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短編小説 『まさみとぼく ピーチのお仕事2』

まさみはピーチを動物タレント事務所に所属させました。仕事もあり、車を持っていないまさみは、ピーチに仕事が入ると、その間、その事務所専属の猫専門の動物トレーナーに預けることに決めました。

ピーチのギャラから、食費代、宿泊費、トレーニング代などと称して色々な必要経費を差し引かれるのですが、それでも ピーチに仕事が入れば、かなりの金額をもらえることを説明されたまさみは、もちろん異論はありません。

人間のいうことを完璧に理解できるピーチには、そもそも、そんな訓練などまったく必要ありませんけれども。

それに、求められる演技はいたって簡単なものばかりです。
猫が人のことばを話せるわけもありませんから、難しい専門用語の羅列の長ゼリフなどは、もちろん一切ありません。

さっそくピーチに約二か月間の映画撮影のお仕事が舞い込んできました。
その間、ピーチはまさみのもとを離れて、この動物トレーナーの猫庭のところで暮らすことになります。

猫庭の家には、演技のレッスンを受けている猫ちゃんたちが他に何匹かいました。
猫庭が飼い主さんたちから預かった大切な猫ちゃんたちです。喧嘩してお互いに傷つけあったりしないように、みんなそれぞれ別々のケージのなかで過ごしています。

そのなかにこのまえ公園で会ったあの茶トラ猫の虎徹もいます。

「おまえ、こんなところでなにしてんだ?」

「あっ! このまえはどうも......」.

「どうも、じゃないよ。おまえのせいで、あのあと俺は酷い目にあったんだからな」

向かい合わせの猫用のケージのなかから、ピーチを威嚇するように睨みつけています。

「えっ! なにがあったんですか?」

「夕飯をもらえなかったんだよ」

「なんで、そんな目に?」

「おまえが俺の仕事を取ったからじゃないか。おまえ、バカなのか?」

「失礼だな。君よりは賢いと思うけど。あのときは君がいわれた通りに演技ができなかったから、ああいうことになったんだろ?」

「あのときは気分が乗らなかったから、やらなかっただけだ」

虎徹はケージの柵を前足で揺らしながら、興奮した様子で声を荒らげます。

「まあ、とりあえず謝っとく。ごめんなさい、でした」

「これだよ。とりあえず謝っとけばいいっていう態度、本当にムカつくんだよ」

虎徹は苦々し気に、ピーチにことばをぶつけます。

「だって、初めて話すのに初っ端から喧嘩なんてしたくないし」

そういって、ピーチは満面の笑みを浮かべました。人間が見たら、たぶん不気味さを覚える毛むくじゃらの猫の笑顔です。

「あいさつが遅れたけど、ぼくはピーチっていいます」

「......俺はコテツ。ここのトレーナーのヨシコが俺の飼い主だ」

「コテツさんって、このお仕事長いの?」

「ああ、物心ついたときには、もうやっていたからな」

「すごいね。じゃあ、バリバリ稼いで飼い主さんを楽させてるんだ」

「そうだな。俺がいたからヨシコは、動物トレーナーとして、こうしていま仕事ができているわけだからな」

「どういうこと?」

「ある日突然、ヨシコが会社を辞めたんだ。なにかとても我慢できないことがあったみたいでな。それで俺にそのことを涙を流しながら毎日愚痴ってた」

「どんなことを?」

「それは、ヨシコの名誉のために口が裂けてもいえないけどな」

そう聞いて、ピーチは虎徹の口が耳まで裂けた姿を想像して、思わず笑みを溢してしまいました。

「な、なにがおかしいんだ? なにも面白いことなんかいってないよな」

「ご、ごめん。つい......」

「とにかく、そんなある日。テレビ局で働いているヨシコの大学時代の友人から、『〈今日の猫ちゃん〉っていうテレビの人気コーナーに出ない?』って、話を持ちかけられたんだよ」

「ああ、知ってるよ。あの猫島のレポートとかをたまにやってるやつでしょ?」

「そう。それでな、その友人から、俺がなにか変わった芸みたいなものができるのかって訊かれたそうなんだ」

「それでなにかやったの?」

「ああ。〈だるまさんが転んだ〉をやったんだ」

「ああ、あれね。それで、鬼をやったの?」

「鬼なんてできるわけないだろ。数えられないし。なんていうんだよ? ミャーミャーミャンミャミャミャンミャー、とでもいうのか? そうじゃなくて、子の方をやったんだ。鬼が振り返るたびに、ピタッと動きを止めて、またすこしずつ鬼に近づいていったんだよ。俺はヨシコと一緒にこの遊びをよくやっていたからな」

「ぼくもたまにまさみをおちょくって、それをやるけどね。まさみは、すごい目で睨んでくるけど。このまえなんか、ぼくがあんまりしつこくやったもんだから、まさみってば最後には本気で怒っちゃって、『富士山......』っていって、ぼくの両耳を引っ張ったんだから。まあ、痛かったのなんのって」

「えーっと......俺、どこまで話したっけ?」

「飼い主と一緒に〈だるまさんが転んだ〉をやったってところ」

「そうそう、それでな。それがテレビで放送されると、すごい反響があったそうなんだ。それでヨシコが調子に乗って、テレビのとは別に撮っていたその動画を、動画サイトにアップロードしたんだよ。するとそれがバズってな」

「猫ちゃんたちって、〈だるまさんが転んだ〉って普通にみんなやるよね? ぼくん家にたまに遊びに来る猫ちゃんもやるっていってたし」

「そうなのか? それでヨシコが『どうやって教え込んだのか』ってコメント欄で訊かれて、ヨシコが思わず『これだけじゃないんです』ってつい勢いで答えてしまったんだ。それからヨシコは俺にいろいろな芸を覚えさせて、次々と動画をアップしたんだよ」

「例えばどんな?」

「おまえがこのまえやったやつ。指でバーンってやられたら、パターンと倒れるやつとか」

「ああ、あれね。他には?」

「地味だが、じっと見つめて、プイッて後ろを向いたりとか。お手とおかわりとか」

「お手とおかわり? 犬じゃないんだから......」

「そうだな......犬じゃないけど、やらされたんだよ。普段は、たとえヨシコの頼みとはいえ、人のいうことなんか絶対に聞く気になんてなれないけどな。けど、そのときは、仕事を辞めて気落ちしていた彼女にすこしでも元気になって欲しくて、ついいわれるままに一生懸命やってしまったんだよ。そうしたら、ヨシコはいつの間にか猫専門の名トレーナーみたいにいわれ始めたんだ。それでヨシコはこの仕事を始めたってわけだ」

「コテツさんは人間が話していることばってわかるの?」

「まあ、だいたいわかるけどな。けど、早口で話されるとちょっとな......。それに、わからないふりをするのも俺たち猫の常識だろ。犬たちとは違って、ツンデレこそが俺たち猫の最大の魅力じゃないか」

「コテツさん。ここだけの話、実はぼくね、人のことばが完璧にわかるんだ。でね、それだけじゃなくって話せるんだよ。すごいでしょ」

「おまえ、それ本気でいってる?」

「マジだよ」

「しゃ、なんか喋ってみなよ」

「いいよ。じゃあ、見てて」

ピーチはそういうと、ピーチたちの入ったケージに背を向けて、お茶を飲みながらくつろいでいる猫庭に話しかけます。

「お菓子ばかり食べてないでちゃんと仕事しなよ」

「えっ!......」

テレビのお笑い番組を観ながら、テーブルいっぱいに広げたお菓子を摘み食いしていた猫庭は、キョロキョロと辺りを見回しています。

「おまえ、すげえな。人のことばを話せる猫なんて見たことも聞いたこともなかったよ。なんでおまえ人のことばを話せるんだ?」

「それは自分にもわからないんだよ。いつのまにか話せるようになっていたんだよ」

「おまえの飼い主はおまえが人のことばを話せることを知っているのか?」

「もちろん。いつもふたりきりのときは人のことばで話してるよ」

「なんか......それっていいな。うらやましいよ」

虎徹は本当にうらやましそうに、まだキョロキョロと辺りを見回している猫庭の姿を、猫庭の腕のなかに抱きしめられていた昔の自分を懐かしむかのような眼差しでしばらく見つめていました。



「初めまして、私、キャットトレーナーの猫庭好子です。風香さん、この猫ちゃんが、今回、風香さんに寄り添う猫の〈茶々丸〉を演じる、ピーチちゃんです」

「初めまして、猫庭さん。わたし風香です、よろしくお願いします。かわいい〜っ! わぁ、背中に桃のマークがある。だからピーチちゃんなんだ」

『そうそう、よくわかったね』

女優の風香に抱き上げられ、彼女の顔を間近で見たピーチは胸の高鳴りを抑えきれません。ピーチが好きなタイプの女の子でした。

最近若手女優として人気急上昇の風香は、芸能人らしく、もちろんその可愛さも輝きも眩しいくらいです。けれどピーチは、それにも増して、彼女のなんともいえない生来の甘い匂いにひと嗅ぎ惚れしました。

『こんないい匂い、いままで一度も嗅いだことない。これに比べたら、まさみの匂いなんて......』

などと、ピーチはまさみに対して失礼なことを考えています。

「わたし、ふ、う、か、っていうの。ピーチちゃんよろしくね」

『よろしくね、ふうかちゃん』

ピーチは猫語で答えます。ピーチはもうすでに風香にメロメロです。

「カッート」

今日も時間が押すこともなく無事撮影が終わりました。

「ピーチちゃんって本当にすごいですよね。まるで人のことばを完璧に理解しているみたい」

風香は興奮気味にピーチを抱きしめて、ピーチのトレーナーの猫庭に驚きを隠せません。

「猫庭さん。あの......わたし、今日......ピーチちゃんを連れて帰っちゃダメですか?」

どうやら風香もピーチをすごく気に入ったようです。なにかすごく惹かれるものを感じているみたいです。

「うーん、ちょっとそれは......」

「明日もピーチちゃんとは朝早くから一緒のシーンの撮影ですし、ピーチちゃんのお世話はちゃんとしますから」

『ぼくもあんたみたいなオバハンより、風香ちゃんと一緒の方がいい』

ピーチは猫語で甘えるような声でそういって、風香の腕のなかでゴロゴロ喉を鳴らしています。

「ピーチちゃんもこうやって、いいっていってるみたいだし。お願いします、猫庭さん」

「ええ.....いいですよ。けど、本当に十分に注意してあげてください、風香さん。飼い主さんからお預かりしている大切な猫ちゃんですから」

ピーチのそんな様子を見て、猫庭も渋々了承しました。

それから風香は、呆れ顔のマネージャーを尻目に、ピーチのお世話に必要なものをお店で一通り取り揃えると、マネージャーの車で送られて、ひとり暮らしを始めたばかりのマンションにピーチと一緒に帰ってきました。

風香は仕事終わりで疲れているはずなのに、鼻歌混じりのニコニコ顔で、ピーチの食事、トイレと段取りよく準備していきます。

実は風香は、ついひと月まえまで、両親と実家でいっしょに暮らしていました。思い切ってひとり暮らしを始めたものの、最近、ひとり暮らしの寂しさを、ひしひしと感じ始めていたのです。

そんなときにピーチと出会いました。

「ピーチちゃん、今日は疲れたでしょう?」

「うん、ちょっとだけね。風香ちゃんこそ疲れたんじゃない?」

「えっ!......」

風香は腕のなかでじっと自分を見つめるピーチのヘーゼル色の瞳をまじまじと見返しています。
猫が人のことばを話せるわけもないし、わたし......疲れて空耳でも聞こえたのかな、と思いながらも、風香は恐る恐るピーチに話しかけます。

「ピーチちゃん、いまなんかいった?」

「うん。風香ちゃんこそ疲れたんじゃない? っていったんだけど......」

「えっ!?......ピーチちゃん、人のことばを話せるの?」

「うん、話せるんだ」

「うそ、嘘......ほんとに?......」

「ほんとだよ。いまこうやって話してるでしょ」

風香は右手で自分のほっぺたを抓っています。

「すごーい、ピーチちゃんってすごい猫ちゃんなんだね。だから、ことばで指示された通りの演技ができるんだね」

「そういうこと。本当はぼくが人のことばを話せるってことは内緒にしてないといけないんだけど、ついバラしちゃった。他の人に知られたら大変なことになるから、風香ちゃん、お願いだからこのことは誰にもいわないでくれる? ぼくのトレーナーもこのことは知らないから」

「わかった。誰にもいわない」

風香はピーチを抱き上げると両手で高く上げて、下からまじまじとピーチの顔を見つめています。

「照れるなあ.....風香ちゃんにそんなに見つめられると......」

すると、突然、化粧を落とした風香の薄桃色の柔らかい唇がピーチの鼻先に触れました。

風香はピーチに軽くキスをしたのです。

「明日のキスのリハーサルだから」

風香は悪戯っぽく微笑むと、瞳を輝かせました。

ピーチの顔は、毛むくじゃらの顔の下は真っ赤です。といっても誰にも見えませんが。

「もう一回っ!」

風香はそういうと、もう一度ピーチにキスをします。今度は、その瞬間、ピーチも唇をすこし尖らせます。

『なんか、ぼく幸せだなぁ......』

ピーチはしみじみそう感じていました。
それはそうでしょう。風香のファンが見たらうらやましがること間違いなしです。

夕食をすませたあと、ピーチは風香に自分のことをいろいろ話しました。
ピーチがまさみと暮らしていて、まさみとは面白おかしく暮らしていること。
まさみが小説を趣味で書いていて、小説投稿サイトに投稿していること。

風香はまさみと同じように、ホラー、スリラー系の映画が大好きで、家で時間があるときには楽しんでいるといいます。

まさみが投稿している小説を風香に見せて、ピーチが「これはこうやってアドバイスをしたんだよ」とか、「このセリフっておかしいかな?」とか、お芝居でいうところの本読みを手伝わされていると伝えると、風香は、「じゃあ、今度は私にも付き合って」といい出しました。



ピーチは目のやり場に困っていました。
というのも、ピーチが「たまにまさみと一緒にお風呂に入っている」と伝えたものだから、風香は「お話のできる猫ちゃんと一緒にお風呂に入れる機会なんてもう二度とないから」そういって、表面上はイヤがるピーチを湯船のなかで抱っこしているのです。
猫には珍しく、ピーチはお風呂が大好きでした。

お湯のなかに浸かるまでが大変でした。

「ピーチちゃん、からだを洗ってあげるね。どんなふうに洗ってあげたらいいのかわからないから、教えてね」

そういって、風香はピーチのからだを洗ってくれました。

もちろん風香はすっぽんぽんの丸裸です。
スレンダーで出るところはしっかり出ていて、雪のように真っ白で、きめの細かいすべすべのはち切れんばかりの若さ弾ける肌の、風香のそのからだをまえに、ピーチは目のやり場に困っていました。

『見たいけど、見ちゃいけない』

心のなかでそう葛藤していたのです。

ピーチは『ぼく、幸せだなぁ......』

また、そう心のなかでつぶやきました。

それはそうでしょう。
風香のファンが見たらうらやましがること間違いなしです。
もしかしたら、ピーチのその細い首をギューっと絞められるかもしれません。

「ピーチちゃん、熱くない。お湯加減は大丈夫?」

「うん、ちょうどいいよ」

「ピーチちゃんってハンサムさんだよね。ピーチちゃんがもし人間だったら、かなりのイケメンかも」

「そうかなあ......」

ピーチは風香のこのことばに、まんざら悪い気はしていません。



「俺はおまえのことは......好きでもなんでもない......」

「嘘いわないでよ。私を困らせたくないからそういってるんでしょ?......」

明日の撮影に向けて、ピーチは風香のお手伝いをしています。
このシーンは、風香の恋人役の男優が、風香の将来を思って、心にもないことをいって身を引こうとするシーンです。

「ピーチちゃんって、本当に上手いね」

「風香ちゃんはさすがに女優さんだね。その表情といい。すごい」

風香は本当は演技派と呼ばれてもいいくらいお芝居は上手なのです。しかし、そのアイドル然とした顔立ちと、可愛らしい声色から、いまだにアイドル女優のイメージから抜け出せていません。

「ありがとう、ピーチちゃん。私、こんなに楽しく練習できたの初めて」

まあ、確かに猫を相手に普通ならお芝居の稽古などできるはずもありませんから。
それは楽しいに違いありません。

「ピーチ、ここだけの話ね。私、相手役の男優さんと共演するのって、初めてなの。だから、いまからドキドキしちゃってて」

「風香ちゃん、けどさ。共演初めてって俳優さんって、そんなに少なくはないんじゃない?」

「そういう意味じゃなくって......私、その男優さんの昔からのファンなの」

「そうなの?」

「うん、私が十歳くらいの頃からだから、もう十年以上になると思う。私の初恋なの......」

風香はそういうと恥ずかしそうに頬を赤らめました。

ピーチはこんな可愛い子に惚れられているなんて、なんてうらやましい男なんだ、とすこしだけ嫉妬しています。



「あーっ! 緊張したーっ! 思い出すとまた胸がドキドキしてくるよ。ほら、わかる?ピーチ」

風香はそういってピーチを抱き上げると、ピーチの耳を自分の胸に近づけます。
風香の甘い匂いと、柔らかい胸の感触がピーチの心をフニャけさせます。

『ぼくって幸せだなぁ......』

「憧れのひととキスしちゃった。思いっきり抱きしめられちゃった」

「風香ちゃん。本当に幸せそうだね」

「うん。すごく幸せ......」

自分の部屋で、誰に遠慮することもなく、恋する自分の気持ちを明け透けに話す風香は、本当に幸せそうです。

「でも、俳優さんたちって、演技しているときって、自分の素の感情は出さないもんだっていうけど、違うの?」

「ほかの人たちのことはわからないけど、少なくとも私は、その瞬間そのひとのことを大好きだって気持ちでいるよ」

「そうなんだ。疑似恋愛ってやつだね」

「そうだね。けど、今回のこのわたしの役は、本気で好き好き光線を彼に向けて出していいから、そういう意味でも幸せなんだ」

「風香ちゃん。いまの自分の顔を鏡で見てごらんよ。まあ、そのニヤけ顔ったら......しょうもなっ!」

「あっ、ピーチって、もしかしたら妬いてるの?」

「べ、別に......」

チュッ。

風香から顔を背けたピーチのほっぺに風香の唇が触れます。

「ピーチはわたしにとって、恋人よりも大切な存在なんだからね。なんでも話せる大親友なんだから」

風香にとって、ピーチはもうすでに一番大切な存在になっていました。



撮影も無事に終わり、クランクアップの日を迎えました。

「風香さん、それじゃピーチちゃんとは今日でお別れです。いままで、ありがとうございました」

猫庭は風香にそういって頭を下げると、ピーチの入ったキャリーケースに手をかけました。

「猫庭さん。あの......私、ピーチちゃんを引き取りたいんですけど」

風香はそのキャリーケースを奪い取ろうとします。

「えっ! それは無理ですよ、風香さん。飼い主さんもちゃんといらっしゃいますし」

「だったら、その方の連絡先を教えてもらえませんか? 私が直接交渉しますから」

猫庭に聞かれないように、風香は控え室の外に出ると、廊下の隅でピーチの飼い主であるまさみに電話をかけます。

「もしもし、長崎さんでしょうか? 私、ピーチちゃんと撮影でご一緒している風香といいます」

「えっ! あの女優の風香さん?」

人気女優の風香からの突然の電話にまさみは驚きを隠せません。

「ええ、そうです。ピーチちゃんのことでお話ししたいことがあるので、できれば今日にでも会えませんか?」

「ビーチのことで? どのようなお話ですか?」

「できればお会いして、直接お話ししたいのですが......」

「わかりました。今日はいまから帰るところなので、大丈夫です。お会いできます。それでどちらへ伺えばよろしいんでしょうか?」

「私のマンションまで来ていただけますか?」

「それは大丈夫ですけど。風香さんはいいんですか? 私に住んでるところなんか教えて」

「大丈夫です。だって、ピーチちゃんの飼い主さんですから。まさみさんですよね? ピーチちゃんからまさみさんのことはよく伺っています」

風香は周りの目を気にして声を落としました。

「ピーチから......?......! まさか、ご存じなんですか?」

「ええ、知っています。ピーチちゃんの秘密」

「......わ、わかりました」



「ま、まさみ?......」

風香にうながされて部屋に入ってきた、久しぶりに見るまさみの姿に、ピーチは唖然としています。

「ど、どうしたの? そのからだ......」

「ああ、これ? ちょっとだけふくよかになっちゃって」

「ちょっとだけふくよか、なんてもんじゃないよ。まるで別人じゃんか」

「うるさいな!」

「ピーチちゃんも、長崎さんも、喧嘩はやめてください。お願いします」

ピーチとまさみの会話を、心配そうに横で静かに聞いていた風香が口を開きました。

「風香ちゃん、気にしないで。ぼくたちいつもこんな感じだから」

「風香さん。私たちお互いに遠慮しないでなんでもいい合える仲なので......すみません、驚かせちゃって」

まさみは、ピーチの働きのおかげで、自分が食べたいと思ったものを、値段を気にすることもなくなんでも口にすることができるようになったものだから、調子に乗って毎日のように好きなものを好きなだけ食べまくり、その結果、以前よりふた回りくらい太ってしまったのでした。

「長崎さん、私、ピーチちゃんと別れたくないんです」

「はい?......」

「それで、できれば......ピーチちゃんを譲って欲しいんです。お金はお支払いしますから」

「いいえ。譲るとか、お金なんかの問題じゃなくって......。それでピーチはどうしたいの?」

「うーん......そういわれても、困るよ......」

「そう。あんたも風香さんと別れたくないんだね?」

まさみにそういわれて、ピーチはふたりの顔を交互に見返します。

風香は天使のような微笑みを湛えています。どこからかいい匂いを纏ったそよ風が舞い込んでくるようです。

一方で、眉間に皺を寄せたまさみのその表情は、太りに太ったいまのまさみの体型も相まって、ピーチから見たら、さながら大怪獣のようです。
どこからともなく、ガラガラガッシャーン、と建物を破壊しまくる効果音が聞こえてきそうです。

「ピーチが風香さんと一緒にいたいんなら、そうすればっ!......」

困り顔のピーチにまさみは声を荒らげてそういい捨てました。

「まさみ、そんなに怒らないでよ......」

「私、あんたの女好きはいやっていうほど知ってるし、風香さんより可愛い女の子なんて、そんじょそこらにはいないんだから。ピーチがしたいようにしていいからね」

「ピーチちゃん、お願い。私と一緒にいてくれるよね?」

風香の、そのつぶらな瞳に涙を湛えた、すがりつくような表情に、ピーチは覚悟を決めました。

「まさみ、ごめん。ぼく、もうしばらくの間だけ風香ちゃんと一緒にここにいていいかな?」

「......もうしばらくの間だけ? 別にずっとでも私は構わないけどっ!まあ、あんたのダメダメなところに風香ちゃんが愛想を尽かさないといいけどねっ!」

「ぼく、まさみのところに必ず帰ってくるから」

ピーチは申し訳なさそうにまさみを見上げています。

「長崎さん、まさみさんってお呼びしてもいいですか?」

「はい。私は風香ちゃんって呼んでいい?」

「はい。まさみさん、ピーチちゃんは大切にお預かりしますから」

そういって風香はピーチを抱き上げると、腕のなかにしっかりと抱きしめました。

「もうすっかり風香ちゃんに馴染んでるんだね、ピーチ......」

風香の胸に顔を埋めて、安心し切った表情のピーチを見たまさみの胸が、チクっと痛みました。

「じゃあね、ピーチ。元気でね」

まさみはピーチの頭を撫でながら、寂しそうです。

「ピーチのことでわからないことや、困ったことがあったらいつでもいってください」

まさみは感謝のことばを何度も繰り返す風香にそういうと、笑顔を作ってふたりを後にしました。




「風香ちゃん。好きなら好きって、そこは彼にはっきり伝えないとダメでしょ!」

「だって、事務所からは二十五歳になるまでは恋愛禁止だっていわれてるし。もし、私が告白して、彼に断られたらって思うと、無理だよ。自分からは絶対にいえない」

出来上がった映画の宣伝で、風香が思いを寄せる彼と一緒に過ごせていた時間も、明日で最後という日の前夜、ピーチと風香は激論を交わしていました。

「二十五歳って......そんなの馬鹿げてる。そんなことで自分の想いに蓋をするなんておかしいよね。そりゃわかるよ。風香ちゃんにはたくさんのファンがいる。けど、風香ちゃんの幸せの後押しをするのが、本当の風香ちゃんのファンっていうもんじゃないの?」

「そうあって欲しいとは思うよ。思うけど......」



「まさみ、久しぶり」

「ピーチ、元気そうでよかった」

風香の部屋まで迎えに来たまさみに連れられて、ピーチは三か月ぶりに懐かしい我が家に戻ってきました。

「すっかり痩せたんだね、まさみ」

「うん、かなりね。まえにピーチに会ったときから、たぶん二十キロくらい痩せたと思う」

「どうしたの? ダイエットしたの?」

「うん、頑張ってダイエットしたんだ。偉いでしょ?」

まさみは自分が太ったせいで、風香にピーチを取られたんだと思い込んで、一念発起、好きな食べ物を我慢して、嫌いな運動にも精を出して、短期間で目に見える結果を出したのでした。

「うん、すごいね。すっかり見違えちゃったよ」

「風香ちゃんと比べてどうよ? いい勝負じゃない?」

「えっ! 風香ちゃんと比べて?......」

「なに、その顔は?」

「いや.....」

『女優の風香ちゃんと比べたらそんじょそこらの美人さんでも太刀打ちできないのに、ましてや、まさみが.....』なんて、ピーチは決して口にできません。

「そうだね、いい勝負だと思うよ」

「でしょ、でしょ。職場の年下の男の子からこのまえ食事に誘われたんだ。しかも、彼って結構イケメンなの」

まさみはドヤ顔で、鼻の穴も若干膨らんでいます。

「よかったじゃない。それで彼といっしょにどこかへ行ったの?」

「一度だけ食事に行ったよ。けど、割り勘だったのよ。普通女性を誘ったら、男の奢りじゃないの?」

「今どきの男の子なんじゃない?」

「あんなせこい男は真っ平ごめんだわ」

まさみは手のひらをヒラヒラさせて、呆れたように吐き捨てました。

「でも、まさみに久しぶりに会えてうれしいよ。今日からまたよろしくね」

「まあ、しょうがないよね。私にはこうなることはわかってたけどね......」

風香はピーチの後押しもあって、思いを寄せる憧れのあの俳優に自分の気持ちを勇気を振り絞って伝えたのです。
すると、彼も、風香の告白に真剣に向き合ってくれ、程なく、ふたりはお付き合いを始めたのでした。

「まさみはなんでもお見通しなんだね」

「だって、ピーチのその口の悪さにまともに付き合えるのは私くらいのもんじゃない?」

「違うって。風香ちゃんの彼氏が猫アレルギーなんだから、しょうがないでしょうよ。彼が風香ちゃんの部屋に遊びに来たとき、くしゃみが全然止まんなくて大変だったんだから」

風香が彼のところへお泊まりすると、ピーチのお世話ができなくなります。
風香の生真面目な性格上、ピーチをひとりっきりにはできませんでした。
かといって、猫アレルギーの彼をピーチのいる自分の部屋に呼ぶこともできません。

よく考えた末、風香は泣く泣く、ピーチをまさみのもとに返すことにしたのです。

「まあ、これも運命ってやつだね、ピーチ」

「まあ、確かにそうだね。ぼくの記憶では、二回目の猫生をまたまさみと一緒に過ごすことになったんだから。『二度あることは三度ある』っていうしね」

「えっ! 私、三度目は丁重にお断りさせていただきます」

「なんでだよ!」

「私、猫ちゃんとは一緒にいたいと思うけど、今度は普通の猫ちゃんがいいな。人のことばを話さない、普通の可愛い女の子がいい」

「なに、それ! まさみに付き合ってやれるのはぼくくらいのものなんだから。そこらへん、いい加減自覚した方がいいと思うよ」

「......まあ、そんな先のことを考えてもしょうがないでしょ。ところでピーチ。今晩さ、なんか食べたいものある?」

まさみは話をはぐらかすように、夕飯の話を持ち出しました。

「そうだね......久しぶりにまさみのケチケチカレーが食べたいかな」

「えっ! そんなんでいいの? もっと高級なものを食べてもいいんだよ。ピーチがいっぱい稼いでくれたおかげでお金にはかなり余裕があるから」

「大丈夫。風香ちゃんがおいしいものをいっぱい食べさせてくれたから」

「あんた、腎臓の方、大丈夫でしょうね? 忘れてないよね? このまえ、あの怖い顔の獣医さんからいわれたこと」

「それはきっと大丈夫だと思う。風香ちゃんって薄味だし、基本ベジタリアンだから。ぼくもそんなに肉とかお魚とか食べてなかったし、だいたいはカリカリですませていたから」

「あら、風香ちゃんには私みたいにわがままいわなかったんだ。猫のベジタリアンってちょっと想像もつかないけど。いったいどんなものを食べてたのよ」

「だいたい、バーニャカウダが多かったかな。あれってすこし熱いから、風香ちゃんがふうふうして冷ましてくれて、ぼくのお口にすこしずつ運んでくれるんだ。まるで、恋人になったような気分だったよ」

「恋人ね......風香ちゃんに新しい恋人ができて、ポイっと捨てられちゃった、もと恋猫のピーチって......」

まさみは薄ら笑いを浮かべています。

「な! なんでそんな意地悪なことをいうの」

ピーチはいまにも泣き出しそうです。

「冗談だよ、ピーチ。もともとずーっとじゃなくて、しばらくの間だって約束だったでしょ。そのときが来たってことだよ」

「そうだね。けど、風香ちゃんって本当に素敵な女性だったな。風香ちゃんといっしょに過ごした日々はぼくの宝物だよ」

「まあ、二度とこういうことはないとは思うけどね」

「わかんないよ。また、映画やテレビのお仕事で共演した女優さんから、風香ちゃんと同じように、『ピーチちゃんと別れたくないんです』っていわれるかも」

「それは絶対にない」

「なんでそういい切れるの?」

「それはね......動物タレント事務所はすでに退所したので、ピーチにはもう二度とそんな仕事はやってこないからでーすっ!」

まさみはフフっと冷ややかな笑みを浮かべると、早口で吐き捨てました。

「えっ! ぼくになんの相談もなく、なんで?」

「だって、風香ちゃんだったからよかったけどさ。他の人だったらピーチが人のことばを話せるってこと、動画にでも撮られて、今ごろ世間にバレてたかもしれないでしょ? あんたが自分からすすんで人のことばを話せるってこと、風香ちゃんにバラすんだもの。もし、そうなっていたら、あんた、冗談抜きで、どこかの研究機関のモルモットにされていたかもしれないじゃない」

「モルモット?」

「だって、人のことばを話せる猫だよ。誰だって頭のなかはどうなってるんだろう?って興味が湧くじゃない。切り刻まれて、あらバーラバラ、なんてことになるのは目に見えているよ」

「そんな恐ろしいこといわないでよ」

「バーラバラっ!」

まさみは意地悪な目つきで同じことばを二回繰り返しました。花咲か爺さんよろしく、バラバラになったピーチのからだを撒き散らすジェスチャーも入っています。

「まあ、それは冗談として。風香ちゃんはちゃんと約束してくれたんでしょ? ピーチの秘密は誰にも漏らさないって」

「うん。絶対、誰にもいわないって。『そんなことをいい出したら、みんなからこいつ頭がおかしいんじゃないかって疑われて、きっと仕事がなくなっちゃうと思う』って風香ちゃんはいってたけど」

「まあ、確かにそうだろうね」

「だから、それはきっと大丈夫」

「ピーチ、ちょっとこっちに来て」

「なに?」

「あんた、風香ちゃんの部屋で私か風香ちゃんを選ぶとき、変な目つきで私を見てたよね。私が太っていたからあんな目してたんでしょ?」

『す、鋭い......』

ピーチはあのとき、『まさみは大怪獣みたいだ』と心のなかで思っていたのでした。

「こめん、すこしだけそう思ったのは本当だよ。ごめん......まさみ。けど、それで風香ちゃんと一緒にいたいって、いったんじゃないからね」

「まあ、私だって、あんな可愛い風香ちゃんと一緒に暮らせるなんてことになったら、小躍りして喜ぶのはきっと間違いのないことだと思うし」

「だよねーっ!」

そのことばに、まさみは一瞬ピーチを睨みつけました。
そして、すぐに柔らかい微笑みを浮かべると、優しくいいました。

「じゃあ、ピーチのリクエストのケチケチカレーを作るとしますか。私、ちょっとスーパーまで買い物に行ってくるから、ピーチはここでお留守番していてくれる?」

「まさみ、ぼくをリュックのキャリーケースのなかに入れてくれる? ぼくも一緒に行きたいんだけど」

「店の外で待ってないとダメだけど、それでもいいの?」

「それでもいいよ。あのさ、あのいつものお肉屋さんで、おやつにメンチカツを買って、河川敷の土手で食べようよ」

「いいね」



「おいしいね、ピーチ」

「おいしいね、まさみ」

ふたりは河川敷の土手に並んで座っています。

「けど、まさみ。そのメンチカツ、何個目だっけ?」

「んーっ......三個目かな」

「いったい何個買ったの?」

「五個買ったよ。ピーチにひとつと私に三個。一個はあとからピーチと私で、はんぶんこずつカレーに入れて食べようよ。だって、四っていう数字、私嫌いなんだもの。なんか不吉なことが起こりそうでさ」

河川敷に吹き渡る、茜色に染まった風がふたりの頬を撫でていきます。

「まさみ、食べ過ぎだって。それだけでお腹いっぱいになっちゃうよ」

「まえよりかなり痩せたんだから、ちょっとくらい食べたって大丈夫だって。今晩はふたりでカレー祭りだ」

「なにそれ?」

「ケチケチ、ケチケチ、ケチケチカレー。ピーチと食べれば幸せいっぱい、お腹もいっぱい。どんなお金持ちなんかより、心は豊か。この世界で一番幸せ」

そう下手なラップ調の歌を口ずさみながら、ピーチを抱き寄せたまさみは、人目もはばからず泣き出しました。

「えーん.....寂しかったよ、ピーチ。もうどこにも行かないでね」

「まさみ......」

ピーチは、『まさみにこんなに愛されていたんだ』と感慨深気です。

「ま、まさみ。メンチカツのソースが口についてるから。キスしようとしないでよ」

ピーチは前足で踏ん張って、まさみの胸を押しやろうとしています。

「いいじゃん」

まさみに無理矢理ソースまみれの唇で鼻を包むようにキスされたピーチの、鼻と唇はソースで汚れてしまいました。

「勘弁してよ、まさみ」

「もう一回っ!」

そのことばに、ピーチは風香が初めてキスしてくれたときのことを思い出していました。

「風香ちゃんって、本当に可愛い女性だったよね......」

「ん?......ピーチ、いまなんかいった?」

「い、いや、別に......」

ピーチの鼻についたメンチカツのソースの匂いが、風香との思い出を上書きしていきます。

風香と比べて決して可愛いとはいえない、目のまえのまさみの顔をまじまじと見つめながら、ピーチはしみじみと思います。

『ぼくって、本当に幸せだな』



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