人間の心の変化と、時代の変化。


武信稲荷神武信稲荷神社(京都)。

一昨日、奈良に行った時、興福寺の近くの商店街にカメラ屋があり、店頭に、レトロな中古フィルムカメラと、オシャレな新品のフィルムカメラがずらりと並べられていた。
 おしゃれなフィルムカメラの価格は2万円以下。レンズも機能も大したことがない。
 けれども、若者にすごく人気があるのだそう。少し前からFUJIのインスタントカメラが世界中で大人気だったので、その延長か。
  簡易なフィルムカメラは、”エモい写真”が撮れるらしい。ちょっとピントが緩くて、ゴーストが入りやすくて、手ブレ補正もない。レンズがクリアでないから、写りは、なんとなく温かい。
 さらに、最近は、デジタルカメラで撮ってもエモい写真になるよう、特性のフィルターも販売されている。
 カメラメーカーは、クリアで明るいレンズに価値があるのだよとカメラ愛好者を洗脳して導き、レンズだけで何十万円もするものを買わせている。重くて嵩張るだけなのに。
 エモいというのは、心が揺さぶられて、何とも言えない気持ちになることらしい。 ただ単に、綺麗とか、嬉しい、悲しいという気持ちだけではなく、寂しい、懐かしい、切ないという気持ちや感傷的、哀愁的、郷愁的などしみじみする状態も含んでいる。
 つまり、現代風の「もののあはれ」か。
 歴史というのは、けっきょく、ぐるぐると回って、同じところに戻ってくるのだろうか。
 クリアすぎる描写にリアリティを感じられないというのは、私もよくわかるし、長いあいだ、ずっとそう感じていた。
 だから、8年前からピンホールカメラで撮影を続けてきた。

武信稲荷神武信稲荷神社(京都)。 樹齢約850年の榎の木。 平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移したと伝えられている。幕末の頃、京都見廻組や新撰組などから命を狙われ身を隠していた坂本龍馬。彼の妻となった楢崎 龍(ならさき りょう)は、二人がよく会っていた武信稲荷神社の榎の木(左ページの写真)に「龍」と刻まれた字を見て、龍馬が生きていると知り、再開を果たすことができたというエピソードがある。

 写真だけでなくテレビでもそうで、家電売り場で巨大なテレビに鮮明な画像が映し出されているのを見るたびに、こんなものを家の中で見続けていたら、視覚がおかしくなってしまうのではないかと思っていた。
 視覚というのは環境に慣れてしまうから、目に強い刺激ばかり与えていると、微妙なものが見えなくなってしまう。
 それ以前に、目が疲れてしまいそうだ。また、クリアすぎる画像というのは、想像力のスペースを無くしていくため、脳味噌の細胞が、死んでいくような感じもする。
 生まれた時から家の中にパソコンがあるのが当たり前の環境(ウィンドウズ95が発売された後)の中で育った人たちをZ世代と呼ぶらしい。
 だから28才以下ということになるが、まあ幼年期にパソコンが家の中にあっても大した変わりはないだろうから、33才くらいまでが当てはまるのではないか。
 この世代は、それ以前の世代と異なる特徴があるらしくて、その一つが、エモいものに対して心惹かれることだそう。
 この世代の下には、生まれた時からAIが当たり前のように存在していた人たちが育っていくことになるが、そうなってくると、便利なだけの物には、もはや価値を感じなくなるだろう。
 AIが人類社会に与える影響について、いろいろ議論されているのだが、AIが広まっていくことで生じる人間の心の変化が、その議論の中に反映されていない。
 AI環境の中で育つと、分別くさい選り好みもAIが簡単にやってしまうので、計画的なものや必然的なものに価値を感じることがなくなっていくだろう。そして、もしかしたら、「意のままにならないもの」のなかにこそ面白みや愛着を感じる人が増える。それは、二日前に書いた「いきの構造」の美学でもある。
 これは、日本文化が、長い時間をかけて耕してきた思想であり、美意識だ。
 そして、世の中の変化というものは、美意識が先導していく。美意識の次に思想、そして政治が後に続く。だからこそ、変化の切っ先には、芸術があった。
 しかし近年は、これが逆になっていて、政治が作った現実社会のことをあれこれ分析するのが思想になっていて、その思想をコンセプトにして形作るのが現代アート、さらにそうした政治と思想とアートの現状を評論家がなぞり、メディアが増幅している。
 だから、アートや思想は、新たな美意識を先導して世の中を変えていく力になっていない。
 簡単に言うと、アートや思想は、「私たちが生きている世の中はこうですよ」というのを、いろいろな角度から見せているだけ。この現代の枠組みの中で堂々巡りしているのが、自称表現者であり、自称学者だ。
 おそらく、今後、新たな美意識の作り手になっていく人たちは、こうした思想的現状、アート的現状に、まったく関心を払っていないだろう。
 彼らのアンテナは、エモさ。こうした安易なキーワードが、一種の流行になって広がって画一化していくというのは、いつの時代でも起こることだけれど、エモさは、「心が揺さぶられて、何とも言えない気持ちになること」であるため、詭弁家の評論家が、あれこれ評価付けをしても意味がなく、一人ひとりが、正直な心で、どう感じるかだけの問題となる。
 一人ひとりが、裸の王様に対して、あれは裸だと判断することが、世の中を硬直させている権威の牙城を崩していく力になる。
 世の中がこうだから、周りの人がこうだから、偉い人が言っているから、といったものはノイズにすぎない。広告キャッチにつられてしまうなんて、ナンセンスの極致であり、人生を虚しいものにしてしまう。
 周りのノイズに邪魔されずに、一人ひとりが、自分自身の心の声に耳を傾けるようになると、世の中は、かなり変わってくるだろう。
 現代社会は、自分の心の声は我慢しなければいけないものというバイアスもかかっているのだが、本当に我慢しなければいけないものなのかという声も、心の中には生じているはず。
 以前なら「自分に正直に生きる」などと言うと、”エモい奴”とネガティブに受け取られたかもしれない。
 その意味は、「世の中のことをわかっておらず、うまく立ち回れない不器用で面倒臭い(うざい)奴」ということだった。
 「面倒臭いフィルムカメラなんか使わずに、便利なデジカメを使いこなせばいいでしょ」というドライさが”スマート”(賢い)ということで、それが、世の中の価値観であり潮流だった。
 そのため、フィルムは、より割高になり、それを使う人は、さらにエモい奴にならざるを得なかった。
 流れが変われば、今よりフィルムは安くなるかもしれない。そうすると、さらにその流れは、大きくなるかもしれない。

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