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李信の子孫|北魏を建国した道武帝

今まで、漫画キングダムを読みつつ考察記事を書き、そこから中華の古代史に興味を持ち、さらに日本との繋がりなども記事にしてきました。

<過去の参考記事>
楚王の姓①
楚王の姓②

最初は妄想レベルだったのですが、現在は学術書などを読み、自分の妄想の答え合わせとさらなる妄想を掻き立てている最中です。

今回、李信の子孫について、過去に書いた記事に追記しながら再掲したいと思います。

中華の古代史を調べているうちに、「李信」の家系図にたどり着いたのが2020年でした。素晴らしい書籍からの抜粋なので、書籍の紹介もさせてください。

李氏系譜

ちょっと見にくいかもしれませんが、この李氏の家系図の頂点が…なんとあの李信なんです!キングダムファンならもうここで胸熱じゃないですか!

これには、上記の雑誌にも掲載されていない秘話がありまして、下記は初掲載となります。

『元朝秘史』などこれまでの史書より、西夏王朝の第十代南平王・李睍(末主とも呼ばれる)が1227年、ジンギスカンの率いるモンゴル軍の攻撃にあい、投降しました。ジンギスカンの死後、第2代モンゴル帝国皇帝・オゴデイによって、李睍は殺され西夏王朝は滅びたとされています。

しかし実際には、李睍の子である李賞哥が、羌族の故地である青海省西寧に逃れ、脈々と家系を保ってきたようです。李睍から数えて22代目にあたる李鴻儀が、これを立証する『李氏家譜』などの古文書を、娘婿の羊小屋の壁に塗り込むなどして死守してきたのです。(画像にある李氏家譜は李広の墓にあるもので、恐らく李睍が守ってきた家譜が再現されたものではないでしょうか)

改革開放政策下の1993年になってからこのエピソードが報じられ、寧夏社会科学院で調査の結果、李鴻儀が22代目、その子の李培業が23代目と結論付けられました。

ここから先は、家系図から掘り下げて行きますので、出来れば雑誌を購入して読んで頂ければ、出版社の方も報われると思います。出版社の皆様、引用大変失礼致します。素晴らしい本でございます。

李信の家系図を冷静に見ていくと、物凄いことが分かります。

1.李信の子孫が「北魏」を建国する
2.李信の子孫が「唐」を建国する

秦の始皇帝は当然凄いのですが、もしかすると李信の家系の長期に渡る中華への影響も計り知れないということになります。まさに、名家。本当に戦争孤児からここまでのし上がったのか…と思うと感動で涙がこぼれます(戦争孤児かどうかは漫画の脚色があるため事実かどうかまでは不明)。

北魏の建国は、あの匈奴を追いやってるわけですから…相当な武力を誇った勢力であったことが想像出来ます。

北魏

雑誌内では、李陵の妻「拓跋」が後の拓跋部になっていくということが、史書を引用しつつ書かれています。いわゆる鮮卑拓跋部の祖ということですね。

そしてその拓跋部の拓跋珪(道武帝)が、北魏を興すのです。

<北魏が勢力を拡大した頃の勢力図>

北魏1

拓跋珪は、敵対する五胡諸部族を平定し、後燕国の混乱に乗じて黄河以北の華北平原を征服。首都を平城に移し398年皇帝の位に就いた。

道武帝

李信の子孫が、皇帝に上り詰めたのです。大将軍どころのお話ではないですね。次回、さらにその家系に迫ってみたいと思います。

本日もお読み頂きありがとうございました。

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