に参加したのか。
あのとき、何を感じ、考えていたか。
それによって、自分はどう変わったか。
そして、今はどうか。

田村さんは自身に誠実に向き合い、考え抜いた末に、この本を書いている。その熱が、読み手の私にも伝わって、自分の経験と考えを語らずにはいられなくなるのだろう。

311から9年余りが経つ。
「311があっても、日本は変わらなかった」といわれることがある。
でも、果たして本当にそうだろうか。
少なくとも、私は変わった。
政治や社会のありように対して、路上に出て意思表示をするようになった。
希望は、私の中にある。
そのことを、この本はあらためて教えてくれる。

 *田村さんは本書の中で、自著『ひとりから始める~「市民起業家」という生き方』についても触れてくれている。「現実のオルタナティブをつくってゆく」ことが本の中で描かれていると評し、311後の市民運動の実践とリンクして捉えてくださった。そのことにも感謝する。

追記~「無関心」と「身体性を伴った知」

*「無関心な人たち」と一括りにしがちだが、無関心の内実とは何か。本書では、第1章「『抵抗』はなぜ想像不可能になったのか」などで、無関心にも繋がる、今の私たちの内実も説き明かしている。

ちなみに、私は「無関心」という言い方は正確ではないと思う。なぜなら、人の心の内など、誰にも分からない、「無関心」かどうか分かるわけがないのだから。「関心があるけど態度や行動に出さないから、無関心に見える」ということもあるだろう。しかも、これもまた、人それぞれ。だから「無反応」「無行動」が事実に近いのではないか。

*「日本社会を省みる」「社会のあり方が問われている」という物言いには、いいかげん辟易している。そこには実践が欠けている。

「では、そう言うあなた(私)はどうするのか?」という行動の気配が感じられない。つまり、「身体性を伴った知」ではないのだ。

この「身体性を伴った知」という概念も、本書から教わったことである。

「正しさや合理性を追求する理論ではなく、身体を通じて伝播し、出会った人の内部に情熱を喚起するような身体性の知が、運動の中で生まれています。そうした知は、失望の中にある身体、諦めや無力感に包まれた身体の内部にも、すき間から入り込み、熱を伝えることができるのではないでしょうか」(199ページ)

問題だと思うのなら、すぐさま声を出し、意思表示する。そうした一つ一つの実践の積み重ねによって、初めて自分たちが生きやすい社会ができていく(作ることができる)のではないか。

(以上、「追記」は8月7日記)

田村あずみ著『不安の時代の抵抗論~災厄後の社会を生きる想像力』(花伝社)

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