連作幻想譚[真夜中にゾウが来る]第1夜

初出 エブリスタ 2020年2-8月
連載時タイトル「真夜中のカフェ」一部改稿

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

 * * * * *

 ぼくは、これから自分がどの道に進んで行くべきか迷っていた。
 一応、自分の身分は大学生だ。ただ、いわゆる一般的な大学ではない。通信制の大学で、週に2度ほど、北千住にある学習センターに通ってはいたものの、それ以外は家でネットサーフィンにはまりこんだり、ときたま友達と会うなどのらりくらりとした毎日を送っていた。
「あんたの暮らしは、まるで退職老人よりひどいね」
 80才の祖母からそういわれるほど、ぼくの生活にはキャンパスライフとしての彩りがまるでなく、空いた時間は本屋さんに行ったり、近くの河川敷を散歩したりしながら、日々をやり過ごす。大学を卒業してからの進路は白紙だった。

 そんなぼくが楽しみにしていたのは、週に1度、おじさんのカフェに遊びに行くことだった。
 おじさんのカフェは、学習センターから電車で1時間ほどの距離にある、とある有名な大学通りのはずれにある。日に、お客さんは多いほうで3、4人。まだ開店して1年も経っていないから、そんなものかも知れないと思ったが、それにしても少なかった。
 ぼくは、毎週木曜日になると、そのカフェに行き、おじさんとお客さんの会話を楽しんでいた。
 店内は、場末のバーくらいの広さで、おじさんはカウンターでコーヒーを淹れているときもひっきりなしにしゃべり倒していた。
 自分も、その中でいつしかコーヒーの焙煎や、抽出の真似事を教えてもらった。

 そんなあるとき、おじさんからLINEが届いた。
「これから1週間ほど、お店を空けることになった。バイトを雇うお金はないから、良かったら店番をお願いしたい。」
 大学は夏休みに入り、アルバイトをする勇気もなかったぼくは、これはうってつけのチャンスだと思った。
 おじさんのLINEはこう続いていた。
「報酬は交通費のみ。また、時間は夜10時から明け方の5時までとする。」
 おじさんのお店は、深夜営業をしているとこれまで聞いたことはなかった。交通費のみはやむを得ないとはいえ、夜勤はけっこうきつい。
 でも……とぼくは思い直した。肉体労働ではないのだから、割合と楽かも知れないぞ。
 なぜ、おじさんが7日間も店を空け、どうして、大学生のぼくにお店の留守番を真夜中限定で依頼したかを疑問に思うこともなく、ぼくは軽い気持ちでおじさんの頼みを引き受けることにした。

 * * * * *

 1日目。おじさんから合鍵を預かり、お店のシャッターを開ける。
「なんか困ったことがあったら、またLINEしてくれ。じゃ、あとはよろしく」
 おじさんは、まるで登山にでも出かけるようなリュックを背負って、足早にお店を出て行った。
 時刻は午後9時40分。これから朝まで、お店の番をすることになる。
 自分の肩書きはインターンということになった。エプロンにも、一応名札がつけられている。
「まあ、一応君は食品衛生責任者の資格を持ってるから、肩書きは名ばかりでいいんだ」

 カフェの店番をはじめて4時間が経過した。シャッターを半分開けたままにしているせいか、お客さんはひとりも来ない。
 おじさんによると、なんでも今回は真夜中の臨時営業だから、あまりお客さんが沢山来てほしくないという。しかし、全然客が入らないのも困るから、シャッターは半分だけ……ということだった。
 まったくの素人に等しい自分に1週間もカフェの店番を任せるとは、おじさんも大胆なことをしたものだ。日頃から客が入らないお店だから大丈夫なのだろうか。
 それにしても……とぼくは思った。世の中には、深夜開いているカフェはいくつかあるらしいが、なぜよりによって、店主である自分の留守中に、甥のぼくをおじさんは寝ずの番に任命したのだろう。
 なにか裏があるのか……。ぼくは、なにかストレスや不安を感じると、眠気を感じたり、インターネットの世界に逃げ込む習性があった。
 ぼくは、ズボンのポケットに入れたスマートフォンを取り出すと、ネットニュース一覧を開いた。
《俳優○○、5股不倫騒動さらに愛人が発覚!》
《芸人××、生放送でしゃっくりが止まらず苦情殺到》
 いつものごとく、当たり障りのない記事見出しが並んでいる。
 ぼくは、政治家や芸能人のゴシップ記事を読むと、まるで自分が不祥事を起こした当事者みたいな気持ちになり、落ち込むことがある。それでも、つい読まずにはいられなくなるのだ。

 今日も自分は、人気タレントによる薬物事件の続報を読もうと、スマートフォンの見出しをクリックしようとした。そのときだった。
「こ~んば~んは~」
 野太い男の人の声とともに、お店のシャッターをどん、どん、とにぶく叩く音が店内に響きわたった。
 ぼくが自動になっていない自動ドアを両手で開けると、そこにいたのは、眠そうな目をした大柄なサラリーマン風の男の人だった。
「マスターは、今いる?」
「マスターはいません」
 ぼくが答えると、その人はカウンターの席に座り、マスクをはずしてからいった。
「じゃグァテマラを一杯」
 マスターがいなくても良いのか……とぼくは思いながら、すでに焙煎されたコーヒー豆の粉を取り出すと、おじさんに教わった方法でコーヒーを淹れはじめた。

 時刻は午前2時を少しまわった頃だ。
「前に一度、ここのマスターに道を聞いたことがあってね」
 そのお客様は、角砂糖を2つ、コーヒーの中に入れると、そういった。
「今度来たときは、お礼がてら、ここでグァテマラを飲もうと決めていたんだ」
 ぼくは、「はぁ、そうですか……」と相槌を打ちながら、その人の長い鼻を見つめていた。その鼻は、子供の頃、父に買ってもらって読んだ「怪物くん」というマンガに出てくる宇宙人に少し似ていた。
「でも、ずっと残業つづきで、なかなか昼間来られなくてね」
 コーヒーをすすりながら、お客様の表情がくもった。
「まさかこんな時間にやっているとは思わなかったよ」
 お客様の顔はだんだん赤みを帯びてきていた。
「俺は酒が飲めないから、居酒屋には行けないけど、コーヒーは好きなんだ」
「はぁ、そうなんですね……」
 ぼくは、初めてひとりで接客をしている緊張とは裏腹に、眠気と必死に戦いながらお客様の話を聞いていた。
「部長は俺が下戸だってこと知ってるから、飲み会にも誘ってくれなくなった。俺はいつもひとりぼっちだ……」
 そのとき、ぼくは思わず悲鳴をあげそうになった。お客様の顔が、むくむくとふくれあがりはじめたからだ。
「俺は家庭でも会社でも、どこでも本当の自分を出せないんだ」
 もし自分がヤンキーだったなら、「お前何者なんだよ」とわめきたくなるような光景がそこには広がっていた。
 コーヒーを片手に話し続ける、スーツを着た長鼻で体の大きなお客様は、スーツを着たゾウに変身していたのである。

「俺はいつも孤独なんだ……」
 赤みがかった顔で、変わり果てた姿となったお客様は、コーヒーを口に運んだ。その手は、かろうじて人間の指の形をとどめているように見えた。
 ぼくは、自分が夢を見ているのかもと思いながら、店の外をちらりと見た。
 そこには、いつもと変わらない並木道と道路が、街灯に照らし出されている。
 そこに、ぬっといきなり大きな影が現れた。
 ゾウだった。
 ゾウは、半分開いたシャッターのそばに顔を向けると、長い鼻でお店のドアの窓ガラスをつん、つんとつついた。
 入れてくれということかな。ぼくは、ゾウに変身してしまったお客様に「ちょっと、すみません」といってから、お店のドアを開けに行った。
 本物のゾウは、子供と大人の中間くらいの大きさだった。

 いくらだれもが寝静まった真夜中の時間といえども、都内の路上をゾウがうろついているなんて話は今まで見たことも、聞いたこともない。どこかの動物園から逃げ出したのだろうか。それとも、サーカスの公演から抜け出してきたのか?
 万が一、走っている自動車や自転車とぶつからなくて良かったなと思いながら、ぼくはそのゾウを店の中に迎え入れた。
 ゾウに変身してしまったお客様は、カウンターの上に頭を抱えこんだまま、まるで酔っ払いのように泣き声をあげていた。
 不思議なことに、そのときのぼくは、突然やってきたゾウに対して恐ろしさはあまり感じず、ゾウに変身したお客様に対しての恐怖心や不安な気持ちも消えてなくなっていた。

 ゾウは、カウンターの近くにゆっくり、ゆっくり近寄っていくと、メニュープレートを長い鼻でつん、つんとつついた。
 ゾウの鼻はちょうどカプチーノの写真を指し示していた。
「いらっしゃいませ。カプチーノね……。ちょ、ちょっと待ってね」
 ぼくはあわててカウンターの中に戻ると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
 出来上がったカプチーノを、ゾウの前に差し出した。ゾウは、嬉しそうに鼻を持ち上げると、慎重にカプチーノの上に鼻を寄せていき、浮かんでいるミルクを吸い上げていった。
 まるで猫のようにのどをゴロゴロ鳴らしながら、ゾウは満足そうに目を細めた。
 一方、ゾウ人間のお客様は、ゾウがいることにまるで気がつかないようすで、ずっと同じ姿勢で固まりながら、うわごとをつぶやき続けている。
「俺にはどうせ居場所なんかないんだ。俺は下戸なんだ……」
 ぼくは、そのようすを困惑しながらも、少しいらいらしながら眺めていた。
 居場所は、ここにあるじゃないか。カフェはもともと、人と人の憩いの場として作られたんだ。この人は、勝手に自分はひとりだと思い込んでいるけど、そうやってまわりを無視しているから、みんなから距離を置かれるんじゃないのか。うちの店に来ておいて、なにがひとりぼっちだ……。
 ぼくは、よっぽどそのお客様に「あなたは孤独じゃありませんよ」と声をかけようとして、口を開きかけた。そのときだ。
 お客様の隣でカプチーノを飲み干したゾウが、ぼくの言葉を制止するように、やおら動き出すと、ゾウ人間のお客様に近寄っていって、そのそばにぴたりと寄り添った。
 そしてつぶらな瞳でお客様の顔をまじまじと見つめながら、その長い鼻をお客様の頬に押し当てたのだ。
 いつの間にか、店内に流れていたBGMは消えていた。
 ゾウは、ゆっくりと目を閉じると、口をゆっくりと開け、低い声で鳴き声をあげた。
 そのとき、ゾウの目から、涙のしずくが一粒こぼれ落ちると、お客様の持っているコーヒーの中にポチャリと落ちた。

「なんだか腹減ったなぁ……」
 ゾウ人間のお客様が、ぽつりとつぶやいた。
「なんか甘いものを出してくれないか」
 それを聞いて、ぼくは困った。
「すみません、うちは食べ物は扱ってないんです」
 ぼくがそういうと、お客様の顔色が変わった。
「なにい? ないだと? なけりゃ買ってこいよ」
「そんな……。こんな真夜中ですよ」
 お客様の顔はだんだんと険しさを増してきた。
「お前、さっきから適当な相槌ばかり打ちやがって。仕事を甘く見てるな。こっちはさっきから気づいてるんだよ」
 お客様の顔を真正面から見ると、ぼくはどうしても「怪物くん」に出てくる宇宙人を想起してしまう。しかも、今や本当にゾウの化け物になっているのだ。その姿のまま、真剣な顔でなにかいわれても、滑稽にしか見えない。ぼくはその顔を見て思わず吹き出しそうになった。
 ふと、お客様に寄り添うゾウの視線に気がついた。
 ゾウは、悲しそうな顔をして、その目でぼくに「いけないよ」と語りかけていた。
 その目を見て、ぼくは、去年の春に息を引き取った、飼い犬のハッピーという豆柴のことを思い出した。
 ハッピーは、ぼくが一時期、学校に行けなくなった、小学2年のときから我が家で飼っていたオス犬だ。なにかを訴えるとき、いつもハッピーはぼくの瞳をまっすぐに見つめながら、声にならない声を発していた。

 ぼくは、「なにか困ったことがあったらLINEしてくれ」といっていたおじさんの言葉を思い出した。
「すみません、ちょっとお待ちください」
 そういって、ぼくは奥の部屋に入った。
 そこでスマートフォンを開くと、新着LINEの知らせが届いている。それはおじさんからだった。
「今、飛行機で仁川空港に向かっている。機内では、軽食を楽しんだり、音楽や映画を鑑賞してゆったりと寛ぐ予定だ。
なにか困ったことがあったら自分で対処すること。以上」
 おじさんのLINEには、音符マークの絵文字も添えられていた。
 ぼくは、宙を見据えると、しばらくなにも考えることができなかった。
(神様……ぼくはどうすればいいんでしょう)
 ぼくはお祈りするしかなかった。
 ふと、お店のすぐそばの交差点に、「九時五時」というコンビニがあったことを思い出した。
 ぼくは、カウンターに戻ると、お客様に声をかけた。
「甘いものを買ってきます。どんなものがいいでしょうか?」
「アイスでもスイカでもなんでもいいよ」
 それを聞いて、ぼくはお店を飛び出した。

 ぼくは、お店を出て我が目を疑った。
 お店の中から見る外の景色は、車道に沿ったふつうの並木道なのに、外に出たとたん、そこは密林に変わっていたからだ。
 ゾウ人間のお客様を慰めていたゾウが、いつの間にか一緒についてきていた。
「こっちだよ」と手招きするみたいに、ゾウはまっすぐ密林の中を進んでいく。ぼくはそれについていくしかなかった。
 真夜中の密林は、意外と涼しかった。

 密林を歩いていると、かすかな光が見えた。
 九時五時が、そこにはあった。まるでアフリカの砂漠で、道に迷ったときに見る蜃気楼のようだ。でも、本物の九時五時だった。
 店内に入ると、店員が「っしゃいませー」と声を出した。よく見ると、半分寝ているようだ。ゾウがレジのそばを通っても、店員は目を半開きにしたまま固まっている。
 ぼくは、急いでアイスコーナーから抹茶モナカを取り出すと、お店のレジで会計を済ませた。
「りがとっしゃー」と店員はいった。どうやら「ありがとうございました」といいたいみたいだった。

 カフェに戻る途中、ゾウはぼくの横に並んで歩いた。そして、何度もぼくのほうを向いて、ぼくに目で語りかけた。……ように感じた。
「あのお客さんの顔を見た?」
「うん、見たよ」
 ぼくは心の中で返事をした。
「あの人は、とても傷ついているんだよ」
「そうみたいだね。でも、だれでもそういうところはあるんじゃないかな。それに、あのお客様は、心の傷を愛おしく感じているみたいだったよ」
「……」
「心の傷を愛してはいけないでしょ。心の傷は治さないと」
 ゾウは、答えていった。
「そうだね。でも、心の傷を治そうとする前に、やらなくちゃいけないことがあるんだよ」
 ぼくは、間もなくカフェの前に着こうとする前に、立ち止まって、ゾウに声を出して尋ねてみた。
「やらなくちゃいけないことって?」
「その人を理解してあげることだよ」
 ゾウも、なんと声を出して答えた。人間の言葉でだった。
「その人の痛みや苦しみを分かってあげることだよ」
 ぼくは、その通りだと思った。でも、少し悲しい気持ちになりながら、ぼくはいった。
「うん、でも、人の悲しみを、完全に理解することは、人には難しいんじゃないかな……」
 ゾウは、今度は目で会話をした。
「そうだね。それでも、分かろうとすることはできるよ」
 ゾウは目で答えた。
「分からなくても、理解しようと試みることはできるよ」
 ゾウは、そのまま密林の奥にある路地裏のほうに消えていった。

 ぼくがカフェに入ると、いつの間にかお客様は人間に戻っていた。
 そして、差し出した抹茶モナカを喜んで食べると、コーヒーのおかわりを注文した。
「さっきは、腹が減っていたから、腹を立ててすまなかったね。俺は腹ペコになると気がおかしくなるんだ」
 ぼくは、お客様の満足そうな顔の中に、かすかな寂しさがあるのを感じ取った。
「こちらこそ、うまく対応できなくてすみません」
「いや、いいんだ」
 お客様は、まるで自分に言い聞かせるようにいった。
「いいんだ」

 気がつくと、お店の外は明るくなってきていた。
「お会計、釣りはいらないよ」
 お客様は、5000円札をひらひらとカウンターの上に置くと、席を立った。
「い、いくらなんでも、多すぎですよ」
 ぼくがお札を返そうとしたが、お客様はいった。
「いや、いいんだ」

 お客様が帰られたあとで、ぼくはお店のシャッターをおろすと、鍵をかけた。
 お店の外は、元通りの車道に沿った並木道に戻っていた。
 そのとき、朝日が、自分の頬を優しくなでるようにいきなり差し込んできた。目の前に広がる太陽の光を見ながら、ぼくは、目には見えないけど実在する神様から頬をなでてもらったように感じた。

 この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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