出来る事が仇となる。絵を描く私の盲点の話。
私はどちらかというと、職人気質である。
様々な画法や技術を習得し、自分なりの表現に変えて活かす。
出来る事が多ければ多いほど仕事の幅も広がるし、依頼に合わせて制作する事に何の苦も感じた事がない。
どんなものを表現しても私の個性は出るし、それが例え自分発信の表現でなくても私の作品に変わりない、と、その事に疑いを持った事は殆どなかった。
実際それで今まではよかったのだ。
描きたいテーマがあっても剥き出しの感情を表現するのではなく、観ることで感じてもらえればよい、と思っていた。
だが、ある日を境にその考えは一変する。
何で私はキレイな絵しか描けないんだろう?
贅沢な話をしているのは重々承知だが、割と深刻に頭を抱える問題なのだ。
表現したいものはあるのに、私が描きたいのはこういう絵じゃない。
私は本当は何が描きたいのか、わからなくて一生懸命考え続ける日々が続いている。
鍛錬した技術が表現の邪魔をする。
技術を身に付けるのは、なかなか大変な作業だ。
もちろん始めは思い通りに使いこなせるものではないので、繰り返し繰り返し鍛錬して、体が覚えるように、技術が染みつくようにひたすら体を動かす。
いわゆる努力というものなのだろうが、それが楽しい人間には遊びの延長線で、楽しく技術を身につけていくことができる。
毎日毎日を積み重ねることで、身体に技術が馴染み、頭で考えなくても身体が動くようになれば、その技は手に入れたも同然だ。
更には、ひとつの技術に満足せず、関連する技術は何でも楽しく学べる、となると出来る事もどんどん増えて一石二鳥である。
そんな技術を活かして様々な仕事ができるようであれば、願ったり叶ったりで実に幸せな事だと思う。
自身の身に付けた技術を使ってお客様のニーズに応える、といういう意味では、申し分ない。
だが、ことアートとしての表現になると、技術があればいいってものでもないのだ。
表現方法をたくさん持っていても、どんなに写実で表現ができても、それが本当に表現したいものなのか?と問われると回答に困る。
回答に困るという事は、自分の表現したい何かをまだ表現できていないという事だ。
そう、今までは「描く事」に一生懸命になったいただけで「表現する事」が満足にできていなかったのだ。
では「表現する」とは何をすればいいのか?
「アートは爆発だ」なんて仰った有名な方がいらっしゃるが、結局はそこが重要で、お利口で理性的な絵ではアートになれないのだ。
高級な画材なんて無くても、鉛筆とノートの切れ端だけで、アートはできる。
むしろ、物事にこだわらず自然と吐き出したものこそ、アートなのかもしれない。
自我の解放、答えは外ではなく内にある。
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