時田さんが俳優を辞めた理由②
後日指定された店に出向くと、時田さんのマネージャーが先に店内にいた。
「井上さん、わざわざご足労頂いてすみません。何飲みます?ビールでいいすか?ちょっと待っててください、時田呼んできますから」
彼はそう言い残して、店の奥に向かった。
すると、直ぐに黒いTシャツに黒いキャップを被った長身の若い男が、瓶ビールとコップを二つ持ってきた。僕はテーブルの上に置いた鞄をどけた。長身の若い男はすっと僕の前に座った。
僕がバイトの店員かと思った、その若い男が口を開いた。
「はじめまして、時田です。」
そう言うと、時田さんは長い体躯を少し折り曲げて、僕に会釈した。
「仕事がない時はここで働かせて貰ってるんです。」
と時田さんは言った。
世間で人気の俳優がどんな人かと思っていたが、時田さんはこちらが拍子抜けするほど普通の人だった。業界人ぽさも、人を見下したような傲慢な態度も全くなかった。もちろん、容姿は男の僕から見ても改めて良い男だなと思うのだから、人気が出るのは分かる。実物を前にしてもやはり時田さんはユアン・マクレガーっぽい。
「はじめまして井上です、お世話になってます。」
何にお世話になっているのか考えてみれば良く分からず、そう言った後で僕は一人可笑しくなってしまった。十は歳下であろう若者に僕はそう挨拶した。
時田さんは僕の分と自分の分のビールを注いで、どうぞと僕に差し出した。僕らはぎこちなく乾杯して、互いに一口ビールを飲んだ。
時田さんはどう僕に話し始めたら良いか思いあぐねているようだったので、
「あのお、例の写真集、僕の書いた文章がなんかまずかったんですかね?」
と僕は尋ねた。
「いや、とんでもないです。井上さんの文章のおかげで少しはまともになったっていうか、載せてる文章まで薄っぺらだったら、ほんと如何にもアイドルって感じのキモい本になってたと思うんで。」
「時田さんはこんなとこで働いていて大丈夫なの?あの時田優馬が普通にこんな飲み屋で働いていて」
「まあ、ほぼ厨房で調理がメインですし、フロアに出ても気付かれません。たまにジロジロ見てくる人もいますけど、こんなとこで働いている訳ないと思うのか、一応今のところばれてはいませんね。」
「そうだね、特に今はマスクもしてるしね」
僕らはぎこちなく会話して、またビールを飲んだ。時田さんのコップも、僕のコップも空になったので、今度は僕がビールを注いだ。
「実はお願いしたいことがあってお呼びしました。」
注がれたビールを一気に飲み干して、時田さんはそう言った。
③へ続きます
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