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人の間を感じなくなった [缶詰44日目]

 妹が慌てて帰ってきてからの一声。「びっくりした、いつも見てた人が」

 その数時間前、LINEのトップニュースにある女性の「死去」が飛び込んだ。全然知らない人、でも同じ年齢層、むしろ彼女の方が若い。公に露わになっただけで死因についてはまだ明らかではなかった。ただ1つ気づいたのが、「テラスハウス」の文字面が彼女の名前と隣り合わせなこと。もしかしたら。

 妹曰く、その節があるらしい。夜遅くまで過去から直近までの放送を視聴していた妹は、いつも楽しそうに見ていた。白基調の優雅な空間で織りなす男女生活ドラマは日本を超え、海外でも人気がある。しかし、認知度が上がるたびに「誹謗中傷」の嵐はひっきりなしにやってくる。

 ネット世界は、コロナを利用しさらに拡大していく。人とのやり取り、物の売買、身の回りの環境すべてがネットを介してつながりを持つ世界の足音が日に日に大きくなる。身体性を放棄し、精神性に過剰投資される。脳機能をアップデートしていった結果、自分の指で、ネットを媒介し、人を突き刺すことができる世の中になってしまった。匿名性で眼前をガードつつ、自分の言いたいことは特注の刃で直接相手のもとに送り付ける。それは犯罪ではないのか。

 あくまでドラマだから、あくまでモデルさんだから。誹謗中傷を回避するスキルを身に着けよう。そういうことを言うだけで明日を迎えていいのか。

 人と人の間がこれまでは空気だった。音も、光も、匂いもすべて共有しながら視野の中央に相手を置き、環境音の中から相手の声だけを認知する。空気は透明で、音、光の伝わりも早い。

 ネットを介すとどうだろうか。人と人の間には、2つのスクリーンと、光回線や電波が存在する。匂い、距離感は消え、音、光は数字に変わる。本物のようで本物でない相手をどう認知しているのか。

 人間の進化スピードは、生から死までの100年未満のスケールでしか進まない。まだ戦争経験者がご存命ななか、インターネットの波で社会が覆われた。人生途中からネットを触れだした人で、ネットに適応したDNAを持つ人などいるわけがない。後天的に学ぶことができる部分でカバーしきれるのか。「死」を選択するときは、常に本能的である。「死」を理性で抑え込めなくなった先に、ネットに紐づけされた本能的な解決策を誰も有していない。

 しかし、誰とでもつながりを持てるのが、「ネット」の最も画期的なところである。ネットが概念化しつつある。生と死、本能と理性、身体と精神。ネットリテラシーを学習することで、すべての人がエンハンスされるわけでない。いまこうして打ち込んだ文字も、下書きから公開に移動した瞬間に、人様の目に触れ、少なからずこの時間は影響を与える存在となる。

 「ネット」か「非ネット」かの問題ではない。自分の選んだ言葉をどれだけの人が認知しているのかを私たちはよく知らない。ただ、無意識的にでも選んだ言葉が飴と鞭になる。それが言語を操る人間にしか悩むことのできない命題であるのかもしれない。

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