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サッカーにおける『技術』と『アフォーダンスの知覚』の関係性

作品の制作を、単に「頭の中」だけのこととしてではなく、実際に体を動かし事物を扱う行為まで含めて捉えようとする時、技術という問題が浮上する。周知のように、今日芸術を指すartやkunstという語は、もともと技術を意味する。
技術は素材あっての技術であり、特定の素材に対してそれにふさわしいあり方(必ずしも一つではなく複数の)として、成立している。フォションは素材の「技術についての運命」という言い方もする。素材の「技術についての運命」は、素材の「形にまつわる運命、使命」に呼応する。技術は「さまざまなやり方で素材の中に形を生きさせる仕方」である。

上の文章は、現在僕が沼にハマっている「中動態」という概念に関する本を読み漁っている時に出会った『芸術の中動態』という本から引用したものです。

タイトルからするに自分好みの本ですが、読んでみるとやっぱり興味深い考察がたくさんありました。その中で、今日は「技術」や「知覚」という点において、サッカーというゲームに共通して考察できる部分を抽出して、少し考えてみます。


サッカーにおける技術

これはよく議論されますが、サッカーにおける技術とはなんなのか、という問題です。ボールを扱う(他者による妨害なし)精度のことを言うのか、それとも…みたいな話。

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まず言えるのは、サッカーは影響を与え合うゲームです。技術を披露し合うゲームではありません。よって、まずいかにして影響を与えることができるのかを知り、初めて技術という問題が浮上してきます。

そのため、上で引用したように、技術は素材あっての技術であり、特定の素材に対してそれにふさわしいあり方(必ずしも一つではなく複数の)として、成立しています。サッカーにおいて素材とは選手のことです。技術は素材なくして存在せず、ゆえに選手個々の素材を理解し、各々がどのような技術を身につければ「影響を与えられるか」を考える必要があります。

影響を与えられないのであれば、それはいくらボールを扱えようが「サッカーというゲーム」ではありません。なので影響(自己と他者による相互作用)を意識せず、"ひとりで(あるいは目の前にいる他者とだけ)"プレーしている選手は、きまってグローバルな影響を与えることができず、結果に寄与することができません。


アフォーダンス

いかに影響を与えられるかを知るためには、ゲームの構造を学ぶことはもちろん、ゲームの中にある情報を知覚しなければなりません。ここで「アフォーダンス」という言葉が出てきます。

生態学的心理学のキーワードは「アフォーダンス」である。これはギブソンがafford(与える、提供する)という動詞から造語したもので、「良いものであれ、悪いものであれ、環境が動物に差し出すもの、用意したり供給したりするもの」と定義される。
例えば、水平で平たく広がっている堅い面は支えること、その上に立つこと、歩くこと等をアフォードする。断崖絶壁は落下による怪我や死をアフォードする。水は飲むこと、容器から流れること、洗うこと、場合によっては溺れること等をアフォードする。水の面は、ミズスマシには支えや移動をアフォードするが、重い動物にとってはそうではない。或るものは食べられる栄養素をアフォードする。有毒で食べられないことをアフォードするものもある。或るものは、つかむことをアフォードする、投げることをアフォードするものもある…。
このようにアフォーダンスは、「環境が、その中で生きる動物に与えてくれる行為の機会」、「(外界が)生体の活動を誘発し方向付ける性質」であり、環境の中で生きる動物にとってその環境がもちうる「意味」や「価値」のことでもある。
したがって、動物身体構造や大きさや能力によって、アフォーダンスは異なる。

これは、サッカーそのものだと思います。

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だからこそ、監督という役割としては、選手の個性を理解するということが欠かせません(自戒も込めて)。選手それぞれによって、アフォーダンスは異なるからです。だから、ポジション(それに伴うフォーメーション)や、各選手に与えられているタスクが適切かどうか、が非常に重要であると言えます。それをデザインするのが監督の仕事です。例えばある選手にとって、"そのスペース"は利用する(入っていく)ことをアフォードするし、別の選手にとって"そのスペース"は回避することをアフォードします。それは、身体的特徴や、持ち合わせている能力によって、異なるのです。


知覚

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さらに大切なのは、そのアフォーダンスは知覚されるという点です。サッカーのゲームにおいても、同じです。よくサッカーの世界では「認知」と言われます。ただ、知覚とは、必ずしも受動的なものではないという点が、非常に重要です。

アフォーダンスは直接知覚されるが、それは外界からの一方的入力ではない。知覚には、知覚者の積極的な探索や調節の能力が必要とされる。
知覚者自らが能動的に動くことが知覚に必要である以上、そこには目や耳た鼻などの狭義の知覚器官だけでなく、身体全体が関与する
ひとは、目だけで見るのではなく、動き回る体の肩の上の頭についている目で見る。私たちは目で細部を見るが、また動く頭で見回し、動く身体で見に行く。
知覚は行為であり、全身的な活動だということになる。ここから知覚系という概念が生じる。知覚のために行為は組織され、身体は構造化されるということになる。

"動く身体で見に行く"という言葉は、本当に言い得て妙だなと思いました。

サッカーのゲームのおいて、この"動く身体で見に行く"という行為(ここでいう知覚)ができない選手は、非常に厳しいです。目に入ってくるものを受動的に知覚しているだけの選手です。そういった選手は、硬直してしまいます。サッカーに必要なのは「連続性」や「循環」ですから、硬直というのはサッカーというゲームにおいて最も悪であるものの一つです。


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