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走馬灯はかく語りき

今日もこれといって書くことのない一日だった。

僕が死ぬ時に見る走馬灯に、今日という日はきっと含まれないだろう。

では、僕はどんな走馬灯を見るのだろうか?

若かりし頃に無謀に挑戦した日々のことか、外国へ行った時のことか、ふと伊東や鎌倉へ一泊二日で旅行した思い出か。それとも、そういった非日常的な思い出ではなく、毎日の通勤路で、なんとなく顔を合わせる赤の他人の顔でも思い出すのだろうか。

死ぬ時持っていけるのは思い出だけだ、と言われる。それならば少しでも楽しい思い出をこさえなくては損をした気になる。

私はもともと内向的な性質なので、今のようにnoteでも書いて、本でも読んで、音楽聴いてれば何も問題ないと思っていたが、ふらっとどこかに遊びに行けない、遊びに行く計画を立てられないというのは中々辛いものがある。

もし今、自由に好きなことをして良い、と言われたら僕は何をするだろうか?

いくつか行ってみたい国や場所はある。

まずはタイだ。バンコクに行って、ひたすらB級グルメを食べ歩きして、ひたすらビールを飲みたい。バンコクに疲れたら、プーケットとか、そんなビーチリゾートで飽きるまでゆっくりしたい。

次に行ってみたいのは、中南米だ。
メキシコ、ブラジル、アルゼンチンに行ってみたい。
そこでもひたすらB級グルメを食べて、現地の酒をひたすら飲みたい。そして現地のサッカースタジアムで地元ファンに混ざってサッカーを見てバカ騒ぎをしたい。

そしてパリに滞在して、ロストジェネレーションの作家達のように、毎日パリの街を朝も昼も夜も徘徊に徘徊を重ねて、花の都の変人達を観察して、尽きることのない妄想を物語にしたい。

パリの生活に飽きたら、ヌーボシルクのパフォーマーや音楽家達とサーカスを作る。
夏の間は、そのサーカス作品でフランスのアビニョンとエディンバラの演劇祭をはしごする。

そんな生活をしていれば、程なくして、僕は人付き合いに疲れて、自分の殻に閉じ籠りたくなる。そうすればしめたもので、またパリに帰り、花の都の変人達を冷やかし半分に観察して、変人達から物語の種を分けて貰う。

一人の作業に疲れて、人肌恋しくなった頃、また馴染みの連中とサーカス作品を作り、アビニョンとエディンバラをはしごする。夢のように見事な循環ではないか。

タイと中南米はバカンスで、パリとエディンバラとアビニョンの往復が僕のメインの生活だ。

書くのは自由だし、書くことは実現する、と嘘か真か聞いたことがある。
こんな人生をおくれたら、僕の走馬灯は良くも悪くも劇的なことばかりで、なかなか走馬灯が見終わらないだろうな。

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