禅語の前後:無(む)
禅の言う「無」というのは、たんに何にもないということではなく、もっと深いものだそうだ。
「どんなものでも仏なんですよね、じゃあ、あの犬も仏なんですか?」と問われたときに、趙州という禅僧は、ただ一言「無」と答えたという。
どうも、あるとかないとか、そういうところじゃない何か、を言いたいがための「無」なのだそうだけど…わかったような、わからないような。
漱石先生の言う「趙州曰く無」というのは、このエピソードのことを指すようだ。
「夢十夜」ではこの「無」について、「わけがわからないよ」と、わからないものをわからないままに、ごくごく素直に描写がされている。夢を描いたこの短編集の第二夜、僧に侮辱された侍が命懸けで「無」に挑むが、つかみきれない、あぁこれはもういよいよ切腹か、という緊張のてっぺんで、話はぶっつり終わる。
わけはわからないけれども、命懸けで臨まないとならない、「無」というよりほか仕方のないものが、この世には確かに有るのだと、そういう表明のようにも思える。
「無」について作品にしているのは、何も明治の文豪だけでない。ヘミングウェイの短編にも、印象的な「無」が出てくる。
彼が趙州の「無」を知っていたとは考えにくい。このノーベル賞級の文豪は、たぶん独りでそこまでたどり着いたんだろう。
キリスト教徒のもっとも基本的な祈りの言葉、「天にましますわれらの父よ」で始まる主の祈りを、ヘミングウェイは酔っ払いの冗談めかして「無」への祈りに置き換えている。
この作品は英語で執筆されているが、このくだりの「無」は英語の”Nothing”ではなく、スペイン語の"Nada"と綴られている。おそらく、無ではないが「無」としか言いようのない神聖な何かについて、彼にも表明したいことがあったのだろう。