見出し画像

「みんなと同じことをする」の意義とは

ここのところnoteでは、
これまでを振り返ってストーリーを書いていた。

それで、ふと、思い出した。

病気休暇に入る直前のこと。


ちょうど運動会シーズンで、
運動会のダンスの練習をしていたときのこと。

体育館に150人の3年生。
旗を使ったフラッグダンスだった。


旗の角度、高さ、並ぶ列、目線、動きの正確さ、キレ、
いろんなものが要求されていた。

150人の中には、

運動が得意な子もいれば苦手な子もいる。
走るのは得意だけど、踊るのは苦手な子もいる。
集団行動が苦手な子もいる。
言葉の指示が苦手な子もいる。
動作の模倣が苦手な子もいる。
45分間の集中が苦手な子もいる。

いろんな子がいる中で、
全員が同じレベルの動きを要求されていた。


私はそれに気づいた瞬間、泣きたくてたまらなくなった。


それは、ついていけない子のつらさ、苦しさに気づいたからでもあるし、

その瞬間まで、それに気づかずに、同じことを要求し続けた自分に気づいたからでもあるし、

これがまかり通ってる学校という存在に気づいたからでもあるし、

もういろいろが複雑に絡み合っていたんだと思う。


そして、
なぜ今まで気づかなかったそれに、その時気づいたのかというと、
理由がある。


まだその時は病休には入っていなかったけれど、
もう私は休みがちになっていた。

ベッドから起き上がれなくて、泣いて泣いて、
それでもなんとか這いつくばって出勤していた。

学校にいても、心はそこにはなかった。

「もうやめたい。もう無理だ。」

その本当の気持ちを、すでに認めていて、
教員人生から転落しかけていたのだ。


だから、できない子の気持ちが痛いほどわかった。

みんなはできているのに、自分はできない。恥ずかしい。
でも、やらなきゃいけない。
やらなければ咎められる。罰を受ける。
ついていかなきゃ。がんばらなきゃ。

自分と重なったのだ。


それを思い出し、
最近の教育を語る会でのことに繋がった。

先生たちは、つまずいた経験がない人が多い。
優等生で来てしまったから、
つまずく子の気持ちがわからない。


ある高校の先生が言っていたこと。


私も、大きくつまずいたことがなかった。

「やればできる」
そう経験してきた人間だ。

もちろん、やればできることはたくさんあると思う。
やらなきゃできないとも思ってる。

でも、元々もっている性質ってある。
苦手なものは苦手だし、できないものはできない。

学校は、できないものをできないままでいさせてくれない。
できないものをできるまでやらせようとする。

それは、つまずいたことがない先生が多いからなのかもしれない。


「できないものを、できるまでやらせようとする」

これはある意味先生たちの愛でもある。
あなたはできる!だから、がんばれ!
子どもの力を最大限引き出そうとしてる。


休み時間返上で、練習して練習して、
想像以上の出来栄えになる経験もした。

この達成感。がんばった甲斐があったよね。
あなたたちのがんばりが、みんなを感動させたんだよ。

これはこれで素晴らしい経験になる子もいる。



だけど私は、自分自身の「できない」経験を通して、新たな見方を持った。

できないことに時間をかけても、いい結果を生まない。

それよりも、

できること、やりたいこと、好きなこと、
本人も時間をかけたくなることを
もっともっと伸ばした方がいい。
そしたらぐんぐん力はつく。

そしたら、自信もつく。
そしたらもっと挑戦したくなって、もっと伸びる。
失敗したってなんのその。

そしたら人に伝えたくなる。
そしたらコミュニケーション能力だってつく。
プレゼン能力だって。

そうやっていったら、
苦手なことにも取り組まなきゃいけない時が来て、
そのときはきっと、やりたくないことも、せっせとやるんだよね。

これが素晴らしい経験になる子もいる。



おそらく、どっちも正しいし、
もっといろんな正しさがあるんだと思う。



知らなかったから仕方ないとは言えない。

だって「教育」だから。

人間形成の基礎だから。


どうやったら、自分が狭い視野で見ていることがわかるのか。もっと広げようと思うのか。

違う視点を手に入れるのが、教育の肝なのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?