上馬さんこんにちは④

さて、近年は「ビートルズ'66 彼らが「アイドル」を辞めた年」という本を上梓している音楽ジャーナリストで作家・詩人のスティーブ・ターナーは、次のようなことを書いています。

クリスチャンが芸術の中でどういう風に製作をしていくべきかを考える際、五つの同心円を使って考察するとわかりやすいと思います。
この同心円の基軸となるのは、すべてのことに影響を与えるキリストの死とよみがえりの福音です。※
この中心的な基軸である福音は、重要であるがゆえに軽々しく扱うことを避ける必要があります。これまで述べてきたように、クリスチャンが必ずしも宗教的な作品を作る必要はありません。
(中略)アーティストの中には、この基軸の部分に関するアートのために召されていない者もいるのです。その一つの理由として、その人の扱っている芸術形態が、上記のような壮大なテーマを扱うのに向いていない場合もあるからです(中略)もちろんこういう題材を扱うことが全く不可能だとは言いませんが、軽い話題を扱うのに向いている、お笑いやコメディーという芸術形態によって人類最大の問題を取り扱おうとしても、うまく行かない可能性のほうが多いかもしれません(中略)もちろんここで、ジャンルの限界を超えて新しいことに挑戦するべきではないと言っているのではありません。芸術にとっての発展はいつの時代にも、それまで不可能とされてきたことをやろうとしたところから始まったわけですから。

(※……引用者注・144ページに著者による同心円の図形あり。
中央から順に、キリストの死とよみがえりの福音、聖書の主題にインスピレーションを受けたもの、聖書の教えが明確に示されているもの、神への畏敬の念を起こすもの、特定の世界観を示唆しないものと続く)

「イマジン 芸術と信仰を考える」本間かおり訳、いのちのことば社、2005年、143-145ページより

ここでターナーがあげた指摘は、お笑いによる福音宣教は難しいが、不可能とは言えないというものでした。
この邦訳が出版された10年後に、上馬さんはSNS伝道をはじめられています。

上馬さんは、お笑いによる福音宣教に成功した稀有なケースの1つといえるでしょう。

上馬さんのツイートは、「今日は何の日」「聖書雑紹介」「大喜利」など、実に多様で幅広く、どれもやさしいウィットとユーモアに富んだものが基調となっています。

その中で、ふざけ担当の方のはじけかたはある意味で天才といっていいのではないかと思います。

また、まじめ担当の方とふざけ担当の方の境界線が曖昧に感じられることもあります。

まじめとふざけの一致と調和、そのバランス感覚を支えているのは、聖書全体に貫かれる神の愛だと感じています。

ところで、クリスチャンでもある長谷川町子さんの師匠としても知られる田川水泡さんの「人生おもしろ説法」(日本キリスト教団出版局、1988年)のまえがきに、こんなどきっとすることがのっけから書かれていました。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」(テモテへの第二の手紙四章三ー四節)。
私が、笑い話と漫画で伝道を試みようという気になって、まずどこから手をつけようかと聖書を手にとって何気なく開くと、まっ先にとびこんだのがこの言葉だったのです。
(中略)私はハッと胸を突かれ、聖句を弄んでくだらなくふざけるんじゃないぞ、という神のおとがめの声のようにも思いました。

同書3ページより

しかし、水泡は続けてこう結んでいます。

おもしろおかしいに終始して、聖書の真実を曲げるな、というお告げだと思うので、パウロさんに心配かけないように気をつけて、神のみ栄えに奉仕したいと思いますが、どうもパウロさんににらまれているような気がしてなりません。

同書4ページより

こうして水泡は、神様の心を心配しながら結局ユーモア伝道にトライしているわけですが、上馬さんも、守るべきところはきちんと押さえて攻めている印象を受けます。

綱渡りで。

つづきます(※一部敬称略いたしました)

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