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命というサイクルの中で

2002年にメルマガで書いたことを再掲します。■――――――――――――■
映画『ガイアシンフォニー』の龍村監督のインタビュー概要

アフリカで大干ばつが起きた時、象たちが大群で緑地へ移動しました。
大群の象が緑を摂取することで、森が完全に消失するかに思われたのですが、そのうち年老いた象たちが群れを離れ、干からびた川で次々死んでいきました。
それから数年後、大量の象の屍骸は土や栄養にかわっていました。
そこに大雨が降り、水が戻ったことをきっかけに、象のお腹に入っていた木の実が一斉に発芽し、通常の何倍のスピードで森は再生されました。
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これを読んで、自然というシステムが一寸の無駄もなく機能していることに感動しました。
同時に、命が循環していく大きな自然のシステムと、命が命を食べるという一見残酷とも思える現実が、本質的に同じではないかと感じました。
 
子どもの頃、自分が別の命を取り込まなければ(食べなければ)死んでしまうよう出来ていると気付き、愕然としました。
幼稚園の時、テレビを見ていて、「食べ物」が「生き物」だと初めて知ったのです。
何かの番組で子豚の映像が流れた後、「健康な子豚がこんなにおいしくなりました」的に、ポークソテーが載せらたお皿がでてきたのです。
それは我家ではよく出る『ブタニク』と呼ばれる献立でした。
まさかと思いながら母に聞きました。
おうちでよく食べている『ブタニク』は、もしかして本物の豚さんのお肉なの?
答えはイエスでした。

テレビで見た子豚はとてもかわいかった。近くにいたら私は彼らと友達になりたいと思うほど、かわいかった。
それなのに、彼らを殺してその肉を食べていたなんて!
しかもこれからも食べなくていかなくてはならないのです。

さらに私は気付きました。
豚さんだけじゃない。
私が好きなシャケの切り身はもとはお魚で、卵焼きは鶏さんの卵だから、ひよこになるはずのものだ。
お米だってキャベツだってもともと畑ですくすく育つわけだから、命だ。
このテーブルにのる前は、みんなちゃんと生きていたものばかりだと。

もともと食に対して積極的じゃなかった私は、食べる行為そのものが嫌になりました。
食べなくても生きていける体になりたいと心から思いました。
神様がなぜ、命を食べなきゃ生きていけないシステムを作ったのか理解できなくて、聞けるもんなら問いただしたいと思いました。

結局家族に説得され、少しずつ食べるようになりました。
あれこれ考えて、子どもながらに悟ったのです。
食べ物を食べなければ私が死んでしまう。
自分の命を殺すこともまた命を奪う罪なのだ。
だから他の命を食べてでも、生きていかなければならないと。
それは悲しい選択でしたが、自分を生かすことをやめるわけにはいかないと諦めたのです。

今ではそこまで強い罪悪感はなく、命をありがたく頂くことが重要だと思っています。
でも実は今だに、この命題に明確な答えを見つけられずにいます。
その答えのヒントのひとつとして、学校で習った食物連鎖があります。
肉食動物は草食動物を食べ、草食動物は草を食べ、草は、動物たちの屍骸を栄養に育っていきます。そのどこかが欠けてしまうと、全てに影響が出る。
つまり、肉食が王様ではなく、全ての存在が、自分を生かすために命を食べ、いつか別の命に自分の命を与えることで、自然の世界は成り立っているのです。
まさにギブアンドテイクです。
それがひとつのヒントになるかなと思っています。

まるで自ら死を選ぶように、食べることを止めて川に横たわった象たち。
でも、彼らは「私たちが犠牲になって森を救うのだ」的な大義名分で動いたわけではなく、ただ「自然に従った」のかもしれない。
自分たちが、命の循環の中で生かされている、自然の一部だと知っていた。だから自然の一部として自らの命を自然を生かすために使い、自然そのものになったのかなと。

答えは見出せませんが、今日も世界から与えられる食べ物を、感謝と共に美味しく頂きたいと思います。

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