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世界にひとつだけの

《一つの指輪/The One Ring》の特殊仕様版が世界で1枚だけパックに封入されるというニュースは非常に大きなインパクトを生んだ。
原作を知る者は原作さながらの再現に興奮し、コレクター気質の者は「世界に1枚だけ」という至上の価値に魅了され、そうでない者たちもそれらの熱狂に興味を惹かれた。それはまるで作中の人々を誘惑した「一つの指輪」そのものだった。

光あれば影あり、とはよく言ったもので、大きな反響を生む物事には、決まってそれと釣り合うほどの批判や反感が――さながら影のように――つきまとうものだ。
前例を見ないほどの希少価値にか、それを取り巻く熱狂にか、その盛り上がりを手放しでは喜ばない者、状況への疑問を抱く者、危機感や嫌悪感を表明する者もまた多く見られた。

私はこれら肯定的な人達と否定的な人達を断じる訳では無い。
この話題に触れる以上、私の立ち位置を表明しておくのが誠実というものであろう。「hateではないdon't like」とさせて頂く。
その上で、特殊仕様版の《一つの指輪/The One Ring》について思ったことを書き残しておこうと思う。

私が思うに、TCG文化を支える重要な要素の1つに「身の程知らず」があろう。
Kitchen table Magicなどに代表されるTCGの原体験には、「自分だけの最強」があった。自分だけの最強の切り札、自分だけの最強コンボ、自分だけの最強デッキ、自分たちの中での最強プレイヤー……そこには、世界に目を向けるまでもなく、フライデー・ナイト・マジックで近くの店舗大会に出場すれば吹き飛ぶほどの、「井の中の蛙」と言うべき拙い「自分だけの最強」があった。

ほとんどのプレイヤーがインターネットを通じて世界と繋がり、「身の程を知る」ようになった今日では失われつつあるが、逆に言えば競技的な文脈の外には「身の程知らず」でいられる余地はまだ多分に残されている。
TCGには、英語圏ではCollectible Card Gameとも呼ばれるように、Gameとしての側面と、Collectionとしての側面がある。
Gameとしては組織化されて「身の程を知る」に至っても、Collectionとしてなら「自分だけの最強」を追い求めることができる。

当然、インターネットによって世界的なコレクターも可視化されたし、PSA等の鑑定サービスによってコレクションの客観評価も生まれつつある。
しかしながら、コレクションされる物品は、原画などの極一部の例外を除いて元来が量産品である。そのコレクションに意味付けをするのは最終的にはコレクター本人であり、「自分だけの最強」の聖域は侵し難い。

パック開封にしても、カードに値付けがされている以上、金銭的には"当たり"と"外れ"が存在することは厳然たる事実である。しかし、それらが量産品であるが故に比較可能な数値の範疇を出ることはない。
「好きなキャラクターのカードが出た」「ストーリー上関係性のあるカードが1つのパックから出た」等の形で、「価格以上のもの」として開封体験に「自分だけの最強」を見出すことは依然として可能である。

それも、「世界で1枚だけのカード」というものが存在しなければ、の話である。
「自分だけの最強」としての自称「世界で1枚だけのカード」と、公式お墨付きの「世界で1枚だけのカード」が並んだ時、果たしてどれほどの人が前者を信じ抜くことができるだろうか。本物の「世界で1枚」を前に、「身の程を知ら」ずにいられるだろうか。
量産品のはずだったカードの中に一点物が混じることで、「量産品に個人的なストーリーを結びつけて代え難い一品にする」という従来のコレクション文化にあまりにも大きな一石が投げ入れられた。

思えば、Secret Lairや兄弟戦争のシリアルNo ダブルレインボウ、#295 Shivan Dragonという形で、これまでもコレクションの在り方は段階的に問われてきた。
特殊仕様版の《一つの指輪/The One Ring》は特別大きな一件ではあるが、投げかけられている事柄は一貫して同じに見える。

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