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これからも平和ボケできる世界が続きますように

最近見かけたあるコピーに、個人的に凄く違和感を感じた。

それは以下のようなものだ。

「世界的舞台演出家Aの最後の弟子、平和ボケの日本人に物申す」

ぼくは、その世界的Aが君臨していた業界の隅の隅の隅にいたことがあるので、Aという存在は知っていた。

でも、Aの何をもって世界的というのだろうか?

ぼくがいくつか海外の国に出向いて仕事した時に、Aの仕事を讃えるような外国人の言説は、少なくとも僕の耳に入ったことはない。

とかく日本人の大半は、海の外で起きていることなど良く分かっていないので、世界的と言われて、いくつか海外での仕事例を出せばコロっと騙されてしまう。

だから、ぼくは世界的◯◯という枕詞で売り出している人は大抵怪しいと踏んでいる。

現にぼく自身、その触れ込みで売り出そうとしたことがある。
でも、考えてみて下さい。世界的な人気があったら、日本国内の活動をメインにしますか?

そして、「平和ボケ」という言葉にも違和感しかない。
平行ボケしてはならないなら、なんだ戦争しろって言いたいのかと思ってしまう。

いつ攻められるか分からないのに、その考えは甘い、という反論があるかもしれないが、そもそも2021年の今、短期的な武力で影響を与えてやろうって考え方をしてしまうほうが甘いと思う。

それに、平和ボケできる世界を成り立たせる為に、人類は前進してるんだろうが、と憤りを感じる。

平和な世界を目指しているのに、いざ平和な世界が実現すると、まだまだ危機は沢山あるんだぞ、平和を謳歌するなんてけしからんぞって意味分からん。

それに、解決されていない社会問題が山ほどあるなんて、幼稚園児だって理解できる。

でも、そんな絶望的な状況にばかり目を向けていても何も解決できないから、ポジティブな面を見て、解決できることを解決するしかないじゃないか。

むしろ平和ボケと挑発するような言葉を持ち出して、関心を引こうとする魂胆が呆れるほど安い。

そして、最後の弟子って、虎の威を借る狐はやめましょうよ。
何故故人の名前に乗っかってまで、権威にすがろうとするのか。

なんか全てにおいて、今の時代にそぐわない。

もっとも、今の時代が何かって、明確にはぼくも答えられないのだけど、昔より、人や物に囚われずに、個人が自由にインスピレーションを活かせる時代に移行しているはずだ。

平和ボケしてる時にしか得られない、視野の広さ、多様性、そして何よりも自由がぼくは好きだな。

もちろん、自由をどう定義するかは、また別の話だけど。


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