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サッカー観とトレーニングメソッドに共通する「多様性」の概念

自然が好きです。ただ、New Yorkの夜の街並みを思い出すと、これもまた異常な美しさを感じるのです。生きていると、全く意識していないタイミングで、大切なことに気が付くことがあります。これまで蓄積していた「点」が一本の「線」で繋がる瞬間は、意図せず訪れるのかもしれません。コントロールできないとも言えます。

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New York, 2018

最近は、生きる環境が一気に変わったからか、あらゆることに気が付くようになりました。そういえば、日本からアルゼンチンに渡った1年目も、そうだった気がする。

東京の夜の街で、ビル群の中を走るエスカレーターに乗っている時、ある大切なことに気が付きました。これは極めて個人的なことですが、すなわち、誰かにとっても参考になることかもしれませんので、今日はそれについて書いてみたいと思います。


多様性という言葉

言葉にレッテルが貼られて、本来深い意味を持つ言葉が、特定の浅薄なイメージを持ってしまうことは、ままあります。「多様性」という言葉も、そうかもしれません。この言葉は、性別とか、国籍とか、嗜好とか、思想とか、そういったものの多様性を"認めよう"といったような、よくわからない切り口から世に出てきました。認めようって、お前何様だよと思うわけですが、それゆえに、「多様性」という言葉を企業や団体のマーケティングやプロモーションに利用する人々が増殖し、現在の立ち位置に成り下がってしまいました。

私にとって「多様性」というものは「幸福」と直結するものなのだと気が付いてから、あらゆる点が線で繋がった感覚があり、もうこれから先の人生は大丈夫だな、とある種の安心感を覚えているのです。

多様性とは、Wikipediaで調べると、以下のように定義されています。

多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。wikipedia

この言葉をもとに、もう少し私的な話をしてみたいと思います。


「好きな食べ物」が答えられない

私は、「好きな〇〇はなんですか?」という質問に、どうしても答えられないのです。多分唯一答えられるのは、「好きなスポーツは何ですか?」くらいです。だから例えば、何かの熱狂的なファンやマニアになることが、ほとんどできません。好きな音楽は?と聞かれると、音楽は好きだけど様々なジャンルを聴きますし、好きな小説家は?と聞かれると、小説は好きだけどいろんな小説家の本を読みますし、好きな食べ物は?と聞かれると、カレーも好きだしラーメンも好きなのです。だからそういう質問をされると、「わからない」と答えるか、その時に思い付いたものを適当に答えます。

このような自分の性質には結構早い段階から気が付いていました。これが「多様性」という概念につながって、いろいろ見えてきたのはここ最近で、それが全部つながったのは、ついこの間東京のエスカレーターに乗っている時でした。


大都市か大自然か

最近鎌倉という街に住んでいます。大都市ではなく、自然が豊かで、すごく美しい街です。私は東京生まれ東京育ちですが、18歳の時に東京から地方に一人暮らしをしに行きました。3年間でしたが、「ああ俺都会より田舎が好きだわ」というのが当時の感想でした。それからまたしばらく東京に住んで、その後は旅をしたりしながら、25歳の時にアルゼンチンに移り住みました。アルゼンチンで住んでいた街は、都会とは言えない、大きな公園があったり、車を走らせれば大自然に出会えたり、そういう場所でした。それらの検証実験の結果、私としては「自然が豊かなところじゃないと無理」という結論に至ったのでした。

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Kamakura, 2021

でも先日東京の大都会の中エスカレーターに乗ってビル群を見上げ、東京タワーを横目に、あれ、東京のこの感じ、懐かしくて、心地が良いぞ…と強く思ったのです。そういえば以前訪れたNew Yorkのネオンに、異様な美しさや心地よさを感じ、絶対いつか住んでやりたい、とか思っている自分もいるのです。

その時、iPhoneにメモするほど、言語化できた感覚があり、あらゆる点が線でつながった瞬間でした。


多様性を(意図的に)確保する

私の人生にとって大切なことは、何かを特定することではなく、そこに「多様性」があることで、自分の人生(や仕事)に多様性を確保するためには、ある程度の意図性や計画性が必要であるのだと、気が付いたのです。

要は何ごとにも「バランスの保たれたバリエーション」を持つためには、「完全なるランダム」ではダメで、そこに「性質の類似性」が必要で、ということは、ある程度計画性をもって時間を進めないと、どこかの時点で「好ましくない偏り」が生まれてしまうのです。

大自然に囲まれて一生暮らすのは悪くないかもしれませんが、死ぬまで大都会の心地よさに触れれないのも、私にとっては幸福なことではない。でも、人間は社会に生きているので、自然に囲まれて暮らしたいと思ったら、あるいは都会に住みたいと思ったら、そのように生きれるように(時間を過ごせるように)自ら動かなければなりません。それは全てのことに当てはまることでした。そこには「好ましいバランス」がある。


好ましいバランスを保つためには

①計画性
②能力
③柔軟性

以上3つが必要だと考えられます。


①計画性

私は結構長い間計画性という言葉を毛嫌いしていました。「計画を立てると縛られる」「どうせ何事も計画通りにいかないから」などの理由です。でも今は人生にも、(後でまたその話をしますが)サッカーのトレーニング構築にも、計画が必要であるという結論に至りました。その理由が「多様性」です。

『A→B→C→D→E』という時間軸に沿った到達地点を定める計画ではなく、バランスの保たれたバリエーション『abcde』を確保するための計画です。

計画を立てるのは、その計画を完璧にこなすことでも、その計画された要素が完璧だからでもなく、バランスの保たれたバリエーションを確保するため。これは私にとって人生においても、またサッカーにおけるトレーニングメソッドにとっても非常に重要なキーでした。

そこにプランニングやピリオダイゼーション(期分け)がなく、「完全なるランダム」で時間を過ごしていると、逆説的ですが時間の経過とともに偏りができてきてしまいます。計画がないと過去と未来を意識できないからです。


②能力

例えば私の場合、日本人と話をするのも、外国人と話をするのも、バランスの保たれたバリエーションが大切なので、それを考えると、外国語の能力が必須になります。その能力があることによって、会話の内容に多様性を保つことができる。そもそも外国に行ったり日本に行ったりする時に、外国語が話せないと話ならない。

また私の学習は全てが「サッカー」というものに集約していきますが、日本語でインプットとアプトプットをする、英語やスペイン語でインプットとアウトプットをする、ことによって多様性を確保でき、好ましくない偏りを防ぐことができます。日本語、英語、スペイン語だろうがなんだろうが性質的には同じですし対象がサッカーなので、完全なるランダムではないのです。

これは言語の能力に関わらず、多様性を確保するためには、それを実現する能力が必要となります。


③柔軟性

緻密な計画のもと多様性を確保し、好ましくない偏りを防ぎ、そのために必要な能力を高めていく。そして何より、柔軟性が必要ではないかと思うのです。時間の経過や価値観の変化とともに、多様性を構成する要素が変わってくるかもしれない、必要な能力が違ってくるかもしれない、その時に自ら首を絞めないように柔軟性を持つ。


私にとって多様性とは

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ある枠の中(性質の類似性)で、多様性を確保することよってあらゆる領域を埋め、それぞれの要素は重なり合っているかもしれないし、独立しているかもしれないけれど、一本の線が通っている。その線は、あるところに集約される。それが自分の中にいくつも内在していく。

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サッカーでも、こういうトレーニング構築をすることが私の主な考え方になります。これは、簡単じゃないです。


サッカーにおける多様性

よくこの仕事していると「どんなサッカーが好きなの?」と聞かれます。私的にはその質問は質問になっていないのですが、例えばパスサッカーとかカウンターサッカーとか、もしくはバルサのようなサッカーとかリバプールのようなサッカーとか、そういう返答を期待しているのかもしれません。

「サッカー観」とは「人生観」とマッチするはずです。ですから私が表現したいサッカーを答えなければならないなら「多様性」が関与してきます。バランスの保たれたバリエーションに富んだゲームです。わかりやすく言えば、さまざまな攻め方や守り方ができる、さまざまなゾーンをプレーエリアとできる、あるいはさまざまなプレイヤーがゴールやアシストができる、などです。※これはただの例です

「さまざまなフォーメーションでプレーできる」というのは要素ではなく、付属的な要素ですので、多様性のあるゲームを達成するためにさまざまなフォーメーションでプレーする必要がある場合もあるし、ない場合もあります。

このように考えると、当然私の監督としてのトレーニングメソッドには、多様性が重要となります。例えばトレーニングで行うセッションは、“バランスの保たれたバリエーション”があり、“好ましくない偏り”がなく、そこには一本の線が通っていなければなりません。

そのためには、バリエーションに富んだトレーニングを継続することで、選手が主体となる「学習」を繰り返し行う必要があります。「練習」とは似て非なる概念です。決断を自分でしろ、いろんな攻め方をしろ、と口で言ったところでそういうゲームにはなりません。

なのでトレーニングは、環境を設定し、課題を与えることで、それに適応しようとする過程で「学習をしていく」、というのが私の理想です。パフォーマンスに対するフィードバックをコーチングするのではなく、結果に対するフィードバックを選手が内在的に蓄積していくこと。

そうでなければ、ある環境下では能力を発揮できる、ある相手にはうまくやれる、というチームにしかなりません。だから選手にはトレーニングにどんな狙いがあるかを説明することもあれば、あえて説明しないこともあります。重要なのは納得感よりもゲームでの持続的なパフォーマンス向上だからです。

私にとってピリオダイゼーションとは、あるいはプランニングとは、そのためにあります。計画がないと、必ず好ましくない偏りが生まれてしまうからです。週2回のTRにしかないのか、週6日ピッチに立てるのかによって、バリエーション設定の幅が変わっていきます。

しかしまた柔軟性も必要です。パフォーマンスに対するフィードバックを与えないと選手のモチベーション低下があらわれる可能性がありますし、例えば数学の問題を解く公式を教えなければ、その難解な問題を自力で解くことは極めて可能性が低いです。サッカーも同じです。公式を教え、あとは公式の応用を選手が自ら学習していく。

何回でも言いますが、そのバリエーションは「完全なランダム」ではいけません。


監督としての学習

では己はどうなんだという話ですが、最近改めてあらゆるリーグ、あらゆるカテゴリー、あらゆるレベルのゲームを観ることの重要性を感じています。欧州の中でも各リーグによってゲームの特徴は異なりますし、上位チームなのか下位チームなのかによっても異なります。好ましくない偏りをつくらないように、学習に多様性を確保する。やっぱり意識的でないと、偏ってきます。自分の学習されるサッカーも偏ってきてしまいます。それは私のサッカー観にはそぐわない(偏りを求める人もいますし、正解不正解ではないと思います)。

また日本語と英語とスペイン語でサッカーを学ぶように気をつけています。トレーニングのメソッドや科学的な知見にも多様性を求めて吸収していきます。これから積んでいく経験にも、多様性を求めたい。

それが完全なランダムにならないように、どのような性質に類似性を求めるのかを考え、一本の線を通し、ある地点に集約させる。そういう作業かと思います。


・・・


以上、都会に住みたいとか田舎に住みたいとか、そういう話から始まり、サッカーのトレーニングの話につながる、そんな俺しか得をしない記事でした。自分の特徴がわかると、色んな意味で生きやすくなって、その結果幸せになれるかもしれないぞ、ということが言いたかったです。

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