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「失われた30年」を経た、令和からの日本に必要だと思うモノ

コロナになってから、早くて一年になろうとしている。
2020年を通して、日本社会のシステムは大きく変わったように見える。
...けど、最近いまだに「まだこうなのかぁ」と思ってしまうこともある。

デザイン学校に通っている中、講師の人が紙製の出席カードを集めてハンコを押してたり、休学願をPDFで送って済んだかと思うと「紙で郵送してくれますか?」となったり。

電子化すれば一瞬だし、データとして集計/分析だってできるはずなのに、なぜいまだに...? 都心部の"デザイン"学校なのにな... と思ってしまう。
同時に、やはりこれは日本組織特有の問題なのか、と感じ出し。

おそらく、デジタル化を統括して推進できる人がいないのか。
あるいは、アイデアがあっても、この「何が正解かもわからない」状況の中で、
意見を言いイニシアチブを取ることに、躊躇いがちなのでは?という気がしてくる。

よりマクロ的に見たら、この事象は平成から令和を辿った日本の停滞をも説明しうるんじゃないか、とも。令和以降に生きる身として、これは深く考えておいた方がいい課題な気がしてきたので、今の自分なりに答えを見出したいと思う。

結論から言うと、
自分が今の日本社会に必要だと思うのは「透明化」と「情緒的信頼」だ。
その前にまずは、時代の変遷から見ていきたい。

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平成から令和へ - 失われた30年間

そもそも、平成とはなんだったのか?
メディア評論家の宇野常寛さんは、
平成とは「失敗したプロジェクト」であると言った。 (「遅いインターネット」)

その理由のひとつに、
「21世紀的情報社会への転換」を果たせなかったことを挙げている。

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(ダイヤモンド・オンラインより)

世界時価総額ランキング (企業の価値をはかるもの)の推移を見て分かるように、平成元年は世界50社の中で日本企業が32社も入り組んでいた。

NTTドコモを筆頭に、金融機関や製造業。
先月亡くなった、ハーバードの社会学教授であるエズラ・ヴォーゲルが言ったように、日本はかつて「ナンバーワン」だった。


しかし、はや30年。
かつて上位入りしていた日本企業32社は1社(トヨタ)だけを置いてことごとくランキング外に追いやられる。代わりに、GAFAMを始めとしたITプラットフォーム企業が独占するように。

その勢いは計り知れない。GAFAMのたった5社を合わせるだけで日本のGDPに相当するし、日本の上場企業2170社の合計すら上回る。Google・Facebook・Amazonに至っては、コロナ禍の中ですら過去最高益を更新するほど。なぜ、ここまで差がついたのか?

デジタル化。

Googleの検索履歴や、Amazonでクリックした商品、Facebookで読む記事。
Appleが世界に広めたiPhoneを通して、世界の何十億人ものデータが毎秒蓄積されていく。ここまで人間の行動を量的に把握できる存在は、神のよう。

フランス人の友人が言っていた。「現代人のBible(聖書)はGoogleだ。なぜなら、人生でわからないことはみんなそこに聞くからね。」

膨大なデータをもとにした、個別最適化のアルゴリズム。
ひとりひとりの趣味、嗜好、性別、職業、年齢、国籍、人種、言語、政治思想、帰依している宗教、好きなドラマ、友達の種類。
全部組み合わせて、あとはAIが勝手に"マッチング"させてくれる。
これが、広告収益になり、レコメンドされた商品の購買につながる。

今じゃ、Disneyもリストバンドを作って、観客の位置情報から行動までを把握した上でビックデータの分析をしようとしてるし、
Netflixも俳優の選考からテーマ決めまで、視聴者のセンチメント分析をもとにした"データから" ドラマを作っているのも、知られている。(ちょうど今日ニュースを見て、会員数も2億人! 突破したらしい...)

夢の国やエンターテインメントさえ、
「デジタル化」のプロダクトになりつつある中。
日本の企業はどこまで取り組めているのか?

長年、"勘" をもとにしていた時代は、よかったかもしれない。
腕が直接ものを言う職人芸では、いいのかもしれない。
でも、それでは「データの神」に敵いようがない。
それがここ30年、「21世紀的情報社会への転換」に失敗したツケであり、
後塵を拝することになる理由だった。

同時に、もうひとつ関連して思うことがある。
「デジタル化ができなかったのもそうだけど、それを通して透明化(transparency)ができなかったことにも問題があるんじゃないか?」

そう思った背景に、今の時代が"不確実性"に苛まれていることを述べたい。

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"不確実"な現代

漫画「進撃の巨人」が好きで読んでいたけど、
それが流行った背景として、おもしろい論考があった。

2011年といえば東日本大震災の年であり、日本が抱える構造問題や閉塞感、現実のままならなさが浮き彫りになった年である。もちろん、『進撃の巨人』そのものは震災や津波を扱っていないし、現代社会がテーマなわけでもない。ただ、この作品が持つ「閉塞感」「ままならなさ」は、まさに震災以後の日本の空気にそっくりだ。

この漫画は2009年10月からスタートして、2021年に完結する。
言い換えると、2010年代を象徴する作品として読むことができる。

2011年はちょうど、大震災とともに福島原発事故が起きた年。
翌年には民主党政権もあっさり交代し、自民党による一強政治が続くことに。
無党派も多い中、どことなく無力感に支配された時代だったのでは、と。

ライターの染宮さんは、進撃の特徴のひとつに
主人公側の勝利が圧倒的に少ない」ことを挙げている。

苦闘はするも、仲間と協力し、なんとか最後には勝利を掴む「ワンピース型」の少年漫画とは違い。主人公側はどんなにがんばってもほとんど勝てないし、仲間もあっさりと死んでしまう。

そんな敵側として描かれる「巨人」が、現実社会の不確実なリスクを象っている、という見方がある。先ほどの原発を始め、爆発事故、飛行機の墜落、パンデミック、核兵器、テロ。

社会学者ウルリッヒ・ベックは、こうした"リスク"を抱える現代を評して、
危険社会」を著している。

2020年は、まさに象徴的だ。
イランでウクライナ機が墜落し、乗客全員が亡くなった。
レバノンの港で大爆発が起こり、瞬時に数千人が負傷した。

そして、コロナのパンデミック。
全世界中に広まり。感染者数は一億人に迫りつつあり、死亡者も200万を越した。

たった一年で、これだけの"事故"が起きた。
「コロナさえ終われば」と今は思うものの、他のリスクが今後襲ってこない保証は、どこにもありはしない。テロが起きるかもしれないし、気候変動の限界が生じて生態系がいつ破壊されるかもわからないし、核ミサイルがどんな間違いで降ってくるかも分からない。

家族や友人。あのとき別れたことを機に、もう最期になってる可能性もある。
気がついたら死去の報せが届き。もうその人は骨になり、灰になっていた、なんてことも(進撃の世界で、人があっさり死ぬように)。

不確実性」。

自分が思うに、高度経済成長型の時代においては、日本の組織は「ワンピース型」でうまくやれていたけど、不確実性に支配された「進撃型」の現代においては、とても柔弱なのでは、と。

実例としては、直近の「マスク配布」や「GoToトラベル」の混乱がそうだし、
先ほど触れた2011年の福島原発においても、そうだった。

当時の菅(かん)総理の直属で、内閣府広報官として働いていた下村健一さんが、そのときの様子を間近に捉えている。

それにしても、政府として発表できるに足る確度の情報のあまりの少なさに、漠然とするばかりだった。とにかく、元のデータがまずわからない。確定なのか推定なのかわからない。...そうした現実に直面して痛切に感じたのは、「まだこんなによくわかっていない技術を、現代社会は使っていたんだな」ということだった。

...そういう状況を一言に凝縮して、枝野さんが長官会見で臨んだ言葉が、「直ちに影響はない」という、あの言い回しだった。これも後から、世間にずいぶん批判されたが、ならばどう言えばよかったのか。(p.140-141)

「直ちに影響はない」という言葉が批判されていたのは記憶にあるけど、
政府は本当に「何が正しいか分からずに」いたらしい。それでいて、間違った情報を迂闊に伝えるわけには行かず、曖昧な表現にせざるを得なかった、という。

...実際、例え一国の総理大臣とはいえ、突然起きた事故に対して「全て説明してください」と聞かれて、専門家でもないのに答えるのは至難だと思う。

当時、総理官邸には専門家(東電や原子力安全委員会の幹部)がいて、菅総理に助言を行っていた。でも、「爆発事故は絶対に起きない」と言い、安全神話に囚われてしまっていたらしい。

専門家ですら間違う。これは、何に因るのか?

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日本組織的なモンダイ - "空気" に "忖度"

太平洋戦争が泥沼化したのは、"空気"が支配したからだ、と。
日本人がグループになったときに生じる、あの特有の現象から、山本七平は論考を書いている。

"空気"は絶大な権威を誇っていて、戦争という最もシリアスな場面から、大学でのグループワークまで、日本人が複数になったときの動向を「なんとなく」支配してくる。

"専門家"同士の間も、例外ではなかったのでは、と思う。
「爆発は起きない」と断言しつつも、原発事故が起きた際には極端に萎縮してしまった幹部の人たちの様子を、下村さんは記している。

菅さんは目の前の斑目委員長に言った。「爆発しないってあんなに言っていたじゃないですか......」斑目さんは、無声音で、「あー... ... 」と呻くと、両方の手で頭を抱えて前屈し、しばらくそのまま動かなかった。クサい演技のドラマの中だけでなく、現実の世界でも人間はこういう時、こういうポーズを本当に取るのか、と僕は茫然と見つめるしかなかった。

事故前から真剣に爆発の<可能性>を考えていれば、同じ道筋はわかったはずではないか。...原発安全神話に専門家自身がすっかり洗脳されてしまい、真剣な想定をしてこなったことの証ではないか。(pp.146-147)

「まぁ大丈夫だろう」 という、根拠はないけどそれらしい"空気"に浸り続ける。そんな中、いざ"不確実な事態"が襲ってきたとき、人は(専門家といわれる人たちでさえ)、極端に鈍くなる。誰かがイニシアチブを発揮する勇気も持てず、意思決定も曖昧なままになる。

「GoToやマスクって、いったい誰がどういう経緯で進めたのか?」
原発事故から10年近く経とうとする今においても、
コロナという"不確実性"への対応の仕方に出ているような。
よくはっきりしない。それこそ、"空気" によって決められているような。

また、時を同じくしてか、"忖度"という言葉も近年流行していた。

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(Google Trends. 「忖度」の検索頻度。2017年あたりから急増している)

誰が、何の意図を持ってやろうとしているのか。
組織の意思決定が、何によって決められているのか。
秘匿されていること。隠されていること。曖昧になっていること。

だからこそ、"透明化"が最も求められているのでは、と思う。

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今、日本に必要だと思うコト1 - "透明化"

"コロナ"という不確実な現象に対して、成功を納めている国から学べることがあるのでは、と思い。台湾のIT相・オードリー・タンさんの著書に行き着いた。

その中で特に印象的なのが、彼が最も大切にしている"透明性(transparency)"だった。

性格は温和なダンだが、その存在は逆に、「過激な透明性(radical transparency)をもってオープンガバメントの模範を示している。着任後、毎日の部門スケジュール、毎回の会議の書き起こし原稿、毎回のインタビューの内容、毎回の訪問者との会話は、中国語か英語かに関わらず、すべて業務記録のサイト上に公開し、誰でもパスワードなしで全文検索できるようにしている。(p.5, オードリー・タン 天才IT相 7つの顔)

メディアの取材やイベントの応対に際しても、「内容をすべてインターネットで公開すること」を、主催者側が受け入れることを条件にしている、という。

彼がそこまで透明化にこだわっているのは、2014年のひまわり革命に参加していたときからだったという。台湾と中国との不透明な貿易協定に不信感があり、国会を占拠している間、ネットでライブ配信をしていた。「すべてを公開する」ことが信条だったし、政府の中枢に入っても変わっていない。

このことがすごく衝撃に思う反面、今日本で行われている「デジタル庁の創設(どこか上から決められている感があるような)」とは次元の違うものを感じさせられた。

もちろん、冒頭で述べたような GAFAMのように「データ活用をする」というニュアンスでのデジタル化も必要だと思うのだけれど、何よりデジタル化の本質は「国境や権威というものを超えて、様々な人々の意見を広く集めていることに優れている (p.3, オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る)」。

としたら、組織を巣食う"空気" や "忖度" に代わって、デジタル化が "情緒的信頼" を醸成できるのでは、と。

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今、日本に必要だと思うコト2 - "情緒的信頼"

"信頼"という言葉には、二つニュアンスがあると思う。
無機質な信頼」と「情緒的な信頼」だ。

まず前者については、社会学者のアンソニー・ギデンズが言った「信頼」をもとにしたい。彼が言った「信頼」は、そのまま近代を特徴づけるものだった。

ざっくり言うと、「拡大化した時空間の隅々にまで当然そうなるであろうとの期待を保証すること (p.44)」である。何を言っているのか、と思うけれど、こういうことになる。

例えば、"お金"という価値は、普遍的に保たれている。今1,000円を持っているけれど、8ユーロや10ドル、といった風に 国を超えてもその価値は交換できるし、「保証」されている。思想的に右派であろうが左派であろうが、宗教を信じていようが信じていまいが、みんなこのルールを(基本的には)守っている。このこと自体に、まず圧倒的な「信頼」があるといえる。

また、もうひとつの例は"専門家"。地球温暖化が起きているかどうか。加工食品は体に悪いのか。睡眠はなぜ7~8時間取った方がいいか。ある複雑な事象を通じての一致した見解が求められ、研究され、国際的にも学会が開かれたりする。普通の人が自身で直接認知するのにハードルが高いため、この「信頼」を当てにする。

しかし、原発の事故で見たように こうした"専門家"でさえ、"不確実な時代"においては無力であり、敗北しうる。コロナがいつ収束するのか。誰にも理解し得ない。医学の専門家ではあっても、社会心理の専門ではないし、公共政策の専門でもないため、"何が正解か分からない" 中で確実なベストアンサーを出すのに窮する。

"空気"が力を持つ土壌も生じる。"忖度"も起こりうる。
下手に動いて、責任を負わされたくない。そんな風潮が、生まれ得る。

なぜそうなるのかといえば、それが"無機質な信頼" 止まりだと思うからだ。専門家や紙幣を信頼するのは、別に応援したいからでもなんでもなく、ただ"当てにした方が役に立つだろう" という、ドライさにある。

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だから、不確実な今において "情緒的な信頼" が求められるのでは、と思う。

またしてもオードリー・タンさんの著書からだが、彼は日本の哲学者・柄谷行人さんからの「交換モデルX」という考えから大いに影響を受けた、という。

ざっくり言うと、「不特定多数の人々を対象としつつ、家族のように何か手伝いを必要とすれば、見返りを求めずに助ける(p.96)」という交換モデルだ。

「顔のある人に無償で分け与える」のが家族で、
「顔のある人に見返りを求めて交換する」のが国家/政府で、
「不特定多数の人と見返りを求めて交換する」のが市場で、
不特定多数の人に対価を求めず、無償で分け与えようとする」のが交換モデルX。

より多くの人のため、積極的に自身の知識や経験を共有し、その過程で相互信頼が積み重なっていくこと、と言い換えられるかもしれない。

彼が取材やインタビュー、イベント、訪問者との会話、毎回の会議を全て可視化している姿勢が、それを具現していると思う。どんな人でもインターネット上でアクセスし、活動や発言歴を確認することができる。

デジタル化とも併せた"透明化"を徹底して行うことで、"無機質な信頼"にしか担保されない組織内部での"空気"や"忖度"を排除し、風通しを良くする。そこから"情緒的な信頼"を醸し出していく。

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「ヒトゴト」から「ジブンゴト」へ

言い換えると、いつまでも「ヒトゴト」でしかないものを、どう「ジブンゴト」にデザインしていくか。これが最も問われているのだと思う。

"空気"や"忖度"に支配された組織は、「ヒトゴト」でしかない。早く会議終わらないかな。自分の関わり方は最小限にしたい。誰か指揮ってくれよ。なんでこんな面倒なことやらないといけないの? 誰がこんな決断したの? 見えない

これを"情緒的信頼"にする。"透明(=見える)化"によって。「ここのグループ体制って、資料見た感じ今これが課題なんじゃない?」「私ならこのノウハウあるから協力するよ」。

去年、「#検察庁法改正法案に反対します」の運動がツイッター上で盛んになった。著名人も多く交えて、累計400万ツイートほどにも上ったという(諸説ありそうだけれど)。

その背景のひとつに、与党の一強もあるけど、単なる政権批判というよりも、
これ以上「不透明な中で重大事が決められつつある空気」に対して、息苦しさからのガス抜きを求めた事象でもあったのかな、という気がしている。

新しい総理大臣も、気がついたら誰かに勝手に決められている。GoToは誰が言い出したのか。マスク配布はなぜ政策として行われたのか。学術会議の任命拒否とはなんだったのか。

プロセスが見えない。だから不信感が生まれる。
「ヒトゴト」の世界になる。

対して、コロナ対策に成功を収めた台湾では、いかに「ジブンゴト」にさせるかを徹底的にこだわったと思う。デジタルを通して。vTaiwanというオンライン上のプラットフォームで、市民や利害関係者、行政の人らが意見を交流し合い、法整備へ向かわせるシステムも生まれているらしい。

マクロでは、政治もそうだし。
ミクロでは、今自分が属している組織、グループ、団体において。
意思決定や意見のやり取りなどは、どれくらい「見える」ようになっているか?

大学や学校、企業。「なんか勝手に決められていて気持ち悪いな」と感じたこと、ないだろうか。あるいは、生徒のいじめがあったことを隠したり、「これってパワハラ/セクハラなんじゃないかな」的に思ったことも黙って呑み込むしかなかったり。

不透明で、クローズドで、淀んだ空気。
それが日本的組織の"停滞" を生んだ遠因にもつながるのでは、と。
データ活用ができなかった面でのデジタル化もそうだけど、
透明(見える)化を促すという意味でのデジタル化にも、遅れを取ったこと。

だとすれば、風通しを良くすること。
意思決定・収集の過程をオープンにする。なぜその結論にたどり着いたか、誰の意見をどうとり入れてそうなったのか。

そのことが"情緒的信頼(不特定多数の人にも自ら貢献したいと思える風潮)"を少しずつ生み、令和以降の日本型組織において求められていくことじゃないかな、と感じている。

そのプロセスで、私たちは人々の間にある共通の価値を発見することもできます。共通の価値があれば、「今日はその価値を達成しなければならない」と思い、「その実現のために努力を惜しまない」と決めることができます。
(pp.158-159 オードリー・タン / デジタルとAIの未来を語る)

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