シェイクスピアとビートルズ
概念としての時間を持たぬとされるヒト以外の多くの動物は、明るくなって暗くなって、の繰り返しの現象をほんとうに生きているのだろうか。
音楽のことに触れると考える領域として意識して分けていた部分もある。が、自身を記していく上で、避けては通れないだろう。
僕が僕に対して思う無価値さは、音楽の表現という悔しさと隣接している。あの人が歌うから、という理由でライブを見に行くことは大いにあり得ると思うが、自作或いは既成の楽曲を良かれと思い演じてもそれは聞き手にはあまり伝わらない。アマチュアの過信だと一笑に付されるかもしれないが、僕はそれをたしかに悔しく感じている。自己満足は他者共感にはなかなかならない。
二十歳前後の頃、音楽を真面目に研究した。先生、教科書はとりわけビートルズだった。ロックをベースとしてのアレンジ、コーラスにその奥深さを感じていた。バンド仲間が集まりそのコーラスだけも練習した。綺麗なことをしたかった。綺麗な方を選んでいた。ビートルズの魅力はブリティッシュロックを基点としてのコーラスやアレンジ、予想外のコード進行、演奏力の素晴らしさにあるのだろう。根底にあるのは港町の少しばかりの大人が決めつけた不良たちか。
反拠点の半駅分のところにあるラーメン屋の庇に取り付けられた薄橙の灯りは球切れが近いようで、石灯籠の名残のように、ねぐらに帰る者や夜に繰り出す者を断続して照らしている。またすぐに朝が来て、まぶた越しに空に浮かぶ朝の火球をみてみれば、エネルギーのある帰結としての赤一色がそこにあるだろう。
概念としての時間を持たぬとされるヒト以外の多くの動物は、明るくなって暗くなって、の繰り返しの現象をほんとうに生きているのだろうか。
違う気がする。
現象に反しているなら羨まし い。ロックだ。
胸に手を当てると、単調な振えが、ビートルズの曲のように伝わってきた。
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