連作幻想譚[真夜中にゾウが来る]第4夜

 4日目。夜9時にお店に着く。今日は開店より1時間早めに着くことができた。
 木曜日。表の人通りはいつもと同じくらい。多くもなければ、少なくもない。そんな感じだった。

 連日の徹夜続きのせいだろうか。体の節々が痛む中、ぼくは毎晩、お店で不可思議な出来事が起きる理由をひとりで考えていた。
 もしかして……。そうだ。自分がお店の任務を放棄しかけたときだ。そんなときに、少々訳ありのお客様がうちのお店を訪れるような気がする。
 最初の夜と2日目はスマートフォン、昨夜は遅刻して着いたらもうお客様が先に来ていた。
 それでふと思った。それなら、お店を開いているときは、自分の任務に集中していれば良いんじゃないか。そうすればきっと、サラリーマンがゾウに変身したり、見えないクジャクを買うおばさんと短い旅に出ることもないだろう。
 毎晩珍しい出来事が続いて、いささか疲れが出ていたぼくは、そう仮説を立ててから、思わず膝をたたいた。

 午後11時55分。お店の開店から2時間が経とうとしている。
 例のごとく、カフェの中は閑古鳥が鳴いている。
 ぼくは、ネットニュースや電子書籍を見たい気持ちや、ソファに座ってうたた寝をしたい衝動をなんとか抑えながら、だれも来ないお店のカウンターのレジの前を、警備員のように黙ってつっ立っていた。
 ときどき、筋肉をほぐすために体を伸ばす。 だいぶ肩が凝っているのを感じた。
 本くらい読んでもいいかな……。ぼくはそう思ったが、あいにく今日は家から持って来ていなかった。お店の書棚に並んでいる本は、どれもコーヒーの専門書ばかりで、自分には難しく感じる。
 ごくたまに、店の外に出て通りを歩く人をチェックするが、お店に入ろうとする人は皆無に等しかった。
 やっぱり、シャッターは全開にしたほうが入りやすいんじゃないかな……。
 ぼくは、自分の業務とは関係のない余計なことを考えそうになる度に、最初の夜に出会ったゾウの顔を思い出した。
 そうか……。相手の立場に立って物事を行うことか。そうすれば、少しは相手の人のことを理解できるかも知れない。ぼくは、ゾウのいっていたことを自分なりに考えて、これからの接客に向けて心を備えていた。
 そして、先月の家賃を払い忘れたまま海外に消えたおじさんの代わりに、どうすればお店の収益を伸ばせるか、色々な案を勝手にひとりで思い巡らした。これはこれでけっこう楽しい。
 それにしても、そろそろおじさんから連絡が来ても良いはずなのだが。

 ぼくがお店の中に戻ろうとしたそのとき、薄汚れて見えるジャンパーを着た初老の男性が、お店のそばをゆっくりと通り過ぎようとするのが見えた。
 グレーの髪の毛を短く刈り上げ、一見強面ながらも、おとなしい目をしたその男性は、はっと立ち止まって、お店の中をじっと眺めた。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
 ぼくは、落ち着いてお客様に挨拶をした。
 その男性は無言で自分の顔をじっと見ると、中に入ろうとした。
 ぼくはあわてて自動になっていない自動ドアを手で開いた。
 おじさんからは、センサーで風が吹いても開くことがあるから、自動ドアは自動にしておかないように、といわれているのだ。
 お客様はカウンターに腰をおろした。
「なにかご注文はございますか……?」
 お冷やをお出ししてから10分。
 黙って座り込んだままのお客様に、ぼくは声をおかけした。
 お客様は、ぼくの顔を見ようともしないで、どこか遠くのほうを見るような表情をしている。その目つきは微笑ともいえる眼差しをしていた。
 最初の日もその次の日も、昨日のお客様も、まず最初に自分から注文されていたのに、こちらの方は、ちょっと違うみたいだ。
「お客様……?」
 ぼくはもう一度、お客様にお尋ねした。
 お客様は、メニュープレートを見て、一言
「エスプレッソ」
とだけいった。

エスプレッソをお出ししたあとも、お客様はずっと変わらずに無言だった。
 ぼくは、変だな……と思った。でも、本当はこれが普通なのかも知れない。カフェに来るお客様が、必ずしもお店の人と話をしたいから訪れるとは限らないからだ。黙ってコーヒーを味わいたいお客様もいるだろう。
 それにしても、真夜中のこの時間に、すぐ目の前に座るお客様と向かい合いながらの沈黙は、とても辛く感じられた。
 奥の部屋に逃げ込む訳にもいかないし、寝る訳にもいかない。かといって、今日のお客様は今のところ目の前にいる人だけだから、お皿洗いや片付けをする必要もなかった。
 お店の棚の整理も整っている。掃除もさっきしてしまった。するべきことが見当たらなかった。
 こんなときに限って、店内の有線放送が流れてこない。音響機器の故障だろうか。でも、色々動かしていると、ゆっくりくつろいでいるお客様の迷惑になるかも知れない。
 自分のプレッシャーは時間が経つごとに蓄積されていった。

 なにか話しかけてみようか……。ぼくは、昨日のお客様のいっていたことが少し心に引っかかっていた。
「共通の話題を見つけるのも一苦労よ……」
 あのときは、まんまとうまくいいくるめられてしまったが、人間である限り、共通の話題は無限にある。ゾウとも会話ができたくらいなのだ。肝心なのはうまい話題の出し方と、それに対する返答だろう。
 ぼくは思いきって口を開いた。
「今日も暑かったですね」
 お客様は答えない。
 ぼくは、もう一度、さっきよりも大きな声でいい直してみた。
「今日も、暑かったですね!」
 返事はなかった。
 ぼくの言葉が聞こえてないというより、返事をする気がない、という雰囲気だ。だが、機嫌を損ねたり、怒っているというわけでもない感じだった。
 ぼくは、なにもギャグをいったわけではないのに、すべったような気持ちになった。

 こういうとき、本当にギャグやジョークをいってみたらどんな感じになるんだろう。かなり古いが、「ガチョーン」とかやってみたら笑ってくれるだろうか。それをやっている自分を想像したら、少しおかしくなった。
 でも、それをやることは、今目の前にいる人のことを考えた行動ではないことも、すぐに気がついた。
 とにかく、そのお客様の沈黙は、なんともいえない雰囲気なのだ。上の空に近いのだろうか。なにか考えているようにも見えるし、なにも考えていないようにも見える。ただときどき、ちびりちびりエスプレッソを口にしていた。

 ぼくは、今夜は外の様子がどうなっているか、少し気になった。
 それで、お店のレジの近くの扉を開けると、ドアを開けて様子を覗いてみた。
 そのとき、いきなり大きな銃声が鳴り響いた。
「えっ?」
 ぼくは、外に出てお店の周囲を見回してみた。
 すると、パッと周りが明るくなり、辺り一面が白い霧で覆われた。
 これは……白夜だ。霧で覆われた並木道に沿った道路の向かい側に、白っぽい体の男の人が立っているのが見える。
 急に現れた霧が、少しずつ晴れていき、男の人の顔が見えた。
「あれぇ? あなたは……」
「うるせぇ!」
 大声で怒鳴り声をあげたその人は、なんとお店の中でずっとエスプレッソを飲んでいるはずの無口なお客様だった。

 道路の向こう側にいるお客様は、険しい顔をしてズボンのポケットからなにかを取り出した。
 それはピストルだった。
 お客様は、手に持ったピストルを自らの頭に向けた。
「お客様……! おかしな真似は止めてください!」
 ぼくはあわてて二車線の道路の中央まで走り寄った。
「うるせぇ! こっち来んじゃねぇ!」
 お客様はまた怒鳴ると、ピストルを空に向け1発発泡した。
 その直後、また銃声の音が辺りに鳴り響いた。
 ぼくは訳が分からないまま、道路の真ん中に立ち止まってお客様に話し続けた。
「もしあなたが死んだら、あなたの家族や、あなたを愛している周りの人たちがみんな悲しみます!」
 お客様はまだ仁王立ちになってピストルを手に固まっている。
「あなたの奥さんもお子さんも、本当はあなたのことを愛していて、あなたが無事に帰ってくるのを待ち望んでいるんですよ!」
 ぼくは、そのお客様に奥さんや子供がいるのかも、もしいたとしてもどのような家庭環境なのかも知らないのに、口からすいすいと言葉がこぼれ出てきた。
 そのとき、またどこからともなく霧が立ち込め、辺りは暗くなった。
 いつの間にか白っぽい姿のお客様はいない。そこは見慣れた真夜中の道路と並木道に戻っていた。

 ぼくが首を傾げながらお店に戻ると、カウンターには、さっきと変わらない様子でお客様がたたずんでいた。
 ぼくがあ然としてお客様を見つめると、お客様はちらっと自分の顔を見た。やっぱり無言だ。
 今のは一体なんだったんだろう。
 ぼくは、カウンターに戻って、またお客様のそばに立ちながら類推をはじめた。
 外にいたお客様と違って、目の前にいるお客様は、やはり穏やかな表情でどこかを見つめている。時折、エスプレッソを口に運ぶときも、その表情は変わらなかった。

 ぼくは、心の中で神様にお祈りしてみた。
(神様、このお客様は、今どのような状況にいるのか分かりません。どうか、こちらのお客様が守られ、なにか問題があるなら解決されますように)
 お客様の様子は勿論変わらない。だが、ぼくは祈りながら、はたと気がついた。
 こちらのお客様はひょっとして、ものをいうこともできないような「なにか」と今戦っているということを。
 微笑に見える眼差しをしているが、本当は心の中は痛みと苦しみでいっぱいだということを。
 自分自身を傷つけるか、人を傷つけかねないような瀬戸際の状態を、今、必死でこらえ、保ったままでいることが伝わってきた。
 その詳細は分からないが、伝わってきてしまったのだ。
 ぼくは、さっきまでの自分が、あまりにも迂闊でデリカシーのない考えばかりしていたことを思い知った。
 そのとき、お客様がゆっくりとした調子で口を開いた。
「エスプレッソ、……もう1杯」

 ぼくがエスプレッソを用意してお出しすると、お客様はそれをゆっくりと口に運んだ。
 それからしばらくして、お客様が、伝票を手に取って席を立ったとき、時刻は午前4時だった。
 今日のお客様は、丸々4時間、ほとんどなにもしゃべらないまま、エスプレッソを2杯飲まれただけということになる。外で会った、もうひとりのお客様を除けば。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています」
 レジで会計を済ませ、ぼくが当たり障りのない口調でそういうと、お客様は、口元をゆるめてこういった。
「ありがとう」
 その言葉は、さっきまでよりもお客様の生気が感じられる一言だった。

 お客様が帰られたあとで、消音モードにしてあるスマートフォンをポケットから取り出すと、新着メールが届いていた。
 おじさんからだ。ぼくはすぐに開けてみた。
「返信できなくて申し訳ない。国際便で先月分の家賃を送ったから、◯日は夜8時までに店で待機していてほしい。
では引き続き留守番よろしく。以上」
 ◯日は今日のことだ。
 やはりLINEには音符の絵文字が付けられている。その音符は、今回はなぜか2個に増えていた。

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