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『おれ、カラス 七夕の奇跡』最終話(全三話)

土曜日。やまちゃんは、すずに連れられて、すずの故郷に来ていました。

「やまさん。あれが私が通っていた小学校」

「黄色い帽子を被ったすずが、赤いランドセル背負って、学校まえの横断歩道を手を上げて渡っているのが目に浮かぶよ」

「やだ、やめてよ。変な想像するの」

「そんな小さかったすずが、いまではこんなに大きくなって。あんなことやこんなことを、そつなくこなせるようになってる。人間って成長するもんなんだな」

あんなことやこんなこととは、夜の営みのことです

その会話を耳にしたタクシーの運転手は、炊事、洗濯、掃除などの家事のことだと思っています。

「やめてよ、やまさん......」

すずは耳まで真っ赤です。

やがてタクシーは、すずの実家のまえに着きました。

合鍵を持っているすずは、やまちゃんを外に待たせて、ひとりで家のなかに入っていきます。

「パパ、ただいまっ!」

「おっ! すず。どうした、突然?」

昼食を食べ終えたばかりのすずの父親の大和は、台所で食器を洗っていました。

「パパ、大丈夫なの? 会社ずっと休んでるって」

「誰から聞いたんだ、そんなこと」

「叔母さんから」

「あいつ、また余計なことをいいやがって。『すずにはいうなよ』ってあれほど口止めしたのに」

「叔母さんを責めないでよ。それより、なんで私に教えてくれなかったの? このまえ電話で話したときは、そんなことひとこともいってなかったじゃないの」

「教えれば、すずのことだ。こうなるのは目に見えていたからだよ」

「そりゃ、そうだけど......」

大和は、ただただ、すずに心配をかけたくなかったのです。

「それより寝てなくて大丈夫なの?パパ」

「ああ......体調の方は大丈夫なんだが。ちょっと精神的に参っててな」

「どういうこと?」

「それがな......会社でな、新入社員の教育係のサポートを頼まれていたんだ。それで、担当の中堅社員の手が回らないときに、良かれと思って新入社員にアドバイスをしたんだよ。そしたら彼は、『それって、以前のやり方ですよね。すでに違うやり方を教えてもらいましたけど。だいたい、パソコンもまともに使えない人が、僕にアドバイスできることがなにかあるんですか?』って、逆ギレっていうんだっけ? されてな」

「そんなことがあったんだ......」

「俺も、パソコンは、講座に通って勉強もしたんだよ。けれど、やっぱり性に合わないっていうか、なんかな......」

「デジタルネイティブの私たちの世代とは違って、手書きの書類が当たり前だったパパの世代はそうだと思うよ」

「それで、これからどうするのかを、すこし考えてみたくなってな。会社を休ませてもらっている」

「そうだったんだね。それも大変なことだと思うけど、とにかく、パパが病気とかじゃなくてよかった」

「すまんな、すず。心配かけたみたいで」

「けど、すこし安心したよ、パパ。それでね......実は今日ね、パパに会ってもらいたいひとがいるんだ」

「うん......友だちか?」

「実は......いま付き合ってる男のひとなんだけど......」

「すずが恋人を俺に紹介するなんて、初めてだな。それで、その彼はいまどこにいるんだ?」

「外で待ってもらってる」

「なんでそれを先にいわない。すぐになかに入ってもらえ」

「うん、わかった。じゃあ、ちょっと待っててね」

やまちゃんは、プチさんと玄関の外で、すずの実家をぼんやりと眺めながら待っています。

今日、やまちゃんは、カジュアルスーツでばっちり決めています。
すずが、父の大和にあまり堅苦しい印象を与え過ぎないように、やまちゃんのためにコーディネートしてくれたものです。

やまちゃんは、サンタクロースから、「なにかの役に立つじゃろう」とかなりまえの時代の、金貨などの古銭を手渡されました。裕福な家の子どもたちのなかには、サンタクロースへの願いごとを書いた手紙と一緒に、金貨や銀貨を同封してくれる子どもたちがいました。サンタクロースは、『プレゼントにお金が欲しい』とお願いされたとき、それらを贈ろうと思っていました。しかし、『プレゼントにお金が欲しい』などと、お願いごとをする子どもは、結局ひとりも現れませんでした。

やまちゃんは、プチさんと相談して、それらの金貨や銀貨を専門業者に買い取ってもらいました。
すると、かなりの額の現金に替えることができました。

それをやまちゃんは、必要なときに必要なだけ使っています。
普段はすずに見つからないところにしまってあります。

「プチさん。なんか俺、緊張してきたよ」

「そりゃそうだろうよ。話の流れだと、『すずさんと結婚を前提にお付き合いをしています』って頭を下げて、すずのパパにそれを認めてもらわないといけないんだからな」

「あーっ、おしっこしたくなっちゃった」

「おい、カラスじゃないんだから、そこらへんでピッピッってやるんじゃないぞ」

「やりたい気分だけどな」

やまちゃんは、そういいながら、どこかにいい場所はないかな、とズボンのファスナーに手をかけています。

「だから、やるんじゃないって」

突然、玄関のドアが開きました。

「やまさん、お待たせ。なかに入って。いま誰かと話してた? 声が聞こえたけど」

「いいや、空耳だろ」

プチさんは、すずの目のまえにプカプカと浮かんでいますが、もちろんすずにはプチさんの姿は見えません。

家のなかに案内されたやまちゃんは、すずにうながされて、大和と挨拶を交わします。

「パパ、山神公平さんです」

「初めまして。山神です」

「山神さん......初めまして。すずの父親の大和です」

居間の長テーブルをまえに、大和と向かい合う形で、やまちゃんはすずと並んで慣れない正座をします。

緊張のあまり喉がカラカラだったやまちゃんは、出されたお茶を飲もうと、湯呑みに手を伸ばします。
すると、茶托がテーブルの上でカタカタと音を立てました。
やまちゃんはすこし震える手で、湯呑みのふたを取ります。
その瞬間、ふわっと、大和が淹れてくれた玉露のいい香りがして、やまちゃんの緊張をすこしだけほぐしました。

大和は、すずが小学五年生になってお手伝いをしてくれるようになるまで、家事のすべてを、すずの母が亡くなってからずっとひとりでこなしてきました。
すずが家を出てからも、家のことはすべて自分でやっています。
おいしい玉露を淹れるなんて、大和にとっては朝飯前です。

やまちゃんが、もじもじしながら話し始めようとするのを、すずは、「私に話をさせて」とやまちゃんのことばを遮りました。

すずは、やまちゃんが先月仕事を辞めたばかりで、現在無職で、仕事を探していること。まえの仕事のこと。それとまだ一週間ほどですが、一緒に暮らしていることなどを詳しく大和に話しました。すずは、同棲していることについては「黙っていて、ごめんなさい」と大和に謝りました。そして、半年ほどまえに、ふたりがすでに出逢っていたことも伝えました。

ひととおり、すずの話を聞き終えた大和は、柔和な顔つきでうなづいています。
すずの話しぶりから、すずがふたりの将来について真剣に考えていることが、大和には十分過ぎるほど伝わってきました。

大和は、やまちゃんが無職だと聞いても、まるで気にしていません。
いまの時代、昔ほどには、誰もが終身雇用にこだわっていないのも知っています。

大会社にいても、無理をしてからだを壊したり、自らの命を縮めるようなことになったら、それこそ意味のないことです。

すこし疲れの見え始めた大和を気にかけるようにすずは、「パパ、眠たいんでしょう? 私たちのことは気にしなくていいから、すこし横になって」とからだを休めるように大和にいいました。

「飯を食うと、最近ではすぐに眠くなってな。すまんがすこし横にならせてもらうな」

大和は眠たそうに目をこすりながら、自分の部屋に戻っていきます。

すずは、この家を出て十年以上経ったいまでも、そのままにしてある自分の部屋に、やまちゃんを案内します。
やまちゃんを勉強机の椅子に座らせると、すぐ横のベッドの縁に腰かけました。
そして、アルバムを開くと、幼いころからの自分の写真を、順を追って説明していきます。

そこには、すずの母の姿もありました。

「このひとが、すずのお母さん?」

「そう。私、ママによく似てるでしょ?」

「そうだな。顔も、笑顔が素敵なところも、よく似てる」

「ありがとう、やまさん」

すずがこの故郷でどんな風に暮らしてきたのか。そして、どんな思いですずが故郷をあとにしたのか。

すずは記憶を辿りながら、やまちゃんに話して聞かせました。

そして、二時間ほど経ったころ、大和が部屋のドアをノックしました。

「お腹が空いただろう? ちょっと、早いが夕飯にしようか? 下で待ってるからな 」

大和はそういうと、二階の階段を降りていきます。

すずの部屋から見える、遠くの山の麓まで続く水田は、西日に照らされ光り輝いています。
外はまだ明るいものの、時刻はとっくに夕方近くになっていました。

「大したおもてなしもできないが」と、大和はお寿司を出前で取ってくれました。

「酒はいける口か?」

そういいながら大和は、やまちゃんのグラスにビールを注ぎます。

「ありがとうございます。変わった味がします。苦いですけど、おいしいです」

やまちゃんがビールを飲んだのは、これが初めてでした。

「ビールを飲んだことがないのか? 山神くん」

「ええ、初めてです」

「山神くん。無理はしなくていいからな」

「お寿司、とってもおいしいです」

やまちゃんは、烏賊がたいそう気に入ったようです。まるで、親の敵のように噛んで味わっています。

「そうか、それはよかった」

すずはお茶を飲みながら、やまちゃんと大和の会話を、うれしそうに耳を澄まして聞いていました。

初めてのビールですっかり酔いつぶれたやまちゃんは、居間の隅で寝ています。

大和は、やまちゃんのその姿を見て、酒乱とかではなさそうだな、と安心しました。
普段は温厚そうに見える人でも、酒が入ると、その性格が恐ろしいほど変わる人を、大和はこれまでに何人も見てきました。

プチさんは、プカプカとやまちゃんの頭上に浮かびながら、やれやれ、と呆れ顔でやまちゃんを見下ろしています。
もちろん、すずと大和に見えないように力を使っています。

「ところで、パパ。さっきの話の続きだけれど」

「ああ、どこまで話したっけ」

「パパがアドバイスをした新入社員から逆ギレされたってところ」

「ああ、そうだったな。それで、そいつは俺のことを、古い人間呼ばわりしたんだ」

「えっ! それってひどいよ」

すずは鼻の穴を膨らませて怒っています。

「う......ん。面と向かってそういわれたときには、かなり驚いたよ。けどな......あとからよく考えてみたら、そういわれても仕方がないか、とも思ってしまったんだよな」

大和は、すずがいっていたように、他人に対して腹を立てたりすることはありません。人になにかをいわれたり、きつく当たられたりしたときには、『自分が悪いのでは?』と考え込むタイプでした。

「パパはそんなことないって。そいつがおかしい。私がそいつに文句をいってやる」

生来気の優しいすずは、こんなに声を荒らげることは滅多にありません。

「すず、落ち着いてくれ。どこの世界に、父親が勤めている会社の人間に、父親のために直接文句をつける娘がいるんだ? そんなことをされたら、俺の面子は丸潰れだろ」

「う......ん」

「それで、これは潮時かもな、と仕事を休んでじっくり考えてみたんだよ。どうするか決めたら、すずには連絡しようと思っていたんだ。そこに、すずが山神くんを連れてきた」

「ごめんなさい。連絡もせずに突然彼を連れてきて」

「いいや、それはいいんだ。それで、決心がついたよ」

「どうするつもり?」

「いまの会社は辞めようと思う。別の仕事をするかどうか、いまはまだ決めてないが。多少の貯えもあるし、あと二年ほどしたら、年金ももらえるしな。俺はひとりだから、それで十分にやっていけると思う」

「パパがそう決めたのなら、私がとやかくいうことじゃないし......」

「まあ、しばらくは、なにか趣味らしいものでも見つけてみようかな、なんて思ってる」

「パパは、ずっと働きづめだったんだし、しばらくはゆっくりした方がいいと思う。パパが病気じゃなくて、本当によかった」

幼い頃に母親を病気で亡くしているすずにとっては、それが一番の気がかりでした。

「それに、孫の世話をするのも悪くないしな」

「パパ。それってずいぶん気が早いと思うけど」

そういって頬を赤らめたすずは、やまちゃんを見やります。やまちゃんは、なにか夢でも見ているのでしょう。ムニャムニャと寝言をいいながら、幸せそうにグースカピーと寝息を立てています。



翌朝、ふたりは、大和と三人で朝食をすませると、すずの実家をあとにしました。
すずが生まれ育ったこの町を、ぶらぶらと歩きながら駅へ向かいます。

「ここは、私が大好きなケーキ屋さん。小さい頃は、パティシエになりたかったの」

「ここは、私の行きつけの美容室」

「ここが、私のお気に入りの洋服屋さん」

朝早く、まだシャッターが閉じられた通りの店を案内されながら、やまちゃんは今朝の大和のことばを思い出していました。

『山神くん、すずをよろしく頼む』

やまちゃんは、大和からそういわれたのでした。

このことばがやまちゃんに重くのしかかっていました。

『ずっーと一緒にはいられないんだよ。ああ......来なければよかった』

いつかかならず、カラスの姿に戻ってしまうやまちゃんは、すずも大和も、このままでは裏切ることになるのです。

「やまさん、やまさん。どうかした?」

足をとめて、真剣な表情でしばらく考え込んでいたやまちゃんに、すずは下から覗き込むように声をかけます。

「ああ......すず、ごめん。ちょっと考えごとをしていた」

「なに?考えごとって?」

「まあ......いろいろとな」

「いろいろって、なに? 教えてよ」

「教えないっ!」

「えーっ! ケチ。そんなひとは、こうしてやる」

そういってすずは、やまちゃんの二の腕を思いっきりつねりました。

「痛ってーっ!なにすんだよ、すず。痛いよ」

「だって、教えてくれないからだよ」

「そのうち教えるから、いまは......ごめん」

すずは、『もしかして私との結婚? 将来のことなのかな? 』と思ったのでした。

「しょうがないなあ。わかったよ。けど、近いうちに絶対教えてよ」

「うん、かならず」

「約束だからね」

すずはやまちゃんの小指に自分の小指を絡ませ、「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーますっ。指切った」といって、指をぱっと離しました。

「なんだよ、針千本飲ますって?」

「嘘をついたひとには、千本の針を、一本ずつ口のなかに入れて飲ませるってことだよ。なんだ、知らないの? やまさん」

「怖っ! すずはそんなひどいことを、俺に本当にやるのか?」

「うーん......どうだろう。けど、嘘をつかなければいいわけだし。それとも、さっきのあれ、教えてくれる気ないの?」

「だから、いろいろ考えてることが整理できたら、かならず教えるから」

「わかった。約束だからね」

すずは、やまちゃんが自分との将来についてどんな風に考えているのか、本当はいますぐに知りたかったのです。

なぜなら、大和から『すずをよろしく頼む』といわれたときに、やまちゃんは、「はい」と答えはしたものの、すずはそのやまちゃんの返事に、一種の歯切れの悪さを感じ取っていたからでした。



すずが生まれ育った故郷をあとにしたふたりは、東京のすずの部屋に戻っています。

「疲れたでしょ、やまさん」

「いや、全然。楽しかったよ。すずのパパは本当に優しいひとなんだな」

「そうなの。私、いままでに怒られたことなんてほとんどなかったから。けど、一度だけすごく怒られたことがあったの。小学生に上がったばかりの夏だったかな。その年の春先にママは亡くなっていたの。パパと私のふたりきりになった初めての夏にね、パパとふたり、家の庭で花火をやったの。喪に服していなければいけなかったんだろうけど。たぶん、パパは、ママが亡くなってふさぎ込んでいた私を、すこしでも元気づけようとしてくれたんだと思う。
私、線香花火のパチパチ弾けているのがきれいで、不思議で、ふと触ろうとしたのよ。そしたら、それに気づいたパパが私の手をつかんで怒鳴ったの。『すず、ダメだ。触るな』そういって、線香花火を私からもぎ取ったのよ。パパの手のなかで、線香花火がすこしの間、パチパチと音を立てていたのをよく覚えてる」

「すずは本当に大切に育てられたんだな」

「うん、パパには感謝しかない。けど、そんな優しいパパだから、人間関係で相当苦労してきたことも、私はよく知ってる」

「優しい人ほど、苦労するもんだよな。この世のなかってやつは......」

「だから、今回のことはすごく心配で......」

「けど......すずのパパは、大丈夫だっていってただろ」

「うん、そうだけど......」



「プチさん、俺本当にこのまま人間でいられないのかな?」

「うーん......しょうがないなあ。すずの気持ちを考えると、なんとかしてやらないとな。サンタクロースと話すのは、ここからだと遠すぎて、やり取りにかなりの時間がかかるから、俺が直接行って聞いてやるよ。いちどあちらに帰れば、たぶんいろいろ用事をいいつけられるから、すぐには戻ってこられないと思うけど、それでもいいか?」

「うん、ありがとう。頼むよ。けどプチさん、近くだとテレパシーってやつ? 便利だけど、遠くだと電話の方が早いよね」

「本物のサンタクロースが電話なんか持ってるわけないだろ。とにかく、話しかけられても、おまえの声は俺には届かない。あまりにも遠すぎるからな」

「プチさん、お願いだ。俺、このまま人間でいたいんだ。ずーっとすずのそばにいたいんだ」

「わかった、わかったから。じゃあな」



「そうか、やまちゃんは人間のままでいたいんだな」

プチさんは、サンタクロースにやまちゃんの願いごとを伝えています。

「ああ。すずと一緒に生きていきたいらしい」

「やまちゃんは、人間界で暮らす大変さも承知の上なんだな?」

「頭では理解はしているみたいだけれど、そんなの、実際にいろいろな問題にぶつかってみないとわかんないから」

「まあ、今回の件では、やまちゃんにはかなりの借りがあるからのう。やまちゃんがそう望むのなら、願いは叶えてやろう。『願いを叶える』、それがサンタクロースの使命じゃからの。頃合いを見て、魔法の効力が切れるまえに、追加の魔法をかけてやろう」

「ありがとう、サンタクロース」

「プチさんは、やまちゃんとこのまましばらく一緒にいてやってくれ。人間界のことは、やまちゃんにはまだまだわからないことだらけじゃろう。じゃから、いろいろ助けてやってくれ」

「うん、もちろん。端からそのつもりだ」



サンタクロースからの伝言を伝えられたやまちゃんは大喜びです。

「ほんとうに、本当なんだな。俺はこのままでいられるんだな」

「ああ、本当だ。ただ、まえにもいったとおり、人間として生きていくためには、いろんなことを覚えなくてはならない。サンタクロースからは、やまちゃんとしばらく一緒にいてやってくれ、と頼まれてはいるけれど、そうそういつまでも一緒にいてやれない。これからは、スパルタ教育でいくぞ。いいな!」

「俺、がんばるよ」

それからやまちゃんは、すずが仕事に出かけてから帰ってくるまでのあいだ、プチさんの指導のもと、人間として生きていくために必要なスキルを磨き続けました。

炊事、洗濯、掃除などの実生活に必要なこと。
この街に存在する様々な施設やお店が、どのようなもので、どのように利用するのか。
トラブルが起こったとき、どのように行動したらいいのか。
テレビでドラマを見たりなんかして、恋愛の機微も勉強しました。

やまちゃんは、本当にたくさんのことをプチさんから教わりました。

それと同時に、すずの父親の大和に会って以来、結婚のふた文字を強く意識し始めたやまちゃんは、すずとの絆も深めていきます。

「やまさん。このワンピース、アイロンかけてくれたの?こんなにフリルがいっぱいついてるのに、ちゃんとアイロンがけしてくれて、本当にありがとう」

「浴室の鏡のくもり、すっかりなくなって、見違えるようになってる。新品かと思っちゃった。きれいにするの大変だったでしょう?」

「うれしいな。やまさんの手料理なんて。んーっ、おいしいよ。やまさん、私より料理上手かも」

料理は、サンタクロースの分身のプチさん直伝です。美味しくないわけがありません。とはいっても、プチさんは包丁などは大き過ぎて持てないので、ああしろ、こうしろと口だけですが。

すずは、洗濯や掃除のみならず、料理まで、すべての家事を自分から進んでやってくれるやまちゃんに驚き、感謝していました。

けれど、やまちゃんと結婚して、父親の大和にできるだけ早く子どもの顔を見せたいすずは、やまちゃんが無職のままでは、なにも先へ進めることができません。

すずは、「やまさん、お仕事そろそろ探してみる?」と折を見て、それとなくうながしています。

やまちゃんは、小さい子どもたちが習うように、読み書きをプチさんから教わっていました。
驚いたことに、やまちゃんは、飲み込みが早く、プチさんから教えられたことをものすごい勢いで吸収していきます。

「やまちゃん、おまえすごいな。もとカラスだったって信じられないくらいだ。人間でも、ここまで早くものを覚えたり、理解できるやつなんて、そうそういないと思うぞ」

プチさんは、本当に驚き、感心しています。

「読み書きは、このまま続けていけば大丈夫だろう。だけど、すずと結婚するには、戸籍だけはどうしても必要だ。すずが納得してくれるなら、事実婚という手もあるだろうけど。それじゃ、すずの父親は許してくれないだろうし......」

やまちゃんも、プチさんも、お互いに顔を見合わせたまま、いつまでも解決策を見いだせないでいました。

そうやって、三ヶ月が過ぎたころ、サンタクロースからプチさんに緊急の連絡が入りました。

「やまちゃん。サンタクロースが俺を呼んでいる」

そういうと、プチさんは姿を消しました。

三時間ほど経って、やまちゃんが夕食の支度に取りかかろうとしたときに、やっとプチさんは帰ってきました。

「やまちゃん......すまん......」

「プチさん、なに? どうしたの?」

「あのジジイ、またやりやがった」

「プチさん、まさか......」

「その、まさかだ。やまちゃんの分身たちが、もとの羽毛に戻ってしまった。サンタクロースが、小人たちのフライドチキンとフライドポテトを意地汚くも全部食べてしまった。このまえの髭に戻った小人たちと同じように、やまちゃんの分身たちも、信じられないような汚いことばをサンタクロースに浴びせかけて、自分の意思で羽毛に戻ったそうだ」

「......でも、サンタのじいさん、ダイエット中じゃなかったのか?」

「ああ。かなり体重を落として、ほとんどもとの体型に戻っていたんだが......それで安心したんだろうな。すこしくらい食べても大丈夫だろう、と口にしたそのひとくちがいけなかった。あっという間に小人たちの分も全部平らげてしまったらしい。サンタクロースは、『わしは、わしは情けない』、そういいながらも、クッキー、ミルク、ライスポリッジに加えて、フライドチキンとフライドポテトもやけ食いしてたよ」

プチさんは、情けなさそうにうなだれています。

「まったく、どうしようもないジジイだな」

やまちゃんは、呆れ顔です。

「そこで、やまちゃん。物は相談なんだが、もう一度おまえの羽毛を分けてやってくれないか」

「もう一度?.......けど、俺はいま人間の姿だし、カラスじゃないし」

「だから、一度カラスの姿に戻って、おまえの羽毛を分けて欲しいんだ」

「もうずいぶん肌寒くなってきたから、羽毛もだいぶ生え変わっていると思うし。それは、いいけど......」

「すまん、本当に助かる」

プチさんは、安堵のため息を漏らします。

「けど、そのあとすぐに、また人間に戻してくれるんだろうな?」

「それなんだが......」

「なんだよ、無理なのか? じゃあ、ヤダ」

「一度カラスから、人間になっただろ。それで、またカラスに戻ることになる。そうしたら、今度のクリスマスが終わるまで、また人間の姿に戻してやることができない。変身魔法は、クリスマスとクリスマスの間に、一往復だけだ」

プチさんは本当に申しわけなさそうです。

「じゃあ、絶対にヤダ! だって、今度のクリスマスはすずと一緒に過ごしたいのに」

「そんなこといわないで、助けてくれよ。小人たちがいないと、プレゼントをもらえない子どもたちが悲しむことになるんだ。お願いだ」

「そんなこと、知るかよ。俺はすずと片時も離れたくないんだ」

やまちゃんは、腕組みをして、かなり怒っています。

「ああ、そうか.....わかったよ。だったら、たったいま、おまえを拉致して、サンタクロースのところまで連れて行って、無理矢理にでもおまえをカラスの姿に戻してから、羽毛をむしり取ってやってもいいんだよ。それでそのあとは、もう二度とおまえを人間の姿に変えてやることもないだろうがな」

そういうプチさんの顔は、やまちゃんがいままでに一度も見たことがない、おぞましく怖しいものでした。

「脅すのかよ! なんなんだよ。みんなの憧れの存在のサンタクロースが、そんなことをやってもいいのか?」

「背に腹は代えられない。サンタクロースが使命を果たせないと、この世から消滅してしまうそうだ。もしそうなれば、おまえは否応なしにカラスの姿に戻ることになる」

「本当かよ? このまえはそんなこと、ひとこともいってなかっただろ」 

「サンタクロースもいろいろな文献を読み漁り、そうなんだということを初めて知ったそうだ」

「俺に選択の余地はないってことか......」

やまちゃんは深いため息をつきました。

「......わかったよ。それで、いつ俺はカラスの姿に戻ればいいんだ。できれば、できる限り先延ばしにして欲しいんだけど」

「わかった。サンタクロースに訊いてみる」

プチさんはサンタクロースと頭のなかで話をしています。

プチさんの表情はたちまち曇っていきました。

「やまちゃん。サンタクロースが、『本当に申しわけない。ありがとう』と涙声だったよ」

「やめろよ。なんども同じ失敗を繰り返すあのくそジジイが、涙ぐむなんてあるわけないだろ」

「本当だって......」

そういうプチさんは、目が泳いでいます。

「それで、すまないが、すぐに俺と一緒に来てくれないか?」

「えっ! いまからか?」

「すまん。事態は一刻を争うんだ」

「すずにお別れもいわずにか?」

「本当にすまん」

「......わかったよ。けど、せめて置き手紙だけでも残していいか」

やまちゃんは、ペン字の練習もしていたので、いまではかなりきれいな字を書けるようになっていました。

すずへの熱い想いを手紙にしたためます。

突然いなくなること。また、その理由をはっきり伝えられないことへの、謝罪のことば。
すずが好きだ、という自分の想い。
そして、またかならず、すずのもとに帰ってくる、という約束のことば。

やまちゃんは、すずに見つからないように隠していた現金を、手紙の横に『遠慮なく使ってくれ』ということばと一緒に残しました。

帯つきの一万円札の束が、七つほどありました。

やまちゃんは、すずの匂いがまだ色濃く残る部屋のなかをぐるりと見まわします。
やまちゃんの胸の奥が、キュンと鳴りました。

そんなやまちゃんの姿を見つめていて、なかなかいい出せなかったプチさんが、やっと口を開きます。

「やまちゃん、もういいか?」

「ああ......」

やまちゃんは、いつものお気に入りの場所で、虚ろな目で力なく佇んでいます。

サンタクロースは、クリスマスの翌日には、やまちゃんを必ず人間の姿に戻すと約束してくれました。

けれど、二度もすずのまえからいなくなった自分のことを、すずが笑顔で迎えてくれるとは、やまちゃんには到底思えませんでした。

「やまちゃん。いったい、いままでどこにいたんだよ? 」

はしちゃんは、何ヶ月もやまちゃんを探していました。

季節は、夏から秋に移り変わっていました。

実はやまちゃんは、はしちゃんを街で見かけるたびに話しかけていたのです。

けれど、はしちゃんは、それがやまちゃんだと気づくはずもありません。
人間になったやまちゃんは、カラスのことばが話せませんでした。
はしちゃんは、『なんか変な人間が、俺に向かって手を振りながら、大声で叫んでるよ。気持ち悪っ!』そんなふうに思っていたのです。

「それに、そのからだはなに? まえみたいにハゲてるじゃん。とっくに羽毛は生え変わっててもおかしくないのに」

「ああ、俺はハゲカラスだよ、はしちゃん......」

「ところで、やまちゃん。お土産は、どこ?」

「ごめん、はしちゃん。お土産はないんだ......」

「プチさんと話してた約束って? 帰ってきたら、教えてくれるっていってたよね?」

「本当にごめん、はしちゃん。それは、お願いだから忘れてくれないかな?」

「やまちゃんが話したくないんだったら、無理には訊かないけど......」

「ありがとう、はしちゃん」

「やまちゃん......どうしたの? いったいなにがあったの?」

はしちゃんは、なにかとんでもないことがやまちゃんの身に起きたんだということは、簡単に想像がつきました。
なにしろ、はしちゃんはやまちゃんとは付き合いが長いですから。

「はしちゃん、人間って大変なんだな」

「どうしたの、やまちゃん。急に人間って大変なんだな、なんていうなんて」

「俺たち、お腹が空いたら食って、眠くなったら眠ってさ。なんにも、先のことまで考えなくてもいいだろ」

「うん、そうだな。人間たちは、毎朝、決まった時間に同じ方向に出かけていって、夕方になると、また決まった時間に、今度は逆方向から帰ってくる。出かけるときも、帰ってくるときも、みんな冴えない顔してるもんな。まったくなにが楽しいんだか。朝、コーヒーっていうやつを飲みながら歩いているときくらいだよ。すこしだけ幸せそうな顔を見せるのは」

「けど、人間っていいもんだと思うよ」

「えっ、なに? やまちゃんまるで人間をよく知ってるみたいに」

「いいや。けど、そんな人間たちのなかにも、未来を信じて、生きているやつもいるんだと思うよ」

「未来ね......俺たちカラスには明日のことなんてまるっきりわかりゃしないよ。なにしろ俺たちは真っ黒なカラスだから、お先真っ黒なんちゃって」

「はしちゃん。それをいうなら、お先真っ暗だよ」

「そう、そうだった。やまちゃんよく知ってるね」

「はしちゃんこそ、よくそんなことば知ってたね」

「エヘヘっ、照れるなぁ」

「別にそんなに褒めてないし。間違ってたし」

「とにかく、やまちゃんが無事に戻ってきてくれて、俺、本当にうれしいよ」

「ああ、俺もはしちゃんにまた会えてうれしいよ」

「俺たち、マブダチ。朝立ち、酒断ち、いい日に旅立ち。イェーイ、チェケラッキョ」

「はしちゃん、なんか懐かしいね。サンタクロースのあのくだり......やめてよ。思い出しちゃった」

「リクエストにお応えして、まだまだ行くよーっ!」

「はしちゃん、もういいってば」

いまのやまちゃんは、はしちゃんがこうしてそばにいて、くだらない話をしてくれるだけで、涙が出るほどありがたかったのです。



すずは、やまちゃんのいない部屋で、やまちゃんが残していった手紙を読み返しています。

今日、すずは会社をお休みして、病院で診察を受けました。

突然、いなくなったやまちゃん。

すずは、一時は、本当に深い悲しみのなかにいました。
けれど、やまちゃんは、またかならず戻ってくる、と置き手紙のなかにしたためていました。

すずは、『やまさんにきっとまた逢える』と心から信じています。

「かならず、逢えるからね......」

すずは、軽く手を添えた自分のお腹に、ささやくように優しく話しかけました。

〈了〉



約13000字のこの作品。三話通して、約35000字にも及ぶこの物語を、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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