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駅の階段から落ちた。

2020年11月24日。
駅の階段から落ちた。

その直前まで、私はナチュラルハイ状態だった。
クライアントから来た突然のヘビーな修正、明日の打ち合わせに向けてのあれやこれや、明後日の締め切りの資料もまとめないと。
いつも1本の電話やメールで、スケジュールがグシャッと崩れてしまう。
やばい、でも、できる。ヤバイ、デモ、デキル!絶対に。

「できない」に気持ちが傾かないよう、私は全力で「できる」イメージだけに集中した。そうして、駅の中を歩いていると、

「あ、」と思った時には、履いていたブーツが階段にひっかかり、
固いコンクリートに膝を何度も打ちつけながら階段を落ちていった。

一瞬のことだった。
7段ほど落ちて、階段の踊り場で止まった。

膝の痛みは言うまでもなく、踏ん張ったのか腕は筋肉痛で、特に親指の爪が痛かった。
「大丈夫!?大丈夫!?」
遠くから優しいおばさんが駆け寄ってくれた。
「大丈夫か〜。誰か、人でも呼んでこよか〜?」と清掃員のお爺さんも声を掛けてくれた。
お爺さんの方は心配してなくはないが、ここの掃除の続きをしたいんだけどって気持ちがどうしても漏れてた。

立ち上がらなければ…そう思ったけど、全然立ち上がれない。
なんとか膝に手をつき、全力で走ったランナーがゴールした後にやるような中腰の姿勢にまではなった。
その姿勢のまま「大丈夫です…ありがとうございます…」と二人に言った。
そういうと、おばさんは良かったと言って去っていき、おじいさんは掃除の続きを始めた。
周りの世界は、通常通りに動き出した。

それでも、わたしはその姿勢のまま、階段の真ん中で俯いていた。

そして、「もうダメだ」と思った。
「もうなにもできない、もうどうだっていい。」

わたしの心は完全に挫けた。
ついさっきまでの、ナチュラルハイな自分とは完全に別の人間だった。

自分で言うのはおかしいが、根性はある方だと思う。
実の母も私にそう言っていたし、多少の理不尽は仕方ないと奥歯を噛み締めながらも何とか最後までやるタイプだと自分では感じていた。

でも、今は違う。
心の底から、理不尽なことにもう付き合ってられないと思った。
勝手にしやがれと心底思った。

ズボンの中で、ツーと血が脛をつたう感覚があった。擦りむいた膝から血が出てるのだろう。でも、ジーンズの上から見ても、それはわからなかった。ズボンの中はどうなっているのか、自分自身のことでも傷口を見ない限り、どれくらいの傷かはわからない。

人生も同じかもと思った。
と同時に、わたしはけっこう傷ついてるのかもとも思った。

痛みを我慢しながら、ホームへ向かった。
たくさんの人が行き交う中で、立ち止まっていることは憚られた。
電車にのると、膝や手がズキズキする。
「もう本当に無理だ。明日からの予定は何もかも放棄しよう。」
その時の私は誰に何を言われても、そうしようと強く決めていた。

そんな気分のまま、電車は自宅の最寄駅に着き、足を引きずりながら、階段を登ってまた降りた。

その時、春田からの電話が鳴った。春田の電話にでた瞬間、私は言った。

「さっき、駅の階段から落ちた。痛すぎて…」もう何もかもダメだと思ってると言おうとした瞬間、春田が大きな声で笑った。
「あはははは!風川、大丈夫?」
あれ、笑うとこ?これ、笑えるの、実は?そして、春田が続けて
「ごめんごめん、ケガは?大丈夫??」と慌てて春田が聞いた。
「大丈夫じゃないよ。めちゃくちゃ痛い。もう全てのやる気がなくなるくらい痛い。でも、骨は折れていないと思う。」と答えると、「あははは!よかった」とまた春田が笑うので「笑い事じゃないよー」と言いながらも、私も釣られてちょっと笑っていた。
「全てのやる気が吹き飛ぶ痛さだよ…」と言ったら、「気力が膝から全部流れ落ちたね、絶対」とか言って春田のいつもの適当節が炸裂した。
それでも、今日は妙に納得した。

「用は何だった?」と聞くと、「いや、ちょっと気持ち落ちてたんだけど、階段からホントに落ちた人に比べたら、大したことないわ。」と春田は笑って、ちょっと談笑してから電話を切った。
膝から流れ出た気力が、少し戻ったような気がした。
ああ、これは笑えることなのか。そう思ったら、気持ちがちょっと晴れた。

それから数日かけて、膝のあざは青から深い紫になり、黄色になり、だんだん薄くなって肌の色に戻った。

膝から抜け出た気力は、時間をかけてまた私の体に戻ってきた。
そのおかげで、私は仕事を放棄せずに何とか山場を乗り越えた。

それでも、階段を落ちた前の自分とは、どこか違う気がしている。
私は、今まで見えていなかった自分の痛みにようやく気づいたのかもしれない。

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