無駄なことをするために私たちは生きている、これでいいのだ
大人になるに従って、いろいろなことが楽しめなくなってくると嘆く人も多い。私もその一人である。子どもの頃に感じていたワクワクがない。ゲームに没頭することもない。仕事以外の時間をどう過ごすべきなのだろうかと自問自答しながら、それでも打ち込める何かを探して彷徨いつづける毎日。そりゃ子供の学力も上げたくなる。
すぐに思いつくことは一通りやった。面白いと思うのだけれども長続きしない。飽きちゃう訳ではない。やってみたかった気持ちが昇華したあとは、始めたんだから続けなきゃという義務感に苛まれながら、人生の時間をここに費やす理由づけに追われる。インターネットやビジネススキルを活用して、この経験を(多少なりとも)マネタイズできないものかと考え始める。
義務ばかりが増えると息苦しくなり、次のアイテムに手を伸ばす。
「大人」になってからは、そんなことばかり繰り返してきたような気がする。ぽっかりと空いた心の隙間をどう埋めたらいいのだろう。
一人旅に出かけることにした。目立った観光地もない田舎。目的もはっきりしないなか、鈍行列車でのんびりと向かう。かろうじて見つけたご当地ならではの美味しいものを食べ、地元のスーパー銭湯的なところでゆったりと体を温め、リクライニングチェアでのんびりと時間を過ごして。たいした土産も買わずに日帰りでぶらぶらと帰ってきた。
私の人生において特段訪れる必要性がないであろう土地だった。料理は美味しかったし、知らない街並みを歩き回るのは新鮮だったし、風呂も気持ちよかったが、また行きたい、好きな場所だとも思わない。行ってきたことになんの意味もない。
でも、なんの予定もない一日がまるっと消費できた。家にいると平日と変わらない毎日に埋もれる。テレビをつけ、パソコンを開き、スマホをいじる。いつもと同じ変わり映えのしない料理を食べ、遊んでくれと擦り付いてくる猫と遊んで、寝る。そんな一日も悪くないのだが、いつもと違うことをすることで満足感が得られた気がした。
「効率厨」という言葉がある。何をするにも効率を求めてしまう癖。仕事をする上では非常に大事な考え方なのだけど、自分の人生そのものを効率厨しはじめるとどんどん病んでくる。なぜなら、人生は無駄の連続だから。効率を追求するとやることがなくなる。人はなぜ生きるのか、生きる意味とは?と多くの人が悩むが、初めから意味なんてない。生きているという今の状態があるだけ。
それでも人生を良いものにしていくために、自分の心にとって良いことを毎日積み上げていく。仕事を頑張るのも、経済的余裕を作って自分の余暇の時間をしっかりとるため。仕事だけの人生では完全に片手落ち、本末転倒なのだ。
余暇の時間は自分のために時間を使えばいい。そこに意味も価値もなくていい。毎日のちょっとした幸せの積み重ねが、あなたの生きている理由を作るのだ。