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2023年。大学の雰囲気がだいぶ変わった。

コロナ後のリモートと、ChatGPT。
この二つが浸透し始めたせいか、私が今通う大学院(ベルギー)での講義も、だいぶ雰囲気が変わったように思う。

学生: 出席しないのがスタンダード?

とある講義で、グループワークの課題が出た。メンバーはランダムに割り当てられ、3人の女の子と一緒だった。全員で一度顔合わせをしようと、授業前の時間にカフェで待ち合わせる。どんなプロセスで進めていくか、テーマをどうしていくか…。トントン拍子に話は進み、雑談も交えながら打ち解けていく。

特に問題もなく、授業時間が近くなってきたため、そろそろ終わりにしよっか、というムードに。それじゃみんなで講義室に向かうか…と思っていたら、なんと自分以外の3人とも「今から別の用事があるので行かない」とのこと。

実際、行かなくてもパスできる。成績の100%は、グループワークの成果だけで決まる。その告知も初回の講義で既に終わってるし、最終締切日までに提出すればいいだけ。としたらその間の、長文プレゼンを聴いているだけの隔週講義はスキップしても問題がない。

ぶっちゃけて言えば、今までも大学での講義といえば、そんなものだったかもしれない。初回の講義日だけ満杯で、徐々に人数が減っていき。期末試験の最終日だけ一気に盛り返す。

でもそうした「講義のスキップ」が、よりナチュラルに、罪悪感もなく行われているように感じた。ひとりの子は街のミュージアムに行き、もうひとりの子はハッカソン (プログラマーのためのイベント)に参加するという。いずれも講義が行われる同時刻に、だ。

その講義はというと、正直なところ(厳しい言い方かもしれないが)教授の教鞭が著しく上手でなかった。理論重視で長文だらけのスライドと、遅れてやってくる教授の読唱。視覚と聴覚とでばらばらに入ってくる情報がチグハグに噛み合い、脳内で不一致を起こす。Youtubeで教えるのが上手い動画クリエイターが心血を注いで作った10~20分のビデオを見るほうが、はるかに頭に入るのではと、コロナ禍以降に定着したインプット習慣から自然と無意識に比べてしまう。

エンタメ供給過多な時代に、脳が慣れてしまったせいか。私自身も「おもしろい」と何かしらフックがかかる要素がなければ、長時間真剣に聴く姿勢を保てなくなってきていた。扱っているトピック自体には興味があるため、プレゼン末の文献リストだけさくっと見て、おもしろそうなものだけ自主的に調べてはと、ほぼ独学でやっている有様だった。

こんな事情があったため、講義に来ないという3人のグループメイトに対して、何かしら不満を抱くどころか「むしろ自分中心にやりたいことを優先させてて、今の時代に自然なんじゃないか」と妙な納得する思いさえ感じた。

「知識」ではなく「刺激」を与える

私が思うに、これからの講義(と呼ぶものがいつまで存続するかも分からないが)は、「知識」ではなく「刺激」を与える場へと変化が望まれているのではと。

インターネットの始まった20年以上も前からとっくにそうと言えるのだが、理論ベースの知識やノウハウは、デバイスさえあれば誰でもアクセスできる。特にコロナ禍以降で優秀な動画コンテンツが大量生産され、消費されるスタイルが一層確立したように感じる。宇宙の始まりをBBCが作ったアニメーションで学べて、CourseraでGoogle認定のUXデザイナーやデータ分析のコースが受けられて、UdemyやLinkedInで巧みな講師からビジネス・経営・デザインが学べて。

しかもその上で、ChatGPTを始めとしたAIが来てしまった。現時点で細かな性能に賛否はあれど、まだローンチしてたった数ヶ月なのに加え、これから数十年の長いスパンで見れば。2007年にiPhoneが発売されて、10年かけて世界がすっかり変わったように大きなトレンドとなり、小論文的な問いに意味が薄れ、知的伝達的な活動はかなりの構造転換を迫られると思う。

そのため、教育現場も大きく変わると思う。ひとつの予測では、「知識を与える」思考型の教員がほぼ必要なくなり、「刺激を創り出す」マインドに特化した教員に大きな価値が宿るのではと。

良い教師は眠っている欲望を目覚めさせ、新しい欲望を生み出す。モンテッソーリは教師のこの役割を、一流の芸術家がほかの人に見方を教える行為になぞらえる。「私たちがぼんやりと湖畔を眺めているときに、とつぜん一人の芸術家が語りかけてくるようなものだ。『あの崖の影になっている湖岸の曲線はなんと美しいことでしょう』。その言葉で、ほとんど無意識に見ていた景色は、とつぜん一筋の日の光に照らされたかのように私たちの心に刻まれる」

モンテッソーリの教師はある対象への欲望の見本を見せ、それから子供が直接触れ合えるように、欲望の媒介者として身を引く。教師の責務は「光を与えて、自分の道を進むことだ」という。

ルーク バージス. 欲望の見つけ方 お金・恋愛・キャリア (p.307). Kindle 版.

私自身も今の大学院でひとつ、感銘を受けた講義がある。Data Visualization (データの視覚化)の内容で、ある複雑な事象をInfographicで巧みにまとめたものをプレゼンされ、「おおっ」と心を動かされた。

自分たちはこれからこんなことができるようになるのか、と好奇心を掻き立てられ。単にスライドを見せられたというより、「魅」せられた。「そんな研究ができるなんて面白い」「この見方を他に転じれば、あのようなことも可能なのでは?」

言い換えると、その新しいフィールド内で「学生側が勝手にもっと調べたくなる欲望」をいかに開発するか。ネットワークでつながれ情報が均質化した世界で、唯一差異化をもたらせるのは「なぜその検索キーワードを打ち込みたくなったのか」の意欲にある。

東浩紀さんは、その欲望の生成のために「旅」を掲げる。異国の地で、母語が通じない環境。新しく見る人、文化、景色、料理、建築、天候。「なぜ」という疑問が自然発生しまくる中で、気がついたら全く新たな検索キーワードを打つようになり、自主的に学んでいる。

では、こうした旅に出るときのような自主性・躍動感を、どう生み出せるか? それこそが、環境整備・カリキュラム計画の形で、今後の教育機関・教員サイドに求められていくのだと思う。

演出家であり、エンターテイナー性もあり。また深層心理的に人を視るコーチング的な側面も必要となってくるかもしれない。少なくとも「いかに学生を楽なリモート出席にさせないか」というマインドのみで汲々と、無理やりリアルな出席を強要するだけしても、今後の長期的なトレンドの端境期にあることを考えれば、根本的な解決をもたらさないと思う。

なので、知識に囚われない「メッセージ性」とともに伝えられることの重みが増す。「あなたが教員として、最も伝えたいことは?」込められた思いを言語化し、人柄を通じて伝えられること。それこそが唯一、リモートとAIが常態化していく社会で、教育現場が価値を発揮し続けられることなのではないかと思う。

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