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『サザンクロス ラプソディー』vol.32

「ヤマ、わたしの夫のジェムよ」

「こんにちは。初めまして、ジェムさん。僕はコウヘイ・ヤマガミです。ヤマと呼んでください」

「初めまして、ヤマ。私たちの家へようこそ。私はジェム・バヤル。ジェムと呼んでもらえるかな」

「部屋を見もしないで住むことを決めたのはあなたが初めてよ」

キャロルはそういってすこし驚いていたが、俺としては、まえに日本人が何人も住んでいたところなら、ぜんぜん問題ないだろうと考えてのことだった。

この家のオーナー夫妻は、俺が見上げないといけないくらいどちらもかなり大柄だった。ふたりにうながされてなかに入ると、ひとりの真面目な顔つきの男がソファからすっと立ち上がり、挨拶してきた。彼は自分ことを『ジョージ』と名乗った。この男もかなり背が高い。イギリスに住んでるひとたちはみんなこんなに大きいのか、と俺はすこしだけ驚いた。

キャロルはパブで話したときとまったく印象が違って、フランクな性格のようだった。旦那さんのジェムは常に微笑みを絶やさず、優しそうなひとに見えた。

まず家のなかをキャロルに案内してもらった。あたりまえのことだろうが、きれいに掃除が行き届いていて、見た感じは清潔そのものだった。

俺の部屋は一階奥のバスルームの近くで、ワードローブ、机と椅子、デスクライト、それとダブルベッドが置かれた簡素なものだった。

なぜか机の上に大きいガラス製の灰皿が置かれていた。

「ヤマは私に負けないくらい煙草を吸うみたいだから、それくらい大きい灰皿じゃないといちいちきれいにするのが面倒でしょ」

俺がそれに気づいて指先で灰皿に触れると、キャロルはそういって笑った。

このまえパブでキャロルと話したわずか十分くらいの間に、座るなり煙草に火をつけたキャロルにつられて、俺も同じく煙草を二本吸ったことを彼女は覚えていた。

それでキャロルは気を利かせて大きめの灰皿を用意してくれたのだろう。
訊ねると、ジェムもキャロルもヘビースモーカーだという。
なんだかそれを聞いただけで気が楽になった。

俺のあとに住むひとは大丈夫なんだろうか? と一瞬そんな考えが頭を過った。
けれどせっかくのご厚意だ。
遠慮なく部屋で煙草を吸わせてもらおう。

「私はホテルで働いている。仕事時間はシフト制だから、その日によって出勤時間が違うんだ」

「わたしはだいたい朝の十一時から夜の八時まで働いているの。ジェムとは違ってほとんど同じ時間だから」

ジェムはトルコ人で、ホテルのフロントで働いていた。キャロルはイギリス人で、俺が面接を受けたパブで働いている。

ジェムからこの家に住むにあたっての決まりごと、約束ごと、契約書にも書いてあることで重要なことだけを、ひとつひとつ確認するように説明された。

「ヤマはこの家に二か月間の契約で住むことになっている。もし、それ以上住むのであれば、最低一か月まえまでにはそのことをマユに伝えてほしい。それより早く出て行くときは、わかった時点で同様にマユに伝えてくれないか?」

「わかりました」

そうだった。俺はここに最低二か月は住むつもりだったんだ。ホテル住まいよりは格安だからと思っていたが、それより早く出て行くことになれば、デポジットは返却されないばかりか、話し合いによっては、それ相当の家賃は支払わなければならないだろう。

「からだの不調を感じたら、すぐにお医者さまに診てもらうこと」

俺はこのあと何日か経って、ジェムたちのホームドクター(かかりつけ医)を紹介された。

「夜遅く、午前零時を過ぎて帰ってくるときは、かならず連絡すること。じゃないと、なにか事件か事故に巻き込まれたんじゃないかと心配するからね」

「はい、わかりました。そんなに遅く帰ってくることはないとは思いますけど」

慣れない土地で人気のすくない時間に出歩くことの危うさは、俺は身をもって知っている。以前、午前零時を過ぎた頃、シルビアの家から帰宅途中、ナイフを持った男から追いかけられたことがあった。
このときは、その男はかなり酔っ払っていたらしく、俺が全力疾走で逃げたらあきらめて追いかけてこなかった。それでことなきを得た。そんなことがあった。

「家のなかでは騒いだりしないこと。部屋で音楽を聴くときはヘッドホンかイヤホンを必ず使用すること」

「騒ぐことはないと思います。突然踊り出したりする変な癖は持っていませんから。それにラジカセなども持っていないので、部屋で音楽を聴くこともありません」

「それならよかったわ」

俺がそういうとキャロルは安心したように微笑んだ。
ふたりが一緒に暮らしてきた日本人たちは問題を引き起こすことがほとんどなかった。ただ一つを除いて。

部屋で彼らは日本の音楽を聴くことが多かったという。ジェムやキャロルにとっては耳慣れない日本語の歌だ。大音量ではないものの、かなり耳障りだったらしい。
それでそのことを注意すると、皆一様に悲しそうな顔をして謝ったという。

「たぶん彼らはホームシックにかかっていたんだと思う」とキャロルは同情するようにいった。

「私たちに断りもなく、友人を招き入れないこと」

「それは大丈夫だと思います。いまのところはここに来たばかりで友だちもいませんし。でも、わかりました。気をつけます」

そういいながらマユのことが一瞬俺の頭を過った。

「現金などを部屋のなかに置きっぱなしにして外出しないこと。私たちは盗難に関しては一切責任が取れないからね。貴重品などの管理は自分でしっかりやってもらえるかな」

「ええ、もちろん」

いつなにが起こるかわからない、だからパスポートはいつも持ち歩いている。
トラベラーズチェックくらいは部屋に置いておきたかった。しかし、俺はそのことばに従うことにした。

「食器類は使ったらすぐに洗って水分を拭き取り、食器棚のもとにあった場所に戻してもらえるかな」

「自然乾燥のほうがよくないですか? 何枚も続けて拭くと水分を取りきれず、その残った湿気が食器棚にこもってしまうのではないですか?」

食器棚は普段は閉め切っている。だから湿気がこもると思わぬところにカビが発生したりする。

「いや、食器は使い終わったらそのあとすぐに洗って、きちんと元にあった場所に戻してくれ」

「わかりました」

まあ、確かに自然乾燥に任せておくと、水垢がつく原因にもなる。

「部屋のなかはなるべく整理整頓しておくこと。それと、一週間に一度はかならず掃除機をかけて、拭き掃除をすること」

「もちろん。それはあたりまえのことです。あとから掃除機と掃除用具の場所を教えてくださいね」

「それから、バスルームの使用時間を決めておきたいんだが、希望の時間はあるかな」

「できれば僕は朝に使わせていただきたいんです。一度外出すると、帰ってくるのはたぶん夜の八時過ぎくらいになると思うので」

三人で話し合って、結局俺は朝の八時半から九時半の間にバスルームを使わせてもらうことになった。
もちろんそれ以外の時間でも空いていれば使っていいといわれた。

「とりあえずはこれらが主に注意してもらうことだ。他にもいくつかあるけれど、それらは契約書に書いてあるから、かならず目を通しておいてくれ。いろいろ細かいことをいうと思うかもしれないけれど、お互いに気持ちよくこの家で過ごすために必要なことなので、どうか君の協力をお願いしたい。いいかな?」

「もちろんです。すべてきっちり守りますよ、ジェム」

「ありがとう、ヤマ」

俺は彼らの友人というイギリス人のジョージのことがすごく気になっていた。
彼は俺が来るこの日に合わせてわざわざやってきたのだという。
お互いに名前を名乗り、「初めまして」と挨拶を握手を交わしたあと、ひとことも話をしていなかった。

ジョージは背が高く、手足も細く長い。顔は面長で、色が異常に白く、見るからに神経質そうだった。
Vネックのセーターから覗く白シャツのボタンは、一番上まで留められていた。

俺たち三人の話がひと通り終わったところで、その彼がやっと口を開いた。

「君はオーストラリアから来たんだよね。あの地へは囚人たちが開拓のためにここイギリスから送られたんだ。知ってる?」

彼は開口一発こういい放ったのだ。
よっぽどこの話がしたかったんだろう。

「もちろん、知ってますけど。だから、なんでしょう?」

しかし、いったいいつの話だよ? もうかれこれ二百年以上まえの話だよな。

「だから、あの国に住んでいるひとたちの多くは罪人の子孫だってことだよ。一部の家系を除いてね」

「そんな昔のことをなんでいま俺にいうんです」

俺はかなりムカついていた。

『なんだよ。罪人の子孫って?......』

俺はそのことばにかなりの違和感と、怒りを覚えた。

『俺が大好きなオーストラリアの悪口をいうな!』そういってやりたかったが、これからお世話になる夫婦の手前、俺はそのことばを呑み込んだ。

俺の強い口調と、そのあとの俺の不機嫌そうな態度に居た堪れなくなったのか、それとも俺に興味がなくなったのか、ジョージは早々に帰って行った。



「契約のためにもう一度事務所に来ていただけますか?」

キャロルとマユの都合で、契約書に署名するまえにシェアハウスに住むことになった俺は、マユからそういわれて仲介会社の事務所をふたたび訪れていた。

「こんにちは!」

ドアを引き開けてなかに入ると、黒人のおばさんと、こまっしゃくれた黒人の男の子が、同時に俺のほうに視線を向けた。
そしてマユになにやら小声でいうと、意味深な微笑みを浮かべている。

このまえここを訪れたときには、俺にまったく興味を示さなかったあのふたりの無愛想さとは真逆の態度だった。

「こんにちは、山神さん。すみませんね、何度も来ていただいて」

「いいえ、いい家を紹介していただいて、ほんとうにありがとうございました」

ふたりと話していたときマユが浮かべていたその無防備な可愛らしい笑顔は、俺を見た途端、一瞬にしてビジネスライクな冷たい表情に早変わりした。
その可愛らしさのままで、と俺は思ったが、もちろんそんな願いがマユに届くことはなかった。

「どうぞこちらへ」

「はい、ありがとうございます」

マユにうながされて黒い革張りのソファに腰かける。

「この書類にご署名をお願いします」

ガラス製のローテーブルの上に広げられた何枚かの書類に署名を求められた。

オーストラリアでの暮らしは結構長かったし、英字の署名に関してはいい加減に慣れてもよさそうなものだが、俺はいまだにこれに慣れない。

気のせいか、ペンを持つ手が若干震えているようだ。

「なんか、緊張します」

「そうですか?......」

マユの魅力的なふたつのアーモンドアイでじっと見つめられたら、そりゃ震えるってもんだ。
けれども、そうじゃない。

実は、なぜだかわからないが、署名をするたびにすこしずつ書いている字が変わってきているような気がするのだ。
書き慣れてそれらしくなっているのか、それともただ単に雑になっているのか、それは俺にもわからないが。

以前、俺がまだシドニーにいたときに、銀行で預けた金を、担当のバンカーが誤って赤の他人の口座に振り込んだことがあった。そのときはなんとかその金を取り戻すことができたんだが、「書類にしてある署名が、通帳に登録されてあるものと同じとは思えない」と指摘されて、俺がその口座の本人であることを証明するのにかなりの時間と労力を要したことがあったのだ。

原因のひとつは、オーストラリアの銀行の通帳の登録にする署名だから、もちろん英字で書かなければならなかった。

印鑑登録制度があるのは、日本を含め、中国、韓国、台湾の四か国だけだ。
だから、海外では普通、契約書には署名だけを用いる。

書き慣れていないと後で苦労するかもしれないと思った俺は、しばらくの間、必死になって英字の署名の練習をしていた。
そのせいで最初に書いた筆跡とはまったくの別物になってしまったのだった。

「これで手続きは以上です。なにか困ったこととかありましたら、ご遠慮なくお電話ください。いつでもご相談に乗りますから」

「はい、ありがとうございます」

マユは相変わらず固い表情を崩さず、事務員然とした態度で仕事を淡々とこなしている。
これはこれでクールビューティーぽくってかなりイケていた。
けれども、さっき一瞬垣間見た、ひと懐っこい笑顔のマユのほうが俺は好きだった。

マユはどこからどう見ても、美人さんだった。
日本では男の子たちが放っておかなかっただろう。

このロンドンにはいまのところ、マユと、女店員のマリアンヌと、いまお世話になってる家主の夫婦と、どうでもいいジョージ以外に俺には誰も知り合いがいなかった。
それで、マユの佇まいがどこかマリコを思い出させるものがあって、なぜか惹かれるものを感じていた。といっても、マリコに感じたようにビビッときたわけではなかったが。

このロンドンで待ち合わせをしていたユウカのことはすっかりどこかへ消し飛んでしまっていた。薄情かも知れないが、ユウカはここには来ないといった。
ここでしばらく暮らすのであれば、俺はなにごとも全力で楽しみたい。

「マユさん、よかったら今度お食事でもご一緒できませんか? ロンドンのことについてもいろいろ教えてもらいたいし」

俺はそういってマユをストレートにデートに誘ってみた。

「......でも、私、ここには語学の勉強に来ていて、遊びに来ているわけじゃないんです」

マユは俺の突然のデートのお誘いにかなり戸惑っている様子だった。
そしてマユは助け舟を求めるように後ろのふたりを振り返った。

「マユもたまには羽目を外さないとダメだよ。勉強ばかりやってたら息が詰まっちゃうよ」

黒人のおばさんのこのことばに背中を押されるように、マユは俺とのデートを渋々了承してくれた。

そして俺たちは会う約束の日時だけを決めた。どこへ行くのか、なにをするのかは、俺からお願いしてすべてマユに丸投げした。

「それは男性がやってくれないと、ね......」

黒人のおばさんはそういって俺を責めた。

「だって、俺、ロンドンのことなんてなんにも知らないんだもん。だから、お願いします」と俺はできるだけ可愛くふたりにいってみた。
黒人の少年はあきれたように俺の顔を見つめている。

「わかりました、考えておきます」

マユは困惑の表情を浮かべていた。

『なにいってんの、全然可愛くないからっ! そんなの男がエスコートするもんでしょ』

俺にはマユのそんなこころの声が聞こえたような気がした。


〈続く〉




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

話は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。

尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。

今回のこの作品は、1990年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。


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