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東御市を歩く①~真田氏源流・海野氏発祥の地海野宿

長野県東御(とうみ)市です。
初回は真田氏の源流、海野氏発祥の地・海野宿(海野荘)を歩きます。

真田氏のほかにも木曽義仲挙兵の地であったりと
歴史的にも意義深い土地となっております。

アイキャッチ画像の通り
来年2025年が開宿から400周年になるそうです。



海野宿(海野荘・海野郷)

 海野宿(うんのじゅく)の成立は寛永二年(1625)と伝えられる。宿場の東端に白鳥神社があり、街道のほぼ中央には用水が流れる。宿場の東西には桝形(ますがた)が置かれ、その約六町(650m)の長さであった。宿場時代の建物の多くは旅籠屋造で出梁造り(でばりづくり)や海野格子(うんのこうし)と呼ばれる二階の出格子が今もよく残されている。

 江戸時代末から明治時代以降には、蚕に病気が出にくい気候環境と、矢島行康らの先駆者の指導により、養蚕業・蚕種業で栄え、その富により建築された壮大な建物は宿場時代の建物の風格を受けつぎ、江戸期の建物と調和して、現在の町並みを形成している。


海野氏発祥の郷碑

海野氏の事跡

 海野氏の出自については諸説あるが、ここ東部町を中心とした往古の海野郷を根拠とした豪族であり、新張、望月等の牧の管理者であった禰津(ねづ)、望月の両氏と共に東信濃にその基盤を築いた。

 平安中期、海野、禰津、望月の三氏は、國司、牧官等として下った中央の名門滋野氏と関係を結び、やがてこれを祖と称するようになり、滋野三家と称され、海野氏は本宗として、その中心的存在であった。

 平安末期中央での政変「保元の乱」には、源義朝の下で活躍し、治承五年木曾義仲の白鳥河原挙兵に際してはその中心的となって奮闘した。また、天下の実験が鎌倉にうつると、源頼朝や北条氏に仕え重用された。中央にも聞こえたる弓馬の名家であったため、主家が滅びても代わった権力者にその力を評価されて、平安末期、鎌倉期の波瀾の時代を乗り切り安泰を保った。

 中世、元弘の乱以後の騒乱の中では、一族と共に北条氏の再興をはかったり、他の国人と共に守護に反抗したり、その基盤を守るために懸命の活躍をしたが、足利幕府が確立される中でその努力は報われず、苦難の道を歩む事になった。

 戦国時代、信濃国内でも守護小笠原氏の勢力が弱体化し、諸豪族間の争いが次第に激しくなってきた。
天文十年、信濃侵略を企図した甲斐の武田氏は、村上、諏訪両氏と連合して海野氏を攻撃した。「海野平の合戦」と称せられるこの合戦は、海野氏の死命を制することとなった。一族の禰津、矢沢氏は降伏、当主棟綱は上野に敗走。嫡子幸義は戦死し、信濃屈指の名族海野氏の正系はここに滅亡した。なお、一族の真田幸隆も上野に敗走したが、後武田氏に仕えてその翼下として信濃攻略に活躍し、名門真田氏発展の基礎を築いた。

現地の写真

宿場町

1枚目の左側にある出格子が『海野格子』っぽいですね。


『白鳥櫻』と千曲川

次の記事に記載しますが
ここ千曲河原(白鳥河原)にて、木曽義仲は挙兵しております。

この中に鷺がいるのですが…うーん、わかりにくい(笑)


アクセス

しなの鉄道 田中駅より徒歩20分程度
詳細→信州とうみ観光協会


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