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少女の汚れた手


 小学生による殺人事件が何件かニュースになった頃から、考えていたことがある。かつて自分がどんな少女だったか、そして今どうしているか。

 何が正常で、何が忌むべきことなのか、生命についての大人の論理は錯綜している。自覚していてもいなくても、複数の基準を生きている。その「普通の感覚」の振れ幅のなかに、私もまた収まることのできる大人になった……かろうじて。

 その振れ幅の端のほうから少し、足を踏み出すと、ひょっとしたら異常と言われたかもしれない何かへのゆるやかなスロープが見えてくる。


 小学校低学年の頃だったか、アメリカシロヒトリが日本で大発生した。外来種のその蛾はニュースにも出て悪名を轟かせた。我が家の庭木にも毛虫が巣くい、粉っぽい真っ白な蛾の群れが網戸を埋め尽くした。

 ある日、祖父がその「害虫」を駆除すると宣言した。
 長い竹竿の先にボロ布を巻きつけ、石油を滲み込ませて火をつける。燃え上がる松明を掲げて、祖父と父が庭木に向かった。

 黒こげになった毛虫が落ちてくるのを祖父の後ろで見ながら、私はぞくぞくするような不思議な鼓動を感じていた。怖いのか、おもしろいのか、わからない。形容しがたい気持ち悪さと小気味よさだった。以来、昆虫を火で焼くという行為に心のどこかが痺れるように興奮するという、奇妙なスイッチが生まれた。

 二、三年後の夏のある晩、家族で花火をした。赤や青の棒を蝋燭にかざし、先端の火薬に火が付くと、それを握り、色鮮やかな光と煙をふりまきながら私は庭を走った。

 やがて、光の中で木の葉のように舞う虫がいるのに気づいた。壁にとまり、深呼吸の腕の動きのようにゆっくりと開いたり閉じたりしている掌ほどの大きさのうすみどり色の翅。いつもなら誘蛾灯に集まるはずの蛾が、花火の灯りに惹かれて寄って来たのだ。

 大小さまざまな蛾があたりを飛び、網戸やテラスの柱に止まるのを見たとき、私の内部であの感覚がむっくりと頭をもたげた。シューッと音を立てて火の粉を飛び散らせている花火を、私はゆっくりと上に掲げた。祖父が松明を掲げたときのように。そうして、蛾がパチパチと燃えて焼け死んでゆくのを見ていた。それは間違いなく快感だった。

 そのころ私は蛙が大好きだった。アマガエルだろうが蝦蟇(ガマガエル)だろうが、蛙とみれば目が輝いた。庭に出没する蝦蟇を捕まえ、バケツに入れてしばらく眺める。何を考えているのかわからない、離れた目。呼吸のたびに動く喉。カナヘビを膨らませたようなまだらの茶色い体。太古の生物を思わせるその姿をひとしきり堪能したら、放してやる。そうやって何時間も遊んでいられた。

 そんなある日、母から譲り受けた苺ジャムの空き瓶を持って庭で遊んでいた。ちょうど捕らえた蝦蟇をそのガラス瓶に入れようとしたのは、何の気紛れだったのか。十五センチほどの瓶は蝦蟇にぴったりのサイズに見えた。

 だが、サラサラふわふわの毛糸玉をガラス瓶に入れるのとは勝手が違っていた。

 頭の方から突っ込もうとしたが、蝦蟇の体はすんなり入らず途中でつかえた。諦めずに無理やり押し込むと、瓶いっぱいに収まった。ぴったりと、隙間なく。そして動かなくなった。

 あわてて後ろ足を引っぱってみたが、ビクともしない。無理に引っぱると足がちぎれそうだった。隙間から背中に指を突っ込もうとしても、ほじくり出すことはできなかった。

 蝦蟇の鼻先と瓶の底のあいだにはわずかな空間しかない。ガラスに密着した体が空気の通り道を完全に塞いでいる。このままではきっと窒息して死ぬ。そう思った瞬間、背筋を冷気が走り下りた。

 わざと窒息させようとしたんじゃない。悪意はなかった。そんな言い訳を頭の中で繰り返したが無駄だった。唯一思いついたのは、ガラス瓶を石に叩きつけて割るという方法だったが、蝦蟇の体中にガラスの破片が突き刺さる様子が浮かび、手が竦み上がった。

 引っぱり出してやることも、ガラスを割ってやることもできないまま、手の中のガラス瓶はずっしりと重たくなった。

 庭の植え込みの根元に瓶ごと放り出し、私はそのまま走って逃げた。

 そのあとどうなったのか、確認しに行く勇気はなく、何日かたって植え込みを見たら、瓶はなかった。蝦蟇は死んだのか、誰かに助けられたのか、あるいは自力で脱出したのか。わからないまま、私の心のどこかにそれは封印された。

 あのたった一匹の蝦蟇のことを、今もこうして忘れずにいる。いや、あのときの私のことを覚えているのだ。

 四年生のとき、その家から引っ越した。
 転校した先は、もっと自然に囲まれた田園地帯だった。春、水を張った田んぼにはトノサマガエルが群れ、その鳴き声があたり一面、降り注ぐように響いていた。

 家の隣は中学校で、校舎の裏手には防火用水池があった。夏はプールとして使われていたが、シーズンが終わるとなぜかそこには金魚が泳ぎ回り、板きれなどが浮き、翌年の春にはトノサマガエルが発生するのだった。

 中型でまだら模様のある緑色のトノサマガエルは、蛙のなかでも一番のお気に入りだった。動きが敏捷で逃げ足が速いが、毎日追いかけているうちに捕獲術を会得し、日に十匹も素手で捕まえることがあった。雄と雌の区別はもちろんのこと、背中の模様で一匹ずつ見分けられる。家に持ち帰ったトノサマガエルに名前をつけて飼い、毎日飽きずに話しかけた。

 けれど、そんな私と蛙の蜜月は長くは続かなかった。

 五年生のときだったか、帰り道に防火用水池に寄って捕まえたトノサマガエルを手にして、中学校の校庭をぼんやり歩いていた。小学校は終わっても中学校はまだ授業中だったのだろう、広い校庭は静まりかえっていた。

 どこかから板きれとガラスの破片を拾ってきてしゃがみこむと、私は蛙の体を裏返して板の上に大の字にし、白い腹にガラスを突き立てた。蛙の皮膚はすぐには切れず、鈍いガラスの破片で何度も同じところを縦に引いた。薄皮がちょっとずつ切れてゆき、やがて内臓が見えてくるまで。

 蛙の解剖は、当時れっきとした理科の学習項目だった。二年生か三年生でフナの解剖、それからもっと上級で蛙の解剖。小学生向けの学習雑誌の付録にも、解剖用のハサミセットがついてきたことがある。

 蛙は、解剖しても心臓は簡単には止まらない。腸などの内臓を取り出しても心臓は動いている。どこかの本にそう書いてあった。裂いた腹の中で、たしかに心臓は脈打っていた。

 だがそのときガラスの破片で蛙の腹を裂いたのは、理科の学習のためではなかった。かすかに、蛙が憎いような気がした。死にかけた蛙は苦しんでいるだろうかと、不安が一瞬かすめはしたかもしれない。が、心臓を止めてやろうと思ったときも、苦痛から解放してやりたかったわけではない。名前のない何かが胸中にうごめいていた。腹からダラリとはみ出した腸やら心臓やらを見ても、何も感じなかった。

 私はゆっくりと立ち上がると、蛙の死骸を手で掴んだまま木造の古い校舎に向かった。

 西の端に昇降口がある。埃の匂いが染みついた下駄箱に、中学生の大きな運動靴や革靴が並んでいる。女子用の下駄箱を選び、手にした蛙の死骸をそこに置いた。腹を上にして、内臓が見えるように。そして耳鳴りのする頭を首のうえに無理に乗っけて、また校庭に戻った。

 今よりずっと昔の、のどかな田園地帯である。そんなことをしても、犯人を見つけようと調べる人もなく、結局何も起きなかった。

 蛙の腹をガラスで切ったのはその一度だけではない。幾度か繰り返すうち、たまたま家に来ていた叔父に見つかってこっぴどく叱られ、以来、蛙を捕まえるのをやめた。いつも冗談を言って笑わせてくれていた叔父が、そのときは両手を広げて立ちはだかっているように思えた。その頃から拒食症になった私に何があったのか、すでに覚えてはいないが。


 大人たちがいくらでも生き物を殺しているのを、私は知っていた。ネズミ取りに掛かった十センチくらいのネズミを祖父が庭に出し、太い木材を振り下ろしてぐちゃぐちゃにつぶすのを、最初から終わりまで見ていたことがある。

 庭に蝿や蚊がわかないようにと、当時はまだ禁止されていなかったBHCの白い粉が年に何度か庭に撒かれた。初めてトノサマガエルを飼った池に、父が私に相談もなくその農薬を撒き、名前までつけて可愛がっていた蛙は死んだ。泣いて抗議したが、怒鳴られただけだった。わけがわからなかった大人の論理を、私はいつしか受け入れた。

 昆虫を火あぶりにしたい衝動を抑え込んでいる大人の私。瓶詰めにしてしまった蝦蟇を助けたいと必死に願ったあのときの自分を、切なく悲しく愛おしいものとして抱きしめている大人の私。はらわたを抉った蛙が、もし、猫や犬だったらと考えずにいられない、「こちら側」と「むこう側」のあやうい境界にいたことを知っている大人の私。

 時折、私はどうやってこちら側に来たのだろうと思う。そんなとき、その境界でひとり立ちすくんでいる少女の汚れた手を、私はそっと握ってやる。
        

                      (了)

(『文芸思潮』66号(2012)に豊川亜紗のPNで掲載。
第2回文芸思潮賞・奨励賞受賞
ウェブで読みやすくするため改行をふやしています)

 


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