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人はなぜ生きているのか、そして生きることの意義。~すっごい考えた結果~

人はなんで生きているんだろうと、誰でも考えたことが一度はあると思います。私もしんどい家庭環境や自分自身の鬱、ADHDなどの生きづらさを抱えて生きてきたので、物心ついた頃からずっと考えていました。(この先を読んでくれる方に事前にお断りしますが、私はスピリチュアル系でもポエム系でも宗教系でも意識高い系の自己啓発系でもありません)

誰に聞いても、本を読んでも、答なんてありませんよね。でも私は自分が生きている意味もわからないまま生き続けることはどうにも納得できず、本当にずーっと考えていました。そして自分なりに見つけた答が少しでも誰かの役に立てばいいという気持ちでこれを書きます。

科学はものすごいスピードで進化して、もしかすると近い将来には映画のようにクローンの人間が創られる時代も来るかもしれません。でも、少なくとも今現在、人は人の身体からしか産まれてくることができません。そこにきっと一つのヒントがあるのだと思いました。

ここで例え話をします。誰も人間がいない無人島で、1本の気が倒れたとします。その木は倒れたことになりますか?
物理的には木は倒れました。ただその事実を誰も知ることがなければ、その木は倒れたことにはなりません。新な木が芽吹いた時も同じです。

しかし前述したように、人は人の身体からしか産まれてこない。つまり生まれたことを誰にも知られないということは、基本的にはあり得ません。すると新たな命の誕生は、まず母体に影響を与えます。新たな命を抱き上げた母の感情は、出産に立ち会った医師に、または父となった家族に影響を与えます。その父に及ぼした影響は、父の生き方、行動、心に影響を与えるでしょう。そしてそれは例えば友人、会社の同僚などに伝播し、少しずつですが社会に影響を与えます。

それは残念ながら母体の中で命を失い、名前もないままに亡くなっていった小さな命でさえも同じです。小さな命を失ったことは、母親の心境に間違いなく影響するでしょう。その後は同じです。母の悲しみは、その周囲の人々に伝播し、波紋は広がるのです。

つまり人が生きる、生かされている意味は、「互いに影響を与え合うこと」だと言えると思います。

よく「無駄な命などない」という言葉を耳にしますが、それは良い意味でも悪い意味でも、自分が誰かに影響を与える存在だからです。

では生きることの意味から、意義について話を移しましょう。

人は生きることで誰かに影響を与える。そのせいでしょうか、人には自我というものがあります。人が人との関係を完全には切り離せないものであるがために、人との比較が生まれ、自分の絶対的な価値とは別に「相対的な価値」が生まれます。そのため、「人からどう思われたい」「価値のある人間だと思われたい」、そういった感情が自我の一つです。

「ただ誰かに影響を与え合って生きること」だけのの暮らしは、自我が許さないでしょう。誰かに与える影響をいかに大きなものにできるのか。それが自我が産んだ人々のモチベーションであり、生きる意義となります。

産まれて死ぬ。その過程で何かを成し遂げたい、だからこそ人は誰かを愛し、自分が生きた証としてまた新たな命を残すのではないでしょうか。

ある宗教家は、「煩悩こそ人を不幸にする根源」だと言います。だからこそ煩悩から離れて「解脱」するため、修行をしたりするのでしょう。
それを否定するつもりはありませんが、本来人間というものは本能として煩悩を持っているもので、自我とは切っても切り離せないものだと思います。

こうして世界中の皆が例外なく幸せを求めている訳ですから、生きることの意義を追求する上で、当然不幸は起こります。それでも苦しみ、あがいて生きたこと自体、その瞬間から誰かに影響し合っています。
どうせ生きるならば、その影響をプラスの方向に転じて行きたいと私は思います。
そしてそんな生きる意味、意義を考えながら、私は今日を生きています。


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