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自分や他人の違い。絵を描く私の個性との付き合い方。

いきなりだが、私は自分の生き方や考え方は、突飛なものではなく、ごく普通なものだと思っている。

それを個性的と思うか一般的と思うかは、大概他人が決める事だ。

「一般的」という概念も人によって違うが、考え方としては、大多数と同じものを一般的と評すると思う。

同時に、今まで生きてきて当然のようにしてきた選択肢など、それを選ぶことに迷いがなかった場合、これも普通の事と自分では思うものだ。

自分で自分を客観視したときに、一般的な感覚から外れていると感じる人の方が少ないんじゃないだろうか。

とはいえ、様々な人と関わっていくと、嫌でも見えてくる他人と自分との違い…いやむしろ同じところなんて一つもない、と言ってもいいんじゃなかろうか。

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美術家として、人と違うという事を考える。

「私は個性的である」なんて、自己発信で思って生きている人間は、ごく僅かなのではないだろうか。

かくいう私は、「個性の塊」と評されるが、自身で個性的と感じたことは殆どと言ってよいほど、ない。

多くの個性的な人々は、他人に「人と違う事」を指摘されて、「あー私の考え方や行動は人と違うのか」と認識させられるのだと思う。

そもそも大多数と比べて違う事って何だろう?

「人を殺すのは悪いことだ。」といえば、100人中95人くらいは同意するだろうから、そういう絶対的な極論を言えば大多数と比べた時に、相容れないマイノリティというものは存在するだろうが…。

最初に個性にぶつかるのは、幼少期の団体行動だと思う。

「みんなと同じことをするのが正しい」と意識づけられる謎の学校生活で、団体行動に疑問を持った子供は、早々とマイノリティ認定される ← これが私だった。

「雪が降ったから、皆で校庭に出て遊ぼう!」と先生に言われれば、大多数の子どもは喜んで校庭を駆け回るが、私は出たくもない外に連れ出されて、足がかじかんで痛いし、「早く教室に戻って絵が描きたい」と願いながら校庭の隅でじっとしている子供だった。

私以外にも、そんな子供が本当はいたかもしれないが、やはりそれは大多数から言うとマイノリティな部類のようだ。

「なぜみんな当然のように友達になって、グループを作り群れるんだろう?」というのが、幼稚園に通いだした5歳くらいの頃からの私の素朴な疑問である。

人が嫌いなわけではないが、どう話しかけて、どう接していくのが自然なのかが全然わからなかった。

したがって自分からは他人に話しかけず、ずっと絵を描いていて、話しかけられた時初めてコミュニケーションをとるような内気な子供だった。

こうして書き出してみると、マイノリティ判定は自身でできないにしろ、自分と他人で考え方が違うのだな、という認識は生まれる。

私は幼い頃から、他人と自分の違いについては把握していたように思う。

考え方は違って当たり前、それが普通。

そんな考え方で生きてからなのか、自分が思いつきもしない思考の持ち主を、私は好んで友人にしてきた。

他者から言わせるといわゆる変人で、付き合いにくいと評される人たちも、私にとっては面白いからどんどん関わりたい人間だったりする。

誰しも距離感を間違えれば衝突するし、疎遠になることもある。

付き合いにくい人、と言われる人間もそれは同じで、距離感を決めるポイントは、相手に対してのリスペクトだと思う。

互いを尊敬しているかどうかで、たとえ個性が強くても共に高め合い競い合い、時に近づき時に離れつつ、素敵な関係は築けるものだ。

自分を偽ると自分で首を絞めることになる。

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