長い遠回りから見えた世界。絵を描く私のこれからの話。
長い長い道のりを経て、大胆にも「女版ピカソ」を目指すと決めて、自分が目指す未来はどんなものなのかを順番に考えて、少しずつ行動にしていく中で、私の身体に再び異変が起こった。
一人で生きると決めてもなお、どこかで子供は産みたいと思っていた。
卵巣嚢腫を経験して、一度女性としての機能を失うリスクを経験して、だから余計に、女という生き物である自分に執着した。
遠くない未来に、女性としての機能は完全な終わりを迎える。
それまでに女性であった証を残したいと思うのは、経験した事からして自然な思考の流れのように思っていた。
そんな私に、現実を見ろと神様が掲示したのか、はたまた変化する日々に身体が対応しきれていなかったのか、理由はわからない。
でも私の身体は、本当に子どもを産めなくなった。
病気が再発したわけではないが、ホルモンバランスを崩しそれを治療することで、産めない身体になる事を選んだのだ。
そもそも昔、双極性障害の薬を飲んでいた私の身体は、奇形児を産む確率が人より高い。
子どもを産まない理由を頭の中でたくさん集めて、自分を納得させて出した結論。
あくまでも自分の選択なのに、それからの私は、子どもを持つ親や家族を見るたび辛くて仕方なかった。
手に入らないと思うと余計に欲しくなる。
もう結婚するつもりもないのに、1人で産み育てる覚悟もないのに、勝手に悲劇のヒロイン気取ってる自分が本当に嫌だった。
執着というのは、実に恐ろしい感情だ。
自分1人で完結する事に執着するのは悪くないと思うが、他人を巻き込まないと成立しない物事に執着するのは、ただただ苦しいだけで何の得もない。
今度こそ、自分と向き合う機会を。
平気な顔を装って、それでも幸せそうなファミリーが目に入ると落ち込んで、見ないふりして別のモノにのめり込もうとしていた一時。
そんな自分の気持ちと向き合わない時間は、私を鬱々とさせた。
何がしたいんだ?何が欲しくてこんな選択をしたんだ?
そうだ、私は生涯絵を描いて生きていきたいから、1人で生きる事を選んだのであって、苦しむために選んだんじゃない。
ホルモン治療だって、シンドイ思いをして何も実らないなら、いっそ薬に頼って身体を楽にした方が自分の為になる、と思って選んだ。
そもそも、例え今子どもを産む機会を得たとしても、その生活の中で「女版ピカソ」を目指す余力があるのか?
想像の中の私は、子どもを産んだら絵を描いていなかった。
今までも何だかんだで、絵と違う事を並行してやろうと思うと、そちらに気が逸れてしまい、描かなくなる日々だった。
今、立ち止まっている時間はない。
夢を実現するために人生を走り抜けると決めたのだから、ここで止まるわけにはいかないのだ。
私が本当は何をしたいと思っているのか?
私が私を幸せにするには何をしたらいいのか?
他人との関わりや考え方は関係なく、私自身がどう在りたいのかを、今一度導き出す必要がある。
私の考える私の幸せは……
創作と制作に携わった人生を謳歌して、心のままに沢山の作品を生み出す。
世界中の沢山の人に愛されるアートを生み出すことが、私の最大の幸せであり、子どもを産むのと同じくらい尊い行為だ。
大切な作品たちは私の子どものようなもので、それを生み出すことは苦しみでもあり喜びでもある。
ああ…私は生み出す喜びと生み出したものが愛される幸せ、どちらも絵を通して経験しているじゃないか。
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