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努力しない興味は「興味」と呼べるのか?|デューイ『民主主義と教育』(10章: 興味と克己 Interest and Discipline)

近年、教育現場では「興味・関心」という言葉が、一つのバズワードになっている。例えば、文部科学省・中央教育審議会の「令和の日本型学校教育」という答申には、「興味」という言葉が97回も出てくる。また、経済産業省の「未来の教室」が示すビジョンにおいても、「ワクワク」との出会いを重視しており、提言の中では「興味関心」という語が頻繁に使われている。

しかし、こうした答申や提言を読んでも、興味・関心とは一体なにか?については解説してくれない。そこで今回紹介するのが、ジョン・デューイ『民主主義と教育』の第10章「興味と規律」(Interest and Discipline)である。特に第一節では、興味の本質と、教育上の重要性が語られている。現代の教育改革が、デューイの影響を深く受けていると語られる所以である。

ここで注目してほしいことは、興味 (Interest) が、克己 (Discipline)とセットで語られていることである。通常、「興味」という語は、「遊び」や「楽しさ」「わいわい」といった語と連想されるものでろう。したがって、「仕事」「厳しい」「もくもく」といった語と連想されがちな「克己」とは真逆であると感じる人が多いのではないかと思う。ところが、デューイは興味と克己の間に深いつながりを見出したのである。

結論を先取りしておくならば、私は、デューイは「努力を要しない興味は、興味とは言えない」と考えていたのではないかと読んだ。興味・関心を重視した教育が、移り気な学習者の「楽しい」という感情にのみ寄りかかってしまうと、「這い回る経験主義」に墜してしまう。アクティブ・ラーニングが子どもたちの成長に繋がるためには、興味と克己を両輪として考える思考法が必要なのである。子どもたちが笑顔で活動し、しかし実のところ何も学んでいないという結果に陥らないためにも、デューイの興味論は、教育に携わるものにとって、現代でも未だ有効である。

1. 興味についての考察

興味の本質は、物事にエージェント (Agent) として関わることにある。エージェントとして関わることの条件としてデューイは2つの点を挙げている。第一に、ある物事の予見された結果に気遣いや不安があること、第二に、進行しているプロセスに多かれ少なかれ、関与することができることである。デューイは例として、「雨が降り続けば駄目になる翌日の遠足を計画した人」を挙げる。ここでは、雨が止むかどうかは計画に大きく影響し、かつ計画を変更することができる立場にいるために、2つの条件を満たす。

事件の結果に関与する者の態度は二面的なものである。すなわち、一方には将来の結果に関する気遣いや不安があり、他方には、よい結果を確かなものにし、悪い結果を避けるように行動しようとする傾向があるのである。

ここで注目すべきは、「興味」の本質には二面性があることだ。デューイは、予見された結果に関する側面を「知的」といい、人間が物事をよい方向に変えるため行動する側面を「意志的」と呼ぶ。私たちは普通、興味という語を、デューイのいう知的興味の側面から理解する。そして、デューイが意志的興味と呼ぶものを見落としてしまう。デューイがこの章を「興味と克己」と名付けたことの意味を直観的に理解できないのは、教育の場面で「興味」という語を使うとき、意志的側面をついつい忘れがちであるからなのかもしれない。

結果に関与する人間には、同時に人間側の反応がある。想像の上で予期された本来の相違が現在の相違を産み出し、それが気遣いや努力となって現れるのである。

これら2つの興味は融合している。というのも、人間の行動によって情況は変わり、情況が変わればまた人間の行動も変わるという仕方で、両者は分かち難いからだ。だから、両者を分けて、意志的興味だけを引き出そう等と企てても意味はない。しかし、興味に2つの側面があることを理解しておくことは、教育実践上、非常に重要なことだろう。

続いて、興味の意味を分解すると3つの側面を取り出すことができるとデューイは整理していく。

(a) 仕事や研究テーマ等の関心事
(b) ある対象に専心し夢中になっていること
(c) 利害関係(Interest)

デューイは、興味の多様な側面を前提にせず、興味=利害関係とのみ捉えることに注意を促している。もし利害関係であるならば、生徒に快楽を与えて学習に取り組ませればよいことになってしまう。例えば、勉強したら飴をあげるといって勉強させれば、生徒は勉強に興味を持つかもしれませんが、それはあくまで利害関係としての興味でしかない。興味を持たせるには、目的の望ましさ、及び、足許の活動が結果として目的に繋がることを学習者に気付かせることが重要だ。ここは、心理学でいう「内発的動機づけ」や「外発的動機づけ」といった概念に対応している。

では、どうしたら興味を引き出す教育実践ができるのか。デューイは、興味を引き出すために、2つのポイントを指摘する。第一に、学習者が取り組む行動が、「予見され欲求された目的に発展すること」だ。いいかえれば、ある学習活動に取り組むとき、それがうまくいった場合にどんな未来が待っているかを学習者が理解し、かつその未来を学習者が欲していることが重要である。しばしば、探究学習の実践では「やらされ感」をどう回避するかが問題になるが、学習者が欲していないテーマ設定をしてしまうといくら教師にやる気があっても興味は引き出せない。2つ目は副次的なポイントになりますが、目的との連関が実在していても学習者がそれに気付いていないと意味がない。そのため、デューイは明確に「実在するその関連を悟らせるように人を指導する」ことは全く正しいと指摘している。

2. 克己についての考察

続いて、克己 (Discipline) という語の考察に移っていく。なお、翻訳書では、Disciplineを訓練と訳しているが、私は克己という語を当てている。以下でみるDisciplineの本質としてデューイが取り出したものを見れば、訓練よりも克己のほうが正しいと思われるからである。

まずデューイが確認するのは、「活動に時間がかかる場合、つまり、活動の開始と完成の間に多くの手段や障害が存在する場合には、熟慮と粘り強さが必要」ということである。ここにデューイは意志 (will) の必要性を見出す。なぜなら、意志を持っているというのは、「自分の目標を実行し、達成するために粘り強く成長的に努力する」からである。ここで意志にも2つの側面を見出せる。

(1)意志は「結果の予見」に関わりがある。なぜならば、意志ある人は計画的に行動するからである。それは、ただ単に強情な人とは異なる。意志ある人は「自分の目的を熟考する人であり、自分の行動の結果についての自分の考えをできるだけはっきりした完全なものにする人」である。したがって意志には、結果の予見が不可欠である。デューイは、強い意志と弱い意志の主な相違は知的なものであって、それはどれほど粘り強く十分に結果を考え抜くかに依存するとまで言っている。

(2)意志は、予期された結果が行動を導くことを必要条件として持つ。なぜならば、結果をただ頭の中で描き出すだけ行動しなければ、意志のある人とはいえないからである。結果を変えるために行動をせず、代償行動を起こすだけならば、それはただ単に「好奇心」があるだけなのだとデューイは手厳しい。

デューイは、以上の意志の2つの側面に、もう一つを加えて、克己の本質とする。その一つとは「企てた行動を貫徹するために有効な手段を使いこなすこと」である。自分が何をしているのかを知る能力を発達させ、ものを成し遂げるために粘り強く努力することが、克己なのである。

3. 興味と克己の関係

当初、つながりが薄いと思われていた興味と克己にある関係が少し見えてきた。興味と克己の関係をより一層明確な形で考察していくことにしよう。

ここでのテーゼは、「興味なき克己」はありえないということである。なぜならば、興味がないとき、人は事態の結果がどうなるかに心を奪われていないため、結果を予期しようとしても機会的になってしまうからである。さらに、興味がない場合、粘り強く実行し続けることも難しいだろう。義務感でも粘り強さは持てるが、通常は興味を持って仕事をする人を、義務感で仕事をする人よりもよいとするものである。

デューイは明確には述べていないが、「克己なき興味」もまた、極めて難しいということを確認しておこう。興味の本質は、物事にエージェントとして関わることにあった。そして、エージェントとして関わるのは、物事の行く末に関与できる立場にあることが条件であった。そのため、関わっている物事が長い時間を要し、その間に色々な苦労や、その物事以外の誘惑がある場合は、克己なしには物事を成し遂げられない。それゆえ、克己なき興味とはいまこの一瞬で終わる行動にしか持つことがありえないものである。もしプロジェクト学習をするならば、生徒はその間に困難を経験し、その困難を乗り越えることによって、初めてそのプロジェクトに興味があるとみなされるのである。

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