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いい発酵とわるい発酵(メタファーとしての発酵より)

微生物的視点で見るとこの世に区別はないよね?
自分の私生活を振りかえると、「AかBか?」と悩んだ結果、「A寄りのB」などという答えを出すことに罪悪感を感じ、でもよくよく考えるとそんなに差がないのではないか?と思い返すあるいは割り切れるときがある。あの現象は本質的にAとBが明確に、断絶した選択肢「ではない」のかもしれない。

そんなことを考えつつ、今回は発酵について考える。
本書によると「発酵」を科学現象として発見、定義されたのは19世紀末らしいが、それより以前から現象自体は知られており、「興奮し、揺らぎ、そして泡立つもの」と理解されていたそうだ。
この発酵の進む様子を踏まえると「メタファー(比喩)」としての発酵には、様々な事象を表すことができる。

例えば人間が物事を考えに考えた結果、煮詰まり、寝かせておく。一定期間がたってからその考えがその他のアイデアや外部からの意見、そして何より時間経過を経て熟成される感覚がある。「寝かせる」「熟成」という言葉たちをプロセスととらえればこの一連の流れが「発酵」だといえる。
つまり我々は頭の中で自分の考えを発酵させている。
さらにそれらの発酵の結果としての行動は、あいまいな区別しかない人間と人間が形作る「社会」に伝播し他人に影響を与える。
発酵が社会に波及する。

また発酵すると泡が立つ。この泡は何かが揺らいた結果であってこれを人の心に置き換えれば「感情の揺らぎ」といえる。この感情の揺らぎを誰かと共有している状態、平たく言えば「盛り上がってる」状態は「泡が立ってる状態」つまり発酵状態ともいえる。

好きな映画を何度もみて、そのことをSNSに投稿したら多くの人からいいねをもらう。会議で人と意見を戦わせて新しい結論を得る。コンサートで一体感を感じる。政府へのデモ活動によって世論が動く。どれも発酵と同じ作用だといえる。

世の中で起きることが発酵的だと解釈して、何かいいことがあるのか?
それは発酵(世の中)は「思い通りにいかない」「思いもよらない反応とその結果として突然変異が起きる」ということを認めることにつながる。

良い発酵悪い発酵というモノは誰から見るかによって変わる。
例えば人間にとって好ましい発酵は「熟成」「発酵」といわれるが悪い発酵は「腐敗」といわれる。納豆は腐ってるけどおいしくて栄養がある発酵食品。でも腐ったバナナはおなかを壊すからたべちゃだめ。しかし腐った主体からすれば状況が変化しただけ、さらにいうと個々の微生物や細胞がそうなりたくて変化したわけでもない。

つまり発酵は元来止められない。予測不能なのだ。だから世の中も予測不能と解釈できる。

そのうえで、だからこそ発酵を制御しようと無菌状態を作り好ましい反応だけを取り出して有効活用しているのが人間社会だ。その科学的挑戦によって大量生産のビールもできるし、納豆も広く流通している。しかしそれは本来「不自然」であり、その不自然状態を作るために多くのエネルギーが消費され、むりくりその環境を作っているに過ぎない。

とめられない発酵、そして結果として突然変異を生む。。。
とてもリスキーに感じる。しかし発酵は世界を作ってきた創造力そのものであり、我々が生きてきた世界に組み込まれた仕組みなのだ。

私たちが生きていく中でこの事実を受け止めなければいけないと感じる。
むしろ前向きに活用していくべきだ。
次回は活用に向けて考えてみる。















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