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禅語の前後:大善知識還入地獄也無(だいぜんぢしきも また じごくに はいるや いなや)

 中国産SF小説「三体」の続訳「黒暗森林」が出た。さっそく読んでいたら、意外と禅モチーフが多かった。現代中国の作家さんも、禅を良く知るものか(それとも、この作家さんが少し変わっているのかもしれない…銀河英雄伝説も引用してるし…)。
 作中のキーワードになる「面壁めんぺき」は本来、壁に向かって座禅する禅僧の修行スタイルを指す言葉だし、メインキャラのひとりジャン 北海ベイハイのクライマックスシーンには、著名な禅僧である趙州じょうしゅうのエピソードまで出てくる。

「つまり、『われ地獄に入らざればだれか地獄に入らん』(唐代の禅僧・趙州従の言葉より)と?」東方延緒は大きな声で言った。
「軍人になったその瞬間から、地獄に行く覚悟はできている」章北海は武器の発射前操作をつづけながら言った。操作には不慣れなようだが、どのプロセスにもミスはなかった。
 東方延緒の目に涙があふれた。「いっしょに行きましょう。中に入れてください。地獄にお供します」
三体Ⅱ 黒暗森林(下)、劉 慈欣 作、大森 望・他 訳

 二百年の冷凍睡眠コールドスリープから目覚めた旧時代ロートルの軍人が、宇宙育ちの現役将校たちを出し抜いて宇宙戦艦の操艦を奪い、自ら罪を背負おうとする。おぉ、いぶし銀のかっこよさ…さすが中華文学、層が厚い…ええと、けど、趙州のそのエピソードは、僕も知らないな…。
 と思って、原典がどこにあるのかを調べていたら、思わぬところにまで辿りついた。

12世紀、趙州録の「地獄」

 どうも、このやりとりが本来の形らしい。12世紀の書物にある。

崔郎中問。大善知識還入地獄也無。
師云。老僧末上入。
崔云。既是大善知識、為什麼入地獄。
師云。老僧若不入。爭得見郎中。

さい郎中ろうちゅう 問ふ、大善知識だいぜんぢしきた地獄に入るやいなや。
師 云ふ、老僧 末上に入る。
崔 云ふ、既に是れ大善知識なるに、なんぞとて地獄に入る。
師 云ふ。老僧 もし入らずんば、いかでか郎中を見ふを得ん。

趙州録 第一八二段

さい」は人名、苗字にあたる。「郎中」は古代中国の官職名で、皇帝の護衛にあたる役目。日本江戸時代の旗本くらいのものらしい。
大善知識だいぜんぢしき」は高僧に対する尊称、なのだけど、どうもこの最初の質問は慇懃無礼に聞こえる。「和尚さんも地獄に行くことはありえるのかい?」というような調子である。
 対する老僧 趙州の返しには、ずいぶんスパイスが効いている。「えぇ私なんざ最初に地獄行きですよ、だって先に行っとかないと、むこうであなたに会えないでしょう?」という、強烈なレシーブである。

 この則の要点は、相手のレベルが余りにも低く、地獄落ちはまちがいないという、趙州の判定にある。相手のレベルが余りにひどいから、趙州は非常に辛辣な言い方をしているだけであって、「あなたのために、自らの身を呈して、地獄までおつきあいしましょう」と言っているのではない。(中略)要するに、この則は、余りにひどい相手に対する痛烈なしっぺがえしであって、禅者の「大慈悲」とは何の関係もない。
「唐代禅思想研究」第2部 第1章 趙州の禅風、村上 俊

 「もろともに地獄に行く覚悟で弟子に対する、やさしくきびしい理想の師匠」というような姿は誤解であって、原典を見る限り彼は本来かなり厳しい辛口の切れ者であり、理想の師匠などというのは後世の美化にすぎないのだと、原典を添えてそう言われると、なるほど納得ではある。

13世紀、五灯会元の「地獄」

 百年ほど時代を下ると、アンソロジーとして編集された趙州の言葉は、すこし変化していた。

官人問:「和尚還人地獄否?」
師曰:「老僧末上入.」
曰:「大善知識爲甚麼入地獄?」
師曰:「我若不入,阿誰教化汝?

|五灯会元《ごとうえげん》 続蔵版

 話の筋は同じなんだけど、最後のひと言が印象をがらりと変えてしまっている。趙州録じょうしゅうろくでは「まみえる」としか言ってなかった趙州が、五灯会元ごとうえげんでは「教化きょうけ」、仏の道に教え導く、と言ってしまっている。
 ここまで言ってしまうと、前述の「誤解」が「正解」に変わってしまう。後の世代の禅師たちの敬愛の念が、地獄に飛び込んででも衆生を救うスーパーヒーロー大老師趙州を生み出してしまったようだ。

「三体」原文の「地獄」

 どうにも気になったので、「三体」の原文にどう書かれているのかも確認してみた。

你不下地狱谁下地狱,是吗?”东方延绪大声说。
(三体Ⅱ 黒暗森林、劉 慈欣)

「つまり、『われ地獄に入らざればだれか地獄に入らん』(唐代の禅僧・趙州従の言葉より)と?」東方延緒は大きな声で言った。
三体Ⅱ 黒暗森林(下)、劉 慈欣 作、大森 望・他 訳

 該当する箇所は、「三体」原文では「你不下地獄、誰下地獄」という表現になっていた。原文では趙州については何も書かれていないし、「趙州録」とも「五灯会元」とも表現が違う。どうもこれは禅語ではなくて、現代中国で使われる一般的ないいまわしイディオムを変形させたもののようだ。

「我不下地獄、誰下地獄」は、中国語のイディオムである。文字通りに解釈すると「われ地獄に入らざればだれか地獄に入らん」。私がやらねば誰がやる・私が助けなければ他に誰が助けるのか・自身を犠牲にして他者を助ける、といった意味になる。
Wiktionary英文より拙訳)

地蔵菩薩の「地獄」

 ではいったいこの「我不下地獄、誰下地獄」の出典は何なのだろう、と調べてみた。「地蔵本願経」というお経にこう書かれている…と、中華版Wikipedia・中華版Yahoo知恵袋的なサイトに記載があった。

 佛教《地藏本愿经》说地藏接受了释迦涅槃前的重托,立下“地狱不空,誓不成佛;众生度尽,方证菩提”;“我不入地狱,谁入地狱”等宏誓大愿。

 地蔵本願経という仏教の経典によると、地蔵はお釈迦さまの前でこう誓ったのだそうです。「地獄が空になるまで、私は成仏しません。生者が尽きるまで、私は菩薩にはなりません」「私が地獄に入らなければ、誰が地獄に入るというのでしょうか
百度百科中文より拙訳)

 円環の理みたいな、壮大な話である。地獄に落ちる全員を救うだなんて、因果律そのものに対する反逆である。
 …だけれど、その「地蔵本願経」原文をひととおり確認しても、この言葉そのものは見つけられなかった。あるいはこれは、原典の不明確な通説なのかもしれない。

まとめると

 憶測も混ざるけれど、

1.「お前は地獄行きだ」という意味の皮肉だった趙州の台詞
 ↓
2.「地獄に付き添ってでもお前を助ける」という老禅師の言葉
 ↓
3.「地獄にいる全員を救ってみせます」という地蔵菩薩の誓い
 ↓
4.「われ地獄に入らざればだれか地獄に入らん」

 という順番で言葉の意味合いが変化し、最終的には現代中国で使われる言い回しになった、というのが、全体の流れではないかと思う。

 趙州ご本人が聞いたら、何と言うだろうか。どうせきっと、何も言わずに草履を頭に載せて去っていったりとか、するんだろうな。

>参考(引用以外):
・多愁多恨亦悠悠(霜山徳爾)
光禄勲(Wikipedia)

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