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教えて教えられないもの~30年前の大工の棟梁の聞き書きに出会い直す

死者と、仕事を共有する

「自分のしごとの本質的な部分を死んだ人間と共有する。はたされなかった計画のつづきとして自分のしごとを考える」(津野海太郎)。

津野さんは、かつて晶文社の編集者として数多くの本を手がけた人である。冒頭に紹介した一節は、その津野さんが、これまでに書いてきた中から選りすぐりの「編集論」をまとめた『編集の提案』(黒鳥社、2022年)で述べられていたものだ。

それは、作家・長谷川四郎に関する記述であった。長谷川が、亡き畏友・花田清輝を、自身の文章の中に「幽霊」として登場させていたという。

「(長谷川は)死者がはたせなかったことを自分のしごととして具体的に構想してみることを忘れなかった」

これを読んで、あることを、はたと思い出した。

30年前の聞き書き~大工の棟梁の言葉

若かりし頃、出版社・思想の科学社で働いていたこと、医師で社長も務めていた上野博正さんのもとで働いていたことは、以前、書いた。
話は再び、そこにさかのぼる。

「この人の話も聞き書きにしたら、面白いんじゃないか」

雑誌の戦後特集の企画の中で、上野さんが編集会議で、こう提案したことがあった。私は取材に同行させてもらい、文章にまとめることになった。

その人は、上野さんの古くからの友人で、60歳ぐらいの大工の棟梁だった。大工として働いてきた歴史を語ってもらうことで、日本の戦後が浮かび上がるのではないか、という趣旨だった。

取材は平日の夜だったと思う。ご自宅に行き、おもに上野さんが聞き手となり、話を聴いた。

「大工の棟梁になるには、ただ単に仕事ができりゃあ、いいってもんじゃないんだよ。建具屋とか左官屋とか鳶職とか他の職人たちの仕事もある程度マスターして、彼らを使えないとつとまらない。『仕事帰りにいっしょに一杯やろう』なんて、気遣ったりね」

「お客さんと結ぶ契約書ってあるけど、私に言わせたら、あんなものほんとはいらないんだ。むこうがきちっと支払ってくれて、こっちがきちっと仕事しやあ、それですむんだよ。そういうお客さんとの人情っていうか、信頼関係で仕事をやってたなあ。お昼時なんかに、建て主が間柱(まばしら。「おやつ」のこと)を出してくれりゃあ、単に釘をうっときゃいいところを、枘(ほぞ)をぬいてやろうって気持ちになるんだよ」

江戸弁が小気味よく、話の中身とあいまって清々しかった。

彼は、苦言も呈した。高度成長以降は、住宅建設には不動産会社や建築会社が台頭し、棟梁と施主が直接、やりとりする機会が減った、それでは、いい家ができるはずがない、と。

仕事に対する矜持を、言葉の端々に感じた。

「親方からは『仕事は見ておぼえろ』って言われたよ。教えてくれないから、自分でおぼえるよりしょうがないんだ。(略)口で言ったり、言われたことは、あんまりおぼえてないし、当てにならないもんだと思う。教えて教えられないものが職人の世界にはあるね」

この聞き書きのタイトルは、「教えて教えられないもの」とされた(*)。

教えて教えられないもの

思えば、私がライターとしてこれまで追いかけてきたのは、この棟梁のような人ではなかったか。

より良いものをつくりたい、心から納得できる仕事をしたいと、自身の意思を貫く。その営みによって、人を幸せにすることができたらと願う。時に、まわりから「頑固」と言われても屈することなく、進んでゆく。

何より、上野さんがそういう人だった。

上野さんが指し示してくれた道、歩いてきた道を、私は知らず知らずのうちに、ついていったのではないか。「自分のしごとの本質的な部分を死んだ人間と共有する…」という一節を読んで、にわかにそう思えて、沸き立った。

いま、私は、上野さんが果たせなかったことを自分の仕事にしている……とは、とても言えない。でも、「教えて教えられないもの」を受け取ったことは、確かだと思うのだ。

*…車頭新之助「教えて教えられないもの」、『思想の科学』1992年11月号、特集「戦後ってなんだったの?」。


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