連作幻想譚[真夜中にゾウが来る]第2夜

 初出 エブリスタ 2020年2-8月
 連載時タイトル「真夜中のカフェ」一部改稿

 吊り革につかまって、帰りのバスに揺られていると、自転車で坂道を下っている中年の男性が、にこやかな顔を向けてこちらに手をふってきた。
 ぼくは思わずその人に手をふり返してしまった。周りを見てみたが、バスの中にいる人たちはみんな素知らぬ顔をしている。
 人違いだろうか。こういうことって、だれにでもあることなのだろうか。

 2日目。夜10時ちょうどにお店を開ける。今日は夕方から小雨が降りはじめてきた。
 おじさんからは、あれからうんともすんとも連絡がない。LINEをしても既読がつかない。もう仁川空港に着いたのだろうか。
 そもそも、なんでおじさんは韓国に向かっているのか。なぜ初日のお客様がゾウに変身したのか。どうして本物のゾウにお説教されなければならないのか。全く分からないままだった。

 お店を開けて2時間。時刻は正午をすぎた。雨が本降りとなってきたせいか、人通りは少ない。
 店内の有線放送は、心地良いジャズのリズムを奏でている。
 ぼくは本を読みながら、お客様が来るのを待っていた。だが自分の心はもやもやが残ったままだ。
 あのゾウのいっていたこと、自分にもできるのだろうか。相手を理解すること。相手を理解しようと努めること。
 実際は、人の気持ちを分かったふりしかできないのではないだろうか……。
 ぼくは、電車の中で知らない女の人と隣り合わせで座ることがある。友達でも恋人でも家族でもないのに、体が密着し、たまに頭を寄りかかられると、ぼくは緊張するが、相手はなにを考えているのか分からない。おそらく、単に眠いだけなのだろう。隣にいる人なのに、なにをしている人なのか、だれを愛しているのか、その人の行き先はどこなのか、なにも分からないのだ。

 ぼくは考えがまとまらなかったり、ストレスや心配事があると、インターネットの世界に逃げ込む習性があった。
 スマートフォンを開けて、ニュースサイトにアクセスしていると、突然きれいな女の人がウインクをして微笑みかけてきた。マンガや雑誌の試し読みサイトの広告だ。ぼくは、周りにだれもいないのを確認すると、そのサイトにアクセスしようと人差し指を画面に近づけた。
 そのとき、いきなりお店のシャッターをガシャンと叩く音がした。
 ぼくは、我に返ってスマートフォンを流しの台に置くと、お店のドアを開けた。
 そこにいたのは、赤いワンピースを着た、長い髪の女の人だった。
 傘もささずにずぶ濡れの女の人は、ギロリと自分をにらみつけるようにしながら、低めの声でこういった。
「マスターはいる?」
「マスターはいません……」
 その人はやせてスタイルが良く、きれいな顔をしていたが、年齢は分からなかった。魔性の女とはこういう人のことをいうのだろうか。
「あんたバイト?」
 怒ったような口調で、女の人はカウンターにどかっと座り込むと、ぼくにたずねた。
「タオルくらい用意しなさいよ」
「す、すみません……」
 ぼくは、タオルなんてあったっけ……と内心ひやひやしながら、カウンターの下の収納庫を開けてみた。あった、あった。食器拭き用だけど、この際仕方がない。
「紅茶はある?」
 自分が渡したタオルで体を拭きながら、そのお客様はまたぶっきらぼうな調子で尋ねた。
「すみません、うちはコーヒーしかないんです」
「ならいいわ。ブレンドのホットをちょうだい。ミルク付きで」
 ブラジルとグァテマラの粉を半分ずつ取り分けたぼくは、マスターに教わった方法でコーヒーを淹れはじめた。

「前に、ここの店を通りかかったとき、店先にいたマスターと立ち話したの。オーダーもしないのに……」
 ブレンドを飲みながら、お客様はだんだん落ち着いた口調になっていった。
「久しぶりに楽しい時間が過ごせたから。今日はそのお礼のつもりで来たのよ」
「今の時間に、お店が開いてるとよく分かりましたね」
「昨日の夜、仕事の帰りに見たのよ。ここにお客さんが入っていくのを」
「そうですか……」
 ぼくは、失礼だと思いながら、お客様にこう質問してみた。
「ちなみに、なんのお仕事をされているんですか?」
 すると、お客様は急に黙りこんだ。そして、カバンから携帯を取り出すとこういった。
「写真見てみる?」
 ぼくは少し緊張しながら、「はい」と答えた。
 画面は真っ黒い。まるで地面を近距離で写したみたいだ。
「なんですか、これ」
「ドロ」
 お客様は、つまらなそうにそう返事をすると、いきなり自らのほっぺたをつまんでみせた。
「私は、ドロを売って生活していたの。それも昨日までだけど」
 戸惑いながら、ぼくはいった。
「昨日まで?」
 すると、お客様は手のひらをぼくに差し出して見せてくれた。
 チョコレート? いや、それは土の塊のようだ。
「ドロよ」
 お客様は、自分を刺すような目で見つめながら、話を続けた。
「ドロ」
「ドロって……。コソドロですか?」
 ぼくがそう聞くと、お客様の目から突然、ボロボロと黒い粒が流れ落ちた。
 それはまさしく、ドロの涙だった。

 お客様がどうして涙を流したのか、ぼくには分からなかった。
 その涙がドロだったことよりも、気の強そうなお客様が、急に泣いたことのほうがよっぽど不思議だった。
 そんなに自分の言葉が相手を傷つけてしまったのだろうか……。
「申し訳ありません。変なことをいいました」
 ぼくは、お客様に対して、軽はずみにコソドロといってしまったことを後悔していた。ドロと掛け合わせたしゃれのつもりだったのに。
 またやってしまった。自分には、ほんのジョークのつもりでいった一言で、人を怒らせてしまうことがよくある。失言癖があるのだ。しかし、人を笑わせようとして泣かせてしまったのはこれが初めてだった。
「いいのよ、気にしないで」
 お客様はハンカチで目を拭うと、そういって微笑んだ。
「昔のことをちょっと思い出しただけよ」
 気がつくと、雨音はさっきよりも激しさを増してきていた。

 突然、お店の電話のベルが鳴った。
 ぼくは壁の時計に目をやった。時刻は午前1時をまわった頃だ。こんな夜遅くに、どこかの間違い電話だろうか。それとも、まさか、空港に到着したおじさんからでは……。
 ぼくは、一抹の希望的観測を抱きながら、一拍おいて、電話の子機の受話ボタンを押した。
「はい、カフェ・ソスペーゾです」
 すると、いきなり若い男の大きなダミ声が電話口から響き渡った。
「お前んとこの店に、女が来てるだろ?」
「な、なんのことですか?」
「ドロの女だよ」
「え、あなたはどなたですか」
「俺だよ俺。俺って伝えれば分かるよ。とにかく今からそっちに行くからな」
 男が早口でそうまくしたてると電話は切れた。
「私のドロを売って儲けていた連中ね」
 お客様がいった。
「間もなくここに来るわよ」
 その言葉から間髪入れないうちに、お店のシャッターをガシャガシャと激しく叩く音がした。
「おーい、出てこーい」
「ちょっと隠れていたほうが良さそうですね」
 ぼくは、お客様をカウンターの隣にある化粧室に案内すると、引き戸を閉めた。

「いらっしゃいませ」
 ぼくがお店のドアを開くと、そこにいたのは、人間ではなかった。
 そこにいたのは、ドロ人間だったのだ。
 形は人間なのに、身体全体がドロで固められている男がふたり、傘を差して立っている。表情は読み取れず、まるでじゃがいもみたいだ。
「ヤスコ。いるのは分かってんだよ。出てこい!」
 小さい細身のドロ人間が、そう怒鳴った。電話口の声と同じだ。
「ちょっと入らせてもらうよ。いいかい?」
 雪だるまに似た体型のもうひとりのドロ人間が、穏やかな口調でそういった。
「すみません、うちには、女のお客様は来ていません」
 ぼくは冷静さを装って、そう答えた。
「んなわけねぇだろ。GPSがビンビン反応してんだよ!」
 すっとんきょうな大声で、細身のドロ人間が、ぼくの肩を傘を持っていないほうの手でつかんだ。その男の手はぐにゃりと柔らかい。
 本物のドロだ……。ぼくの肩はたちまちドロまみれになった。
 ふたりのドロ人間の背後を見ると、大雨がまるで滝のように路上に降り注いでいた。まるでスコールだ。
「今、自分は店番をしている者です。マスターがいるときに、またご来店ください」
 ぼくは、ドロ人間があまり怖く感じられなかった。だって、ドロでできているのだから、お湯をかけたら一発じゃないか。
 それに……。ぼくは、1日目の夜、おじさんからいわれていた言葉を思い出していた。
「もし、うちのカフェに、お前やうちのお客様に危害を加えるような者が来たら、絶対に中に入れるな。俺の名前を出していいから」
 お店を後にする前、確かにおじさんはそういっていた。
「ここは俺の店だ。困ったときは、俺の名前を出せ。そうすればなんとかなる」

「おい。ちょっと待てよ……」
 雪だるま風のドロ人間が、細身のドロ人間の肩を叩いて、手に持っているスマートフォンを見せた。
「GPSの信号がなくなっている」
「おかしいな……」
 ぼくは、ふたりにいった。
「そういえば、先ほど、赤いワンピースを着た女のお客様が来店されました」
「そいつだ、そいつ! て、ことは、今はいないのか?」
 細身のドロ人間が色めき立った。
「はい、ブレンドを飲まれたあと帰られました。あっちのほうに……」
 ぼくが、左手にある十字路を手で指し示すと、ふたりとも、停めていたバンに飛び乗って、お礼もいわずに、そちらに向かって走り去っていった。
 おじさんの名前の威力を知ることは、今回はできなかった。

 お客様が、いつの間にか化粧室から出て、カウンターのそばに立っていた。
「携帯の電源オフにしたから」
 そして、自分を軽く抱きしめた。
「もう大丈夫。ありがとね……」
 お客様の体は、微妙に柔らかい気がした。やはりドロでできているのだろうか。でも、ぼくの体はドロまみれにならない。
 ぼくは、「この人は、決して自分のことが好きで抱きしめてるんじゃないんだぞ……」と心の中で念を押しながら、子供の頃、塾のお姉さんに優しくしてもらったことを思い出した。

 お客様の薬指には、紫色のパールの指輪があった。
「先月結婚が決まったの。年内には式が挙げられるといいんだけど」
 お客様は、ブレンドの2杯目を飲みながら、ひとりごとをいうみたいに身の上を話しはじめた。
「それはそれは……おめでとうございます」
 ぼくは、そうはいったものの、なんだか気がかりに思えた。お客様の顔が少し沈んで見えたからだ。
「お互いがお互いを思いやれる。私にとって、とっても素敵な相手なんだけれど……」
 お客様は、コーヒーカップをお皿の上にカチャンと置いた。
「私にとっての過去が、今でも、まとわりつくようについてくるの。さっきみたいに」
 ぼくは、なんと相槌を打てばいいのか、困りながら、こういった。
「でも、さっきの人たちは、もう行ってしまいましたよ。また来るかもしれないけど……もう、縁の切れた人たちなんですよね?」
「私のように、本心を偽ってドロを売る人間は後を絶たないわ。ドロはいつでも、見知らぬだれかの役に立つのよ。身体に塗れば美容になるし、飲めば健康促進剤になる」
 お客様は、宙を見つめながら、自分の返事を無視するようにして、まるで夢遊病者のように語り続けた。
「ドロを盗む人もいれば、『いいですか?』と遠慮がちに持って行く人もいる。一時は、ドロをあげないことが、かえって悪いことのように思えたけど……」
 お客様の目には、よく見ると大きなクマがあった。
「今はもう違うの」
「そうですか……」
 ぼくは、そう答えることしかできなかった。そして、訳もなく申し訳ない気持ちになった。

 雨は変わらずに激しく降り続いている。
「今、生きてきた中で一番くらい幸せなの。なのに、気がつくと、泣いている」
「……」
「過去が、いつでも私を追いかけてくるのよ」
 ぼくは、そのとき、とっさに偉人の格言や、聖書の一節を引用して、お客様を励ましたい衝動にかられたが、「それは違う」という思いが、どこからともなく心に湧き起こってきた。これは、なんなんだろう。
 ぼくは、ふとお店の外に目を向けて、思わず「わっ」とつぶやいた。
 街灯に照らし出されている、雨の色が赤い。ワインレッドの、まるで血の色だ。
 血の雨が降っている。異常気象によるものだろうか。それとも、なんらかのライトの反射のせいだろうか。
 そうじゃない。神様が泣いている……。血の色をした雨が、滝のように降り注いでいる様子を見て、ぼくは直感的にそう感じた。
 その瞬間、心の中で、「なぜ分からないのか」「どうしてあなたたちは、まだなおも自分で自分を苦しめ続けているのか」という言葉が浮かんできた。

 そのあとのことは覚えていない。
 目が覚めたときには、自分はカウンターのすぐそばの壁にあるソファに横になっていた。いつの間にか、体には黄色のカーディガンがかけられている。
 カウンターには、お客様が置いていったと思われる千円札が、2枚置かれていた。
 朝だ。雨は止んでいた。お店の外に出てみると、血の色ではない普通の水たまりが、あちらこちらにできている。
 朝日がまぶしい。空を見上げると、今まで見たことのないほどの大きな虹が、雲と雲の間にかけられていた。

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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