湿度120%の青い夜
朝起きてリビングのカーテンを開けると、濃霧が広がっていた。まるで、真っ白なスクリーンを下ろしたかのように視界を遮っている。普段であれば、私の家のリビングからはスカイツリーが見渡せるのだが、今日は二、三メートル先も見通すことが出来ない。
これじゃあ、まるでスティーブン・キングの『ミスト』だなと独り言を言って、私は仕事に出かけた。
夕方、仕事を終えて帰宅すると、妻の字で
-洋裁教室に行ってきます-
という書き置きがされており、誰もいない、暗くて蒸し暑い部屋だけが残されていた。
その日は私が夕食の用意をする番だったが、酷い湿気にうんざりして、夕食の準備に取り掛かる前に、少し休むことにした。
リビングの明かりを少し暗くして、YouTubeで適当にゆったりとしたジャズをかけた。YouTubeから良く勝手にレコメンドされる類の毒にも薬にもならない音楽だ。それを聴きながら、安物のウィスキーをグラスに注いでソファに腰掛け、ふぅと一息つくと、部屋の中が堪らなく蒸暑いことに気付いた。
窓を開けると、まるで誰かが招き入れたかのように、冷たい空気がすうっと入ってきた。
湿度は変わらず高いが、部屋の中が涼しくなったので、私はソファに身を沈めて、軽く目を閉じた。
すると、YouTubeの音楽の後ろに、何か別の音がしているのに気がついた。
静かにではあるが、それはiPhoneのアラーム音だ。
こんな時間にアラームをかけたかな、と疑問に思いながら鞄の中にしまったiPhoneを手にとると、やはり私のiPhoneは何の動作もしていない。
気のせいかと思い直して、もう一度目を閉じると、小さな音ではあるがやはり確かにiPhoneのアラーム音が聴こえてくる。
音の出所を探るに、どうやら隣の部屋から漏れ聞こえてくるようだ。
私は窓を開けてベランダに出た。ベランダに置いてあるビーチサンダルを履いて、そっと身を隠しながら、音の出所であろう隣人の部屋を覗いてみた。
私の家と隣人のベランダの間には、マンションによくある仕切りがされているので、覗き込める範囲は限られている。
覗き込んだ先には、隣人宅のリビングが見える。しかし、そこには誰もいない。
誰もいない代わりに、リビングの主人のごとく木製のシンプルなテレビ台の上に、やたらと大画面で、とても薄い最新型のテレビが置かれている。
テレビには、不思議な立体感のある画面が映し出されている。私はテレビゲームの類を全くやらないので詳しくは分からないのだが、恐らく3Dゲームか何かなのだろう。水色と青で構成されたサイケデリックな画面を見て、私は思わず誰かと目が合ってしまったかのような思いに駆られて、はっと急いで身を隠した。
心臓がバクバクと脈打ち、全身に血液を送っているのが感じられた。
ゆっくりと息を吸って、吐き出して、新鮮な酸素を頭に取り入れて冷静に今起きていることを振り返った。私と目が合ったのは、テレビの画面であって、人ではない。だから、何の問題もない。そう私は自分に言い聞かせて、もう一度隣人宅のリビングを覗き込んだ。
落ち着いて見ると、テレビにはさっき見たのと同じサイケデリックな水色と青の三角形や丸がクルクルと回っている。
そしてその横に、黄色や緑色の小さな手形が押された画用紙が壁に貼られているのを見つけた。恐らくそれは、隣人の子供の手形で、幼稚園などで手形をとってみようという授業かレクリエーションの一環で作られたものなのだろう。
奇妙なのは、その手形が画用紙をはみ出して、壁にまで押されていることだった。壁から天井まで、いくつもの子供の手形が溢れている。
私は気分が悪くなり、隣人宅を覗き込むのをやめた。急いで、自分の家に引き返した。まだiPhoneの音は鳴り続けている。蒸し暑さと恐怖のせいか、私は額や脇、特に背中に汗をびっしょりとかいていた。ひとまず風呂にでも入ろう。風呂であれば、この隣人宅の窓から漏れ聞こえる音も聞こえないだろうし、風呂から出た頃には、隣人もアラームをかけていたことに気付いて止めるだろう、きっと子供を風呂にでも入れているに違いない、と考えた。
しかし、それにしても、あの画用紙からはみ出して天井まで拡がった子供の手形は一体何なのだろうか?私の見間違いなだけで、手形は画用紙の上に押されていたのか、それともたんに変わったインテリアの趣味の持ち主なのか。
そんなことを考えながら、下着を脱ぎ、蛇口を捻りシャワーを浴びた。風呂ならば、あの音は届くまい、と考えた私の考えは甘かった。
我が家の風呂場の換気扇と隣人宅のそれは何かしらの繋がりがあるのか、より鮮明に風呂場に鳴り響いた。
私はついに頭にきた、ブチッと頭の中の血管が一つくらいは切れたのではないだろうか。いい加減にアラームを止めろ、と風呂場の壁を拳を握り締めて叩いた。自分の手が痛むだけで、何の反応もない。よし、直接言いに行ってやろと私は決めた。
一刻も早くこのうるさいアラーム音を止める為に、バスタオルでさっと体を拭っただけで、Tシャツを着て、ズボンを履いた。まだ体は濡れているので衣服がじっとりと肌にくっついた。が、そんなことには構っていられない。もちろん髪も濡れてままだ。
私は玄関から出て、隣人宅の扉を叩く前に、ふっと冷静になった。私と隣人の隣り合わせの関係はこれから先何年も続く。お互いに長い長い住宅ローンの伴走者である。ここでことを荒げるのは得策ではない。そう思い直して、隣人宅の玄関を叩きつける前に、私は一人予行演習をした。
-夜分にすみません。失礼なのですが、アラーム音か何かがかかっていませんか?-
こちらがお宅のアラーム音に対して不服に思っているということは伝わってしまうだろうが、こう言えば会話の途中で、-本当だ、すみません-とでも言うだろうと私は予想した。マンション住まいとは、そうして赤の他人同士が波風を立てずに共存していく場所なのだ。
そして、玄関ドアを叩くのもまずいと思い返した。一度深呼吸をして、私は呼び鈴を押した。
呼び鈴の音がドアの向こうの隣人の部屋に響き渡っているのが、ドアの外からでも分かった。しかし、人がこちらに向かってくるような気配は全くない。
私はもう一度呼び鈴を押した。すると呼び鈴は途中で途切れてしまった。ピンポーンが一連だとすれば、ピィィィンポとポが鳴る前に誰かによって塞き止められてしまった。そして、その後に食器類の入った棚が倒れたかのようなガッシャーンという盛大な音がドアの外にまで聞こえてきた。
一体何が起きているのだろうか。隣の部屋で一体何が起きているんだ。
私は急に怖くなって、自宅に引き返した。鍵をかけたことを何度も確認して、ついでにチェーンロックもかけた。急いでリビングに向かい、コップに水を注いで飲んだ。浅くなっている呼吸を意識的に腹式呼吸に切り替えて、深い呼吸をして自分を落ち着かせた。絶対おかしい、絶対おかしい、と私は一人で呟いた。
そういえば、iPhoneの音はまだしているのだろうかと耳を澄ますと、ピピピピと変わらず鳴り続けている。
私は部屋の中を歩き回った。そうしてもどうにもならないことは理解しているが、じっとしていることが出来なかった。
動物園の檻の中に閉じ込められた動物のように、意味もなくリビングをウロウロして、はたと私は気付いた。
そうだ、窓を閉めればいいんだ。
何故こんな単純なことに気付かなかったのだ。
窓を閉めれば、隣の音なんてほとんど聞こえないじゃないか。
私は隣人宅と我が家をつなぐリビングの大きな窓を閉めた。そして、エアコンのスイッチを入れた。久しぶりにつけたエアコンからは、エアコン独特のカビ臭い空気が放たれたが、すぐに部屋の中は快適になった。
じっと耳を澄ました。
何の音も聞こえない。あのiPhoneのピピピピといううんざりするアラーム音はもう聞こえなくなった。
私はぐったりとソファに倒れ込んだ。ようやく、ようやくこれで落ち着くことができる。ソファに全身を預けて、まどろんでいると、また忌々しい音が聞こえてきた。今度の音は近くから聞こえてくる。音はこの部屋の中からしている。私はもう一度鞄の中に入れっぱなしのiPhoneを手に取った。やはり、今度の音の主は私のiPhoneだ。LINEの通知が来ている。妻からのメッセージで-洋裁教室が延びて、帰りがもう少し遅くなりそうです。また連絡します-というメッセージが表示されている。
洋裁教室がこんなに遅くなることなんてあるだろうか?嘘をつくにしたって、もっとましな嘘があるだろうに。いや待て、-少し遅くなりそうです-?-です-という言葉使いのメッセージも初めてだ。いつもは遅くなるよ、とか遅くなりそう、くらいのもので、です、ます調でLINEのメッセージを書くことなどないのだ。
まったく、どうしてiPhoneなんかにこうも振り回されなくちゃならないんだ、しかもこんな夜中に、と辟易としていると玄関ドアを強く叩く音がした。
私は文字通りビクっと身を固めた。今度は一体何だというのだ。
ドンドンドンドン、ドンドンドンドン、ドアを叩く音はパーカッションのような一定のリズムを暴力的に刻んでくる。
誰だろう、私は只ならぬものを感じながらソファから立ち上がった。恐怖を感じていたので、何か武器をと思ったのだが、流石に包丁はまずい。私にとっても、相手にとっても、包丁は致命傷になりかねない。包丁を使わないとしたら?私が思い浮かんだのはベランダを掃き掃除する時に使う100均で買ったホウキだった。
ホウキなら長さもあるし、バサバサと相手に応戦したとしても、相手に致命傷を負わせる心配もないだろうし、もし仮に奪われたとしても、私が致命傷を負う心配もないだろう。
そう私が考えている間も、玄関ドアは暴力的で規則的なリズムで叩かれ続けている。ホウキを手に取り、玄関に向かう。そして、私がそっと玄関ドアの覗き穴から外を覗き込むと、そこには大きな裸の女が立っていた。年の頃は50歳から55歳くらい、身長は170cmはあるだろうか、浅黒い肌をして、髪の毛を全てまとめてゴムで結んでいる。眉毛はなく、もちろんメイクはしていないのだが、ただ一点唇だけが真っ赤なのだ。
そんな女が、我が家のドアを叩き壊そうとしていると思うほどの力でドアを殴りつけている。
裸の女は、私が覗き穴を見たのに気付いたようで、急に覗き穴を覗き返してきた。そして、
「いつまでピィピィピィピィ鳴らしてんだ、今何時だと思ってんだ、いい加減にアラームをとめろ」と玄関ドアの外から大きな声で喚いてきた。隣人ではない。隣人は30歳くらいのごくごく平凡な、いかにも専業主婦といった風貌の女性だ。
私は100均のホウキを力強く握り直した。そして玄関のドアの鍵を開けた。今は午前三時だ。
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