連作幻想譚[真夜中にゾウが来る]第3夜

 初出 エブリスタ 2020年2-8月
 連載時タイトル「真夜中のカフェ」一部改稿

 3日目。家を出るのが遅くなってしまい、夜10時20分ごろお店に着く。
 カフェの前に、見知らぬおばさんが立っていた。
「あんた、店番の子かい?」
 開口一番、おばさんからそう尋ねられた。老婆というには若い感じだが、年齢は母よりも少し上くらいだろうか。灰色の短い髪に、夏向けのニット帽をかぶっている。
「はい、そうです。遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いや、いいんだけど。私はね、あんたんとこに店舗を貸している大家の者だけどね」
 ぼくの問いに、おばさんは淡々とした口調で答えた。
「賃料がね……先月の分まだ貰えてないのよね」
 げっ、やばいな……とぼくは思った。
「そうでしたか……。あの、マスターからなにか聞いていませんか?」 
「うん、あんたんとこに甥っ子が1週間、社会勉強を兼ねて深夜に店番をするってことだけ聞いてるね。もしかして、貯金の残高気づいてないんじゃない?」
 おじさんならあり得る。なにしろ、どこに行くともいわないで海外に行ってしまうような人なのだ。かなり上から目線でおじさんには悪いけど、きっと悪気があってやったことではないのだろう。
「それでさ、ちょっと相談なんだけどさ……」
 おばさんは、そういってにやっと笑った。
「今日、ただでコーヒー飲みに寄らせてもらえないかしら」
 断るわけにいかない……。ぼくはそう思った。
「いいですよ。ちょっと、準備が必要ですが」
「いや、今すぐじゃあなくていいのよ。今はすることがあるから」
 おばさんは、そういって笑いながら手をふった。
「そうね、1時ごろお邪魔するわね」

 さあ、どうしよう。
 大家のおばさんは、この近くに住んでいる人のようだ。深夜1時に来店されるまで、また時間が余ってしまった。
 1日目はゾウ人間とゾウ、2日目はドロの女とドロ男2人組。毎晩どうも変わったお客様ばかりが来店する。今日のお客様は果たしてどんな人なのだろう。
 お店の清掃や棚の整理をしながら、そんなことを考えていたり、うたた寝をしていたら、3時間があっという間にすぎていった。

 時刻は午前1時だ。
 半分開けているシャッターから、おばさんの姿が見えた。なにかを持っている。
「いらっしゃいませ、お待ちしていました」
 ぼくが、ドアを開けると、おばさんはにこりともしないで中に入ってきた。
「タンザニアひとつちょうだい」
 おばさんが手にしていたのは、空っぽの大きな鳥かごだった。
「心配しないでいいよ。この子は大人しいから」
 お客様の言葉を聞いて、ぼくは背筋に冷たいものを感じた。
 見えない鳥がいるのか……。
 考えられることは2つ。自分の目がおかしいか、お客様の頭がおかしいかだ。
「安心しな。中になにも入っていないことくらい知ってるよ」
 ぼくの心を見透かしたように、お客様はそういってかかかと笑った。

 店内には、おじさんが気に入っているノラ・ジョーンズの有名な曲が流れている。
「あんた、今イライラしてるようだね」
 お客様が、コーヒーを一口すすると、ぼくにそういった。
「別に……」
「私は分かるのよ」
 いわれてみると、自分は少し怒っているようだった。童話に出てくる裸の王様みたいなことをおばさんにいわれて、無意識のうちに腹が立っていたのかもしれない。
「案外、自分のことは自分では分からないもんよね。ところでさ……」
 お客様はそういって、いきなり話を変えた。
「この鳥かごの中に、なにがいると思う?」
 ぼくが、息をのんで押し黙ると、お客様は残念そうに続けた。
「マスターだったら、面白い答えを出してくれるんだけどねぇ」
 そういうことか。自分は、今度は大喜利のつもりで、頭をひねってみた。
「キ……キジですかね。あとはクマンバチ。山鳩……」
「あんまり面白くないわねぇ」
 ぼくの答えを一刀両断し、お客様はあくびをした。確かに、ぼくの回答はひねりもとんちもなく、全く面白くなかった。
「これはね、クジャクなのよ」
「クジャクですか。あの、羽のきれいな」
 話を合わせると、お客様は身を乗り出して目を輝かせた。
「そう。ちょっとだけ話を聞いてくれる?」
 お客様はそういって目を見開いた。

 お店の中が、大きく揺れ動いたような気がした。
 お客様は、まるで気にするそぶりも見せないで、変わらずに話を続ける。
「私はもともと雪国育ちなのよ。生まれは東京なんだけどさ」
「へぇ、そうなんですか」
「寒い場所で育つと、我慢強くなるんだってね。なんだか知らないけどさ」
「へぇ、そうなんですね。あ……」
 ぼくは、あんぐりと開けたまま、口がふさがらなくなった。
 お客様の姿が、時間を逆行したようにみるみるうちに若返り、小学生くらいの少女へと変わっていったからだ。

 お店も確かに揺れている。そして、少しずつ、ゆるやかに動きはじめた。
 ぼくはお店の外に目を向けた。
 並木道に沿った道路が、右から左に向かって、まるで列車の車窓みたいに流れて、ゆっくりと移り変わりはじめていた。
 さらに、今は午前1時半なのに、遠くから夜明けの日の光が差し込んできている。
「進級と同時に離ればなれになったあの子、今はどうしてるのかなぁ……」
 お客様は、見た目も声も少女なのに、話し方はおばさんのままだ。ぼくはお客様のほうと、お店の外の景色とを、交互に目で追った。
 外の景色は、トンネルに入ったかのように一瞬真っ暗になった。その一瞬がすぎると、店の外は、どこか馴染みのある田園風景へと変わっている。日差しが明るくなってきていた。まるで昼間だ。
「女学生のとき、画家になりたいと思ったんだけど、結局ならなかったのよねぇ」
 そう話すお客様の姿も、はじめは小学生くらいから、やがて中学生、そして女学生へと、ゆっくり移り変わっていく。
「本当にいろんな人と出会えたわね。かけがえのない人たち。親。親戚。近所の人。同級生。学校の先生。行きつけの駄菓子屋のおじちゃん。職場の仲間。夫。子供。孫。その他諸々……」
 そして、ぼくにこう尋ねかけてきた。
「あんただってそうでしょう?」
「そうですねぇ……」
 ぼくはお客様に合わせてそう返事をしたが、気持ちは目の前の変化に追いつくので精一杯だ。それに、まだ自分は大学生だから、出会いもまだこれからかもしれない。

 やがてお店は、徐々に傾きながら、動きをさらにゆるやかにしていった。
 外の景色は、どこかの住宅街の坂道を横から映し出している。まるでロープウェイに乗っているみたいに、新興住宅街の家々を見ることができた。
 と、ある一軒家の庭先で、お店は動きをストップさせた。
 そこに、バッグを手にした主婦らしき女の人が、立ち止まって庭先をじっとのぞきこんでいた。
「最初に見たときは、ホームセンターのペット売り場だったのよ。それはそれは見事なクジャクだった……」
 はっとしたように、お客様はぼくの顔を見た。
「ごめんね、ずいぶんと自分の話ばっかりしちゃって」
「いえいえ今さら……どうぞ続けてください」
 お客様はコーヒーのおかわりを頼んだ。
「私はね、ここのコーヒーの香りが大好きなのよ」
 お客様は目をつぶって、手にしたカップを鼻に近づけた。
「それを聞いたら、マスターがきっと喜びますよ」
 ぼくがそういったとき、またお店がゆるやかに動きはじめた。

「人はだれでも、だれかに必要とされる存在になりたいのよね」
 コーヒーを一口すすると、お客様はそういった。
「だれでも、だれかにとっての特別な『だれか』にさ」
 急に難しいことをいわれたような気がして、ぼくは眠たくなってきた。ぼくは込み入った話を聞いてストレスがたまると、睡眠に逃げる習性があるのだ。それにしても、自分にはまだまだ分からないことだらけだ。
「そうですねぇ……」
「あんた、友達いるかい?」
 気のない相槌をしたぼくに、いきなりお客様が尋ねた。
「まあ、そんなに多くはないですけど」
「その友達と、どうして友達になったの?」
 ぼくはすぐに言葉が出なかった。
「生まれてから死ぬまで、長くてもせいぜい120年くらいの間に、いろーんな人と出会ったり、あるいはすれ違ってきたはずよね。私もあんたも」
「まあ、そうですよね」
「共通の趣味があるからかね。それとも、単に近くに住んでいるからかしら。それとも……」
 お店の外は、だいぶ日が暮れて暗くなってきている。外の景色は、住宅街の坂道から平らの商店街へと移り、店の動きも傾きを元に戻してまた水平になった。
「どうなんでしょう。必ずしも、仲が良い友達と、趣味が合うとも限らないですしね」
 幼稚園時代、仲の良かった友達がアブラゼミを夢中になって食べている様子を急に思い出しながら、ぼくは答えた。その友達は、昨年久しぶりに会ったときにも、ゲテモノ食いがライフワークになっていると嬉々としてぼくに話してくれた。
「でも、なにかしら共通のものがあるかもしれないしね」
 お客様の姿は、元に戻りつつある。
「不思議よね。人と人の出会いってね。人だけじゃないけど」
 お店の動きが止まった。
 外の景色に目を向けると、そこは見慣れた車道に沿った並木道だ。元の景色に戻ったのだ。

「あの……。クジャクの話はどうなったんですか?」
 水を差すようで悪いと思ったが、ぼくはお客様にそう尋ねてみた。
「そうね……。たとえば、同じ時代に生きている人間が78億人いる中で、親しくなる人もいれば、疎遠になる人もいるでしょ」
 お客様の姿も、すっかり元の姿に戻っていた。
「私にとって、そのクジャクは特別なクジャクのように感じられたのよね。でも……」
 お客様は大きな息をはいた。
「そのクジャクは、ある日お店から姿を消してしまった。その代わり、私の住む家のすぐ近くにある、大きな家の庭先にいるのを見つけたの」
 なるほど、さっき坂道にいた後ろ姿の女の人は、こちらのお客様だったのか。ぼくは合点がいった。
 ということは、お店の窓は、こちらのお客様の人生の歩みを回想していたのだろうか。
「私のものになるかもしれなかったクジャク。でもほかの人のものになってしまったクジャク。でも忘れられない。それなら……」

 お客様は、鳥かごをあごで指し示した。
「飼ってしまったことにすればいい。あくまでも心の中で」
「心の中で……?」
 やはりこのお客様は頭がおかしいのだろうか。
 ぼくは眠気を冷まそうと、余ったコーヒーをカップに注いで口に含んだ。おじさんからは、店のコーヒーを1日1杯なら飲んでも良いと事前に許可をもらっていた。
「まあ、一種の妄想だろうねぇ。かれこれ30年前の話よ」
 お客様は、そういってにこやかに笑った。
「鳥かごだけ買ったんですか……。いないクジャクのために」
「そう。そうやって自分を落ち着かせてたのね、きっと」
 お客様はカウンターの上をじっと見つめている。
「そうでもしないと、気が狂っていたかも知れないね」
 ぼくは、そこまでそのクジャクにこだわるお客様の心理が理解できなかった。
 もしかしたら、このお客様は、クジャクにかこつけて、何か別のことを話しているのだろうか。
「あんた、ジャネット・リンって分かる?」
 お客様が、また唐突に質問してきた。
「いいえ、よく知りません」
「そう。じゃ、あんたが小学生の頃に読んで面白かった本は?」
 ぼくは困惑しながらも、考えた。
「えーと……『テーオバルトの騎士道入門』とか……」
「私はまったく知らない本ね」
 しばらくの間、沈黙がカフェの中を支配した。
「ほらね。共通の話題を見つけるのも一苦労よ。出会いって不思議でしょ」
 お客様はそういってまた笑った。

「とにかく、シンクロニシティっていうの? そのクジャクは代えのきかない、運命的なクジャクだったのよ。私にとってはさ」
 ぼくは、一見平凡な市民にしか見えないお客様の心の闇を覗き見てしまったような気持ちになった。
 でも、そのあとにお客様はこういったのだ。
「でも、もう手放そうって思ってね。それで今日、あんたんとこに来たわけよ」
 さっきまでのいたずらっぽい表情から一転して、お客様の表情は真顔に変わっていた。
「それは、どういうわけでですか?」
「それはね……」
 お客様は残ったコーヒーを一気に飲み干すと席を立った。

 お客様に連れられて、ぼくは鳥かごを持ってお店の外に出た。時刻は午前3時。
「可愛がっていた亀がこの前死んだの。もう40年買っていたんだけどね」
 外灯のそばに立ったお客様の顔は、妙に晴れ晴れとしている。
「名前は亀五郎よ。見た目はゴロツキみたいな亀だったけれども、もう家族同然だったから、うちの人が心底悲しんでねぇ……。私も悲しかったけど、もっと落ち込んでたわ、あれは」
 ぼくの手に預けられた鳥かごを見て、お客様は目を細めた。
「あんなに大好きだった競馬も競艇もパチンコもやめちゃうくらい落ち込んでたわ……。そんな様子を見て、クジャクよりも大切なものにようやく気がついたのよね」
 ぼくは、飼い犬のハッピーが息をひきとった日に、ぼく以上に母のほうが大声で泣き崩れていたことを思い出した。
「あんたんとこのマスター、脱サラしてカフェはじめたんでしょ?」
 今日のお客様は質問が多い。
「そうみたいです」
「勇気あるわよね。すでにある地位を手放したわけだから」
 そういって、お客様はぼくの手から鳥かごを受け取ると、話を続けた。
「だからあんたんとこに話を聞いてほしかったわけよ。まあ、あんたもじきに分かるときがくるさね、大切なものを勇気を出して手放さなくてはならなくなる気持ちを……」
 そして、鳥かごの鍵を開け、針金状のケージをゆっくりと開いていった。
「私のクジャク……。さようなら」
 そのときだった。
 いきなりばさばさっと羽を開く音が耳に響いてきた。
 外灯の明かりに照らされて、そこに現れたのは、それは、それは美しい1羽のクジャクだった。青、黄色、紫、赤、緑。その羽の色は、さまざまな色彩が絶妙なバランスで混ざりあっていた。
「おぉ……」
 お客様は、涙ぐみながら声をあげた。
「久しぶりね。わざわざ姿を見せてくれたのね。私のために」
 クジャクは羽を大きく広げて、お客様の顔を見つめた。そして、大きく羽ばたいた。

「あのクジャクにも、きっとまた会えるって信じてるのよ」
 クジャクが彗星のごとく夜空に消えていったあとで、お客様はぼくに話してくれた。
「でも、あのクジャクは、今日、自分から手放さなかったら、きっとまた会うことはできなかったわね」

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?