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【小説】 砂嵐
(1)
広い廊下だった。天井がやけに高く、手術用の担架が二台ならんで疾走してきてもよけられるくらいの幅がある。人の匂いがしない。気配もない。ふつうの病院なら、冷たいなりに生活感があるものだ。それが、ここには感じられない。張紙や棚がないからだろうか。急に体が小さくなった気がして、知らないうちに歩幅が狭くなる。ひとりの靴音がひびいて消えた。
都心から離れた駅で電車をおり、タクシーに乗ったのは、十五分ほど前だった。手帳に書き取った場所を告げると、運転手はいちどだけ返事をした。女性だった。同性でほっとしたが、運転席の上の鏡に映る目は無表情に前を向いている。会話もないまま走り続けた。
やがて木陰のむこうに大きな白い建物が姿をあらわした。入口の看板に「精神科」の文字が見えたとき、ちがう、と思った。行き先がまちがって伝わったのかもしれない。おもわず手もとの走り書きを確かめるが、やはりここだ。地名を上につけただけのありきたりな名前なのに、思いえがいていたような総合病院ではなかった。
心を病んだ人が来るところ。話しかけてこないのは、そのせいだったのか。にわかに鼓動が早まる。そこへ行こうとしている意味が、突然、ゆがみはじめるのを感じた。
速度がおち、左にゆるく曲がって門柱のあいだを抜ける。その瞬間、なにかの境界をこえてしまった気がして、身がすくんだ。
料金を払っておりたのは正面玄関の前だった。大きな扉はガラス張りだが、黒々としている。中に灯りがついていないのだ。暗さを抱えこんだその面に、私の姿が映っていた。四十代より老けて見える気がする。疲れているせいか。
背後でエンジン音が遠ざかって行った。タクシーはここで次の客を待つつもりはないようだ。日曜日だからか、人影はない。空洞のような玄関は、寒々として気持ちの置きどころがなかった。
横から風が吹いてきた。三月だが肌寒く、桜はまだのようだ。静電気がたまっているのか、ニットのスカートが足にからみついたまま動かない。
動かないのは自動ドアもおなじだった。ガラスの前に立ち、午前中の電話の声を思いだす。工藤拓馬の母親からだった。小早川房子、という私の名前を知っていた。
病院に運ばれた、とその声は言った。拓馬が入院したと。理由も経緯もはっきりわからなかった。東北の言葉のような強いなまりがあり、うまく聞きとれない。「事故」ときこえたような気がしたが、確信はない。とにかく病院の名前と駅名だけはなんとか聞きだしてメモした。取り乱した母親は、「遠くだから行けない」「様子を見てきてください」という意味のことをくり返し、そして唐突に電話を切った。
工藤拓馬は私が経営する私塾でアルバイトをしている大学生だ。この春に卒業することになっている。先月ごろか、就職活動がうまくいっていないと相談を受けた。事務の担当者が退職して困っていたところだし、ちょうどよかった。時間給のアルバイトではなく専従職員にならないか、という話をしていた矢先だ。
健康上の問題があったとは思えない。いたって元気そうにみえた。こんなに突然入院するとは、やはり事故なのか、と思いながら家を出たのだ。なんと迂闊だったことか。勝手に交通事故などを想像していた。それが、精神病院だったとは。心の準備もないまま来てしまったことを後悔した。
自動ドアは、いぜんとして私を拒絶している。どこから入ればよいのかわからず、ガラス扉の前を二度三度往復した。
外に案内板があり、『病棟』と書かれた矢印が目に入った。その指し示す方向へ歩くと、小さな鉄の扉がみつかった。玄関というよりは非常口だ。
あたりの空気はぼんやりと濁り、建物全体が灰色にみえて、足が重く地面に貼りついた。何かが怖かった。その自分の感じ方にひそむ偏見や差別や恐怖心に気づきかけ、引き返そうかと思った。
来たのはまちがいだったのではないだろうか。完全に異邦人になっているではないか。だがこれは仕事だ。私は雇い主なのだから、職員の面倒はきちんとみなくてはいけない。そう自分を叱咤し、無機質のドアを押した。
(2)
廊下は空間ばかりが大きく、ひとけがなかった。どこへ行けばいいのか途方にくれて見回していると、先のほうに守衛の窓口がある。制服を着た職員が無表情に番をしている。人がいたのですこし安心した。歩み寄り、その小窓をノックする。
「すみません」
顔を突きだして中の職員に声をかける。
「工藤拓馬という人が入院しているはずなんですが」
職員は硬い表情のまま、
「ご家族のかたですか」
と言い、カウンターに置かれた用紙を一枚取って差しだした。面会申込書だ。
「いえ、工藤さんの職場の雇用主です。ご家族が遠くにお住まいで、来られなくて、代わりに様子をみてきてほしいと頼まれまして」
「ご覧のとおり、ここは隔離病棟ですから、外部のかたは病室エリアへは入れません。ご家族であれば、主治医の許可があれば面会できますが、それ以外のかたは、申しわけありませんがご遠慮ねがっています」
徒労感と脱力感におそわれた。無駄足だったということか。だが手ぶらでは帰れない。
「ご家族から頼まれて来たのです。それに、工藤さんはうちの職員ですから、欠勤するなら状況を把握する必要があるのですが」
守衛は記入ずみの面会申込書をめくり、けげんな顔をした。
「ほんとうにご家族から頼まれたんですか。工藤拓馬さんはたしかに入院なさっていますが、いま、ご家族が面会されていますよ」
私は返す言葉を見失った。電話をしてきたのは拓馬の母親ではなかったのか。あのあと、アルバイト講師の履歴書を見て、本籍地が青森県であるのを確かめた。実家が東北なのかもしれないと思ったからだ。だが、そんな確認をするまでもなく、あの女性は拓馬の母親だと名乗り、この病院名を言ったのだ。いま面会しているはずがない。
「たしかに工藤さんのお母さまから電話で……」
守衛は面会申込書を一枚取りあげ、眼鏡のふちに指をそえた。
「ああ、面会しているのはお父さんと弟さんですね」
母親よりもさきに父親と弟が駆けつけたのか。それならよかった。だが、母親から電話があったのはつい一時間ほど前だ。面会に来られる家族がいるのに、わざわざ私に電話してきたのか。なんだか妙な気がした。
「もしどうしてもということでしたら、お待ちになって、ご家族が出て来られたらお話を聞いてみてはいかがですか」
守衛が指さす方を見ると、廊下のつきあたりに大きなガラスの扉があり、ひと目でわかるほど硬く閉ざされている。あそこからさきが隔離病棟ということか。
近づくと、ガラス扉の内部には細い糸のような線が縦横に張りめぐらしてある。きっと破壊されないように補強してあるのだろう。そのむこうには廊下がまっすぐ続いており、小窓のついたドアがならんでいる。
廊下の奥まで見わたしたが、拓馬の姿も家族らしき人影もない。どこかの病室の中にいるのか。もういちど確かめてから、守衛の窓の方へもどって壁ぎわのベンチに腰かけた。ガラス扉がみえる位置だ。
静まりかえった廊下にひとり座っていると、気がめいってくる。ライトがほとんど消してあるせいか、白っぽいはずの壁が灰色に見える。扉からこっちの空間には、守衛のほかには誰もいない。ナースセンターもなく、医者も姿が見えない。ここは、光も物音も少なすぎる。
こんな場所にいたら、逆に病気になるのではないかという気がした。気分がおかしくならないように、できるだけいつも通りに、仕事のことなどを考える。
あの工藤拓馬が、なぜこんな所に隔離されているのか。学生アルバイトとはいえ、仕事熱心で、物静かだがしっかりしていた。中学生と高校生の数学と英語のクラスを担当し、生徒たちの面倒もよくみていた。三年続けて教えている。そのあいだ、心を病んでいるような気配を感じたことはなかった。
いや、一度だけおかしいと思ったことがある。数日前に拓馬から、私と副室長宛に奇妙なメールが送られてきた。インターネットのソーシャルネットワークサイトで近況を書いているからぜひ読んでほしいという。
《わたしの言葉がひろがっていって、心がそこから始まると思うのです。いつも言葉が先歩きします。矢のようです。それが動脈になって、根をはります。あなたの身体にも入りこみます》
どこかが変だった。雇い主にいきなり送ってくるような内容ではなく、文脈も意図もわからない。塾長とアルバイト講師という距離感がぐにゃりと歪んだようなかんじがして不快だった。メール本文に記されたウェブサイトのアドレスをクリックしてみたが、使ったことのないサイトで、すぐには読み方がわからない。
そこは最近流行りの、インターネット上の空間だった。人が集まり、互いに交流をするやつだ。拓馬はmakutaというアカウント名を使っていた。『拓馬』の逆読みかもしれない。さかさまの拓馬がそこにいた。数学が得意な、優秀な塾講師らしい文章ではない。ふだんの拓馬とは雰囲気のちがうセンテンスがつらなっている。
《おでかけしてきます。風が吹いているから》
《声がきこえました。ぼくの考えを誰かが盗んで復唱していました》
《壁と天井に穴があって、そこからぼくは、漏れて出ていく》
あのとき何かにうっすらと気づいたのではなかったか。いや、はっきり気づいたわけではなかった。わかっていて故意に放置したのではない。口を出すべき状態だという確信がなかったのだ。
メールを受け取り、ウェブサイトを見てから数日がたつ。よくわからないままだ。もうすこし明確な兆候はなかったのだろうか。人格の変化のような何か。
やがて思考は自分の方へとUターンしてもどって来た。拓馬はふつうに企業への就職をめざして活動していたが、四年次の終わりになっても実を結ばなかった。それを苦にしていたのは知っている。
「うちの塾に就職すればいいじゃない」
と言ったとき、困ったように視線をそらし、目を伏せた。私は気づいていた。なのに、「正社員になるならこれを書いてね」と、契約書の束を渡した。拓馬は小声で返事をし、書類を受け取った。
きっと命令されたと思って重圧に感じただろう。それが精神病の引き金にならなかったと言い切れるか。つまりは私が原因だったのではないか。
今まで、拓馬の異変に気づかないよう自分をごまかしていた。副室長も事務員も、ほかの講師もそうだ。拓馬はひっそりと発病し、誰にも助けてもらえないまま精神病院に収容された。
後悔が、するどく思考のどこかをひっかく。疲れを感じ、私はベンチにぐったりと沈んだ。
(3)
ガラスのむこうで何かがうごいた。奥の病室から人が出てくる。思わず腰を上げようとした瞬間、からだが重く動かないのに気づいた。まるで石膏像になったみたいだ。浮かしてもいない腰をベンチに乗せなおすと、背中が丸まった。じっと座っていた時間は一時間をこえていた。
呼吸を整え、意を決して立ち上がる。
ガラスごしに人が見える。二人だ。五十代くらいの男性と、二十歳前後の青年。その後ろに白衣の男性も現れた。おそらく医師だろう。
拓馬の家族にちがいない。これからあの人たちと話すのだ。尋ねなくてはならない。拓馬はなんでこんなところに収容されたのかと。
気づくと口の中が苦く乾いていた。初対面なのに、こんな場所でいきなり話しかけてよいものか。もし人違いだったら。そう思ったとたん、廊下の空気がうねるように揺れた。背中がうすら寒くなるような心もとなさだった。
場違いな行動をしてしまったらどうする。恥ずかしいだけではすまない何かが、この空間にはある。まるでこちらが病人かのように、立場がすり替わってしまいそうな、境界がぼやけていく感覚。確かだったはずの何かが崩れかける音がして、不安がひやりと刺さる。
ガラス扉が重々しく開き、二人が医師とともにこちら側の廊下に出て来た。その背後で扉がもとのように閉まる。
私は一歩前に出ようとした。だが、二人はまだ話があるというふうに医師の方へ身をかたむけている。出しかけた足を思わず引いた。
「お願いします。つれて帰らせてください。ちゃんと家族で面倒をみますから。家でゆっくり休ませてやりたいんです」
男性は背が低い。顔を上げて必死に医師の目を見ている。その発音には目立ったなまりはなかった。
「あのですね、何度も申しあげましたように、ここできちんと治療をしませんと、病状を悪化させてしまうことになるんですよ。今はまだ薬でぼんやりさせている状態ですが、これから検査をいろいろしませんとね、治療方針も定まりませんので」
医師の声にはわずかにいらだちが混ざっている。
男性は同じ言葉をくり返した。退院させてくれ、つれて帰る、と。
「ご希望は理解できますが、今は退院させられる状態ではありません。急性期の治療をして、退院できる状態になってからでないと」
「なんでこんなことに……」
至近距離に私がいることに気づいているだろうか。わからないまま、その会話を盗み聞きしていた。タイミングをはかりかねて何度もためらったのち、私は二人に近づき、「あの」と切りだした。
工藤拓馬くんがアルバイトをしている塾の塾長をしております、小早川房子です。そう名乗って名刺を差しだすと、父親よりもさきに弟が「ああ」とうなずいた。
「聞いてます。兄が言ってました」
弟も標準語のアクセントだった。
「拓馬さんの状況を把握しておきたいので、さしつかえない範囲で教えていただけないでしょうか。何があったのか」
父親はとまどいながら説明した。
自宅は都内にあり、父親と弟と拓馬の三人で暮らしている。拓馬はそこから大学へ通っていた。昨夜は帰ってこなかったが、そういうことはこれまでにも何度かあった。友だちのところにでも泊まっているのだろうと、特に心配もしなかった。
今日になって、昼前に病院から連絡があり、駆けつけた。
医師から聞いたところでは、拓馬は朝九時半ごろに自宅から十キロぐらい離れた町のスーパーにあらわれ、売り場のまんなかで服を脱いで裸になり、あばれたのだという。店員が通報し、警察官に拘束されてそのまま病院に搬送された。縛らなければ安全が確保できないほどだったとなれば、隔離病棟に入れられるのも無理はない。スーパーにいたときすでに、言うことが常人には理解できない内容になっていたらしい。
私たちが話しているあいだに、医師はいなくなっていた。面会はすでに終わっている。ガランとした広い廊下に、私たちは取り残されたように立っていた。
「拓馬さんのお母さまとおっしゃるかたから、私のところへお電話があったのですが」
父親はそれを聞くと、すこしばかり身体をこわばらせた。
「僕が母に電話で知らせたんです。兄の最近のこととかいろいろ聞かれたんで、塾の連絡先とかもしゃべりました。よけいなことをしたかもしれませんが」
弟が私に答え、父親がピクリと視線をむけた。
何か事情があるようだ。あまり深入りしたくはない。
守衛の窓から視線をかんじ、「出ましょうか」とうながすと、父親と弟はガラス扉をふり返り、心を残すような表情をしつつ、歩きだした。すぐにでも退院させるというのは諦めたようだ。
拓馬の家族といっしょに病院を出るのは気がすすまず、私はトイレに寄るふりをして二人から離れた。
外はさっきより風が強くなっていた。卒業式まぢかのこの季節を、世間の人は変わり目と呼ぶ。大気のなかで、あるいは地球を覆う磁場のなかで、ほんとうに何かがゆらいでいるような気がする。
(4)
家に戻り、拓馬のメールにあったウェブサイトのリンクを再びたどってみた。ページを開いた瞬間、異変に気づいた。makutaというあの名前がない。
『砂嵐』という黒々とした文字が飛びこんできた。顔写真に似たアイコンがあった場所には四角形のモノトーンの画像が貼り付けてある。灰色と黒の細かい線と点が無数にちりばめられた図柄だ。火山か川原にでもころがっていそうな石の模様に似ている。無機質で無意味で、人を寄せつけない、ざらついたテクスチャーだった。
ゆうべ遅く、真夜中をすぎた時刻に最後の書きこみがあり、そこでとぎれている。先日届いたあの奇妙なメールを読んでアクセスしたときにはまだ、makutaだった。そこから二、三日のあいだに、makutaは『砂嵐』という名前に変わっていたことになる。自分で変えたにちがいないが、理由はわからない。
砂嵐の書き込みは、makutaとはどこか違っていた。
《壁と本棚と壁と壁と壁。こいつらがいっせいに倒れかかってくる。どこへ逃げたらいいのか》
《急に暗くなった。点が、つながって。点滅。点がなくなるっていうこと》
《歩けた。でも、膨張した。もうすぐ終わり》
makutaだったときの書きこみも違和感があったが、それよりもはっきりとおかしい。行間に電流が走っているように思えた。時間をさかのぼり、何ヶ月か前のところから拓馬の書きこみを読み返す。
私はひとりだった。止めてくれる人は誰もいない。それから毎夜、何時間もかけて拓馬の書きこみを読み続けた。拓馬のだけではない。そこに書きこまれた誰とも知れない他人からの山のようなコメントも読んだ。
ときに悪意あるコメントがみつかった。私はそれを書いた人のページにも飛び、拓馬のネット上の人間関係を調べた。拓馬を嫌っている人間が周囲にいたのかどうか。集団で攻撃したりしてはいなかったか。検索範囲は広がる一方だった。
どこまで突きとめればよいのか、そもそも何を突きとめようとしていたのか、わからなくなってくる。現実世界とは違うその画面の中の空間に、私も取りこまれてしまいそうだった。そのなかにまだ拓馬がいて、閉じ込められ、救出を待っているような気がする。
どこで引き返せばよいのかわからない。誰にも相談せず、深夜、自室でコンピューターの画面にむかい、ネットの中の拓馬の行動をどこまでも探り続けるループにはまっていく。
何が発病の引き金だったのか。それが気になってしかたがなかった。確かめたい。手がかりはこのネット空間にしかない。そう思った。あるいはそう自分に言い聞かせていただけかもしれない。拓馬がこうなったのは私のせいではない、その証拠がみつかるとしたらきっとここだと。
深海を漂うように、私はネット上の拓馬の痕跡をたどり続けた。
しばらくそうしていると、突然、知らない女性からプライベートメッセージが飛びこんできた。
《どうして突然消えるのよ。挨拶ぐらいしなさいよ。気に入らないならハッキリ言えば?》
その声は、画面の中から聞こえた。
《どなたですか》
《ごまかさないで。隠れてるつもり? 正体はわかってるんだから。コソコソ嗅ぎ回ってるようだけど、何してるの》
心臓が縮んだ。
嗅ぎ回っていたんじゃない。検索していただけだ。でもなぜ知っているのだろう。誰かが私の行動を観察していたのだろうか。ネットではそんな追跡ができるのか。
《すみませんが、理解できません。私は突然消えたりしていません》
すると女性の声がわらった。
《まあいいわ。そのうちみんなで暴いてやるから覚悟してね、makuta》
そこでようやく、女性が私をmakutaと勘違いしているのだとわかった。私はmakutaではないと説明したが、納得してもらえなかった。こんなことをするのはあなたしかいない、と女性は言った。名前を変えても何をしても、あなたの足跡は残っているんだからね。そしらぬふりで他人の書きこみを見てたでしょ。バレバレよ。
女性の声はだんだんはっきりと聞こえてきた。
《でもおかしいわね。あなたほどコンピューターの技術がある人が、なんでこんなこともわからないの。ねえ、makuta、もとに戻ってよ。『砂嵐』ってなんなの。なんでこんな画像にしたの。前のアイコンのほうがよかった》
言いたいことは理解できるが、根本的な誤解をしている。
《私はmakutaではありません。彼の雇い主です》
何度かそう話しかけた。そのたび女性はわらった。ふざけないで。もう十分でしょ。
《ですから私はちがいます。女性ですし、四十すぎの私塾経営者です。makutaであるわけがないんですよ。彼はいま、病院に……》
言いかけてやめた。個人情報を漏らすわけにはいかない。
《病院? おもしろいこと言うわね》
女性は鼻をならした。
《makuta、目を覚ましてよ。あなたは塾講師なんかじゃない。塾長さんなんていう年上の女の人に出会ったこともない。全部あなたが創りだした妄想よ。わかってるはずでしょ》
どういうことですか、と言いかけたとき、画面が歪んだ。粘土かスライムのように形を変え、画面にあった文字列が部屋の中に侵入してきた。
《あなたは存在しない。あなたはただの妄想なのよ》
あなたって誰のことですか──その言葉は声にならず、かき消えた。
文法の罠だ。誰かがつぶやいた。不明確なのは日本語の文法のせいだ。国語のクラスを担当していた若い日の自分の姿がかすかに見えた。
あなたって誰ですか。makuta、それとも私? 誰に話しかけているんですか。私はmakutaではないのに。
《あなたはお母さんを求めてるだけよ》
瞬間、画面に稲妻のような亀裂が走った。《ちがう》と、声がした。拓馬の声のようだった。
《あなたのお母さんはもういない。遠くへ行ってしまった。だから年上の女の人に近づいたんでしょ、代わりに》
亀裂がクレバスのように大きくなっていく。何かがわかりかけ、そして、それが完全にわかってしまったら私は消えてしまうという予感に襲われた。
《房子さん》
男性の声で、彼女は呼んだ。その声は私の頭のなかで拓馬の声に変わっていった。すこしずつ、確かに。
(5)
次に拓馬の父親と会ったのは、塾のロッカーにあった私物を渡すためだった。息子が働いていた職場を見てみたい、というので来てもらった。いずれにしても三月末でアルバイトの契約は切れてしまう。四月以降どうするのか、本人の意志は聞いていないし、どうできるのかもわからない。
ロッカーには消費期限切れの菓子パンもあった。授業のあいまに講師室のすみで隠れるようにしてパンをかじっていた姿を思い出す。
捨てておきましょうか、とわざわざ確認した。いつもなら放置された食品はすぐに捨てる。
「ああ……おねがいします」
父親は、声にも表情にも生気がなくなっている。息子の入院で心身ともに消耗しているのだろう。退院して元気になったらまた講師として働いてもらいたい、と言うと、「ありがとうございます」と涙ぐんだ。
ネットを検索していて起きたことは、黙っていた。あの空間のなかに拓馬がいる、その感覚は消えていない。それどころかますます強くなっている。
隔離病棟にいる生身の拓馬とは別に、もうひとりの拓馬がいるような気がする。それはどこかで私とリンクしていて、私は、少しずつ砂が崩れていくように、徐々にその拓馬と融合していくように感じる。
プライベートメッセージを送ってきたあの女性は、それを予言していたのではないだろうか。ネットワークの情報と化した複数の拓馬とその仲間たち。そのなかに私も吸い込まれていくのかもしれない。そうなってしまう前に、私はちゃんと現実に戻れるのだろうか。
「実は……家内が」
拓馬の父親が重い口をひらいた。
「家内は──せがれの母親は、病気になって実家に帰ったのです。何年になりますか、今も療養中で、田舎の病院におります。せがれたちには苦労をさせました」
同じ病気ですか、と言いかけてのみこんだ。不用意なことを口にしてはいけない。知ってしまったら、聞かなかったことにはできない。かかわりというのは、そうやって形成されていくものだ。
そうだ、あれも同じだった。いちど見てしまったソーシャルネットワークのサイトを、見なかったことにはもうできない。
『makuta』が『砂嵐』になっていたこと。知らない女性から、私が makutaだと誤解されたこと。すっきりと深呼吸できない、ざわざわする何ものかが充満してくるような、この感覚。
「下の息子から聞いたのですが」
父親は、自動サーバーで入れたコーヒーの紙コップを両手につつみ、低く続けた。
「家内に電話したらしく、黙っておればいいのに、拓馬が入院したことを話したそうで。そのときに、家内がおかしなことを言っていた、というのです。私は意味がわからなくて……その、コンピューターが苦手なもので」
かすかな苦笑が口元に浮かんだが、すぐに消えた。
「拓馬が埋まってしまう、と言ったんだそうです。砂に埋まってしまうと。まあ、病気のことをそう言ったんだろうと私は思ったのですが、そうじゃなく、家内はコンピューターごと埋まると言っていた、と言うものですから」
空間がざわつく。塾の談話室が、一瞬、コンピューター画面の内部のようにみえた。
「砂嵐に埋まる、といって、家内が取り乱したそうで。私はそういうことには無知なものですから、わからず、涼馬が──下の息子が、拓馬のやっていたインターネットをのぞいてみたら、なんですか、その……拓馬のページが砂嵐になっていた、と。それで、テレパシーだと騒ぎだして……」
ざわつきが一気に増した。黙っていようと思ったあの空間のことを、拓馬の家族が知ってしまった。
「家内が、見てきてくれと言ったんだそうです。拓馬が砂嵐に巻きこまれて埋まってしまわないようにと」
そのとき、何かが頭のなかでひらめき、つながった。
拓馬の母親は、電話でずっと「見てきてほしい、自分は行けないから」と言い続けていた。拓馬が入院した病院へ行ってくれという意味だと受け取って、病院名をたずねたが、ほんとうは、あの砂嵐のページのことを言っていたのかもしれない。色彩のないあの世界に埋まってしまった拓馬を、救い出してほしいと。私にそれを託したいと。
そうだったのか。だが──
私は物語にあるような伝説の勇者にはなれない。たった数日で、あの空間の毒にやられて自分を見失いそうになっていた。すこし疑われただけで拓馬と自分の区別もつかなくなってくるほどに。
それどころか、受け取ってもいないプライベートメッセージを夢の中で聞いていた。あれからあのページへ行ってみたが、誰からもメッセージは来ていない。たしかに受け取ったと思ったのに、あの女性の声は、現実ではなかった。
魂の波長が合うもの同士は、時空を超えて通じあう。あの女性が何者なのか、詮索はすまい。私の中にいた誰かかもしれない。
(6)
電話が鳴った。その音が現実ではないように感じられて、一瞬ためらった。
すこし汗ばむ手にスマホを握る。覚えのある声が遠くから聞こえた。
「拓馬のところへ行ってやってください、早く。あの子は待っているんです。もうすぐ砂に埋まってしまいます。息ができなくなって、消えてしまう。そうしたら、あなたも消える。わかっているでしょう、拓馬は、あなたのものなんですから」
そう、わかっている。でも──
地方なまりのないその声は、拓馬の母親とはちがう。どこか別の場所から来たものだ。
私は答えず、しずかに電話を切った。
(了)
同人誌『文藝軌道』十六巻一号(二〇一九年五月号)
に掲載した作品を微修正したもの
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